第334話
翌日。
朝食を終えたあと、フィリップたちは予定していた通り、全周10キロあるという湖の周りをぐるりと回ってみることにして、既に半分ほどを歩いていた。湖面は相変わらず汚らしい緑色に濁っていて、風が無いと腐ったような悪臭が漂ってくる。
エレナは昨日学んだ通り、炭を使った防臭マスクを付けていた。
昨日の即席で作ったやつとは違い、ちゃんと喋れるように改良されている。
湖に更なる異常は無いかと目を向けていたとき、ふと昨夜のことを思い出したフィリップは、「そうだ!」とエレナを指差した。
いきなり指を突き付けられて面食らったエレナが戸惑いも露に「え、な、なに!?」と、自分の更に向こう側を振り返った。違う。そういうことじゃない。
「エレナ、昨日の夜叫んでたでしょ。ベッドを借りてるんだから、管理人さんに迷惑かけちゃ駄目だよ。僕もちょっと煩かったし」
まぁフィリップは彼女が叫ぶ前に勝手に目が覚めていたので、そんなに怒ってはいない。
とはいえ彼女はコテージを貸してくれたエレーヌと同じ部屋、隣のベッドで寝ているのだし、あまり五月蠅くすると叩き出される可能性だってある。……温厚なエレーヌがそんなことをするとは思えないけれど、だからこそ、恩を仇で返すべきではないだろう。
そう思っての言葉に、エレナは答えなかった。
そんなことより大事なことがあると言わんばかりの反応で、ぱちりと指を弾く。フレデリカの真似だろうか。或いはフレデリカの真似をしているフィリップの真似か。
「え、あ、そうだ! 言われて思い出したけど、昨日ボク、気が付いたら玄関に立ってたんだ!」
何言ってんだこいつと言いたげな顔になるフィリップだが、嘘だとまでは思っていない。エレナはこういうとき、妙な言い訳をせずさっぱりと謝るタイプだ。
それに、昨夜の奇声がトイレではなく湖の臭いに宛てられたものだったとしたら、多少は納得できる。
とはいえ、やっぱり言っている意味がよく分からない。
「寝惚けて……ってことはないよね。エレナ、寝起きはいい方だし。なんだっけそういうの……白昼夢じゃなくて……夢遊病? あれって突発的に発症するの?」
「分かんない……。でも、凄く変な夢も見たし、病気なのかな……? 帰ったらフレデリカさんに見てもらうよ……」
医学方面ならステファンの方が専門なのだが、まぁフレデリカでも、自分で無理だと思ったら師匠を頼るだろうし大差は無いかと何も言わないフィリップ。
そんなことより、だ。エレナがそうだったように、フィリップにも、そんなことより気になることがあった。
「ふーん、どんな夢?」
「どんな、って言われると思い出せないんだけど……でもなんか、湖の方に呼ばれたような……ごめん、分かんないや」
フィリップはなんか嫌な予感がするなぁ、なんて思いつつも、ここ最近の穏やかで平和な──戦闘こそあったものの、人類圏外の存在の影も形も無かった時間を思い返して、「まさかね」なんて甘い考えを持ってしまう。
──まぁ、とはいえ。
フィリップが今すぐに意識を切り替えられたとしても、未来が大きく変わることは無いのだけれど。
「……なるほど? なんか怪物とか出てこなかった?」
一応ね、と誰にともなく心の中で言い訳しつつ尋ねると、エレナは腕を組んで考え込んだ。
「え? うーん、どうだったかな……」
うんうん唸っているが、まぁ、夢を鮮明に思い出すというのは意外と難しいものだ。フィリップにも経験がある。朝起きた瞬間には滅茶苦茶いい夢を見た覚えがあるのに、朝食の席でいざ具体的な話をしようとすると、八割方不明瞭だったとか。
「まぁ、無理に思い出さなくていいよ。……でも、そうだな、今日は寝るときに足首に鈴かなにか付けておいてね。それか縄」
「鈴は寝返りの時とか五月蠅そうだけど……縄よりマシかな」
「どっちも嫌だって言うなら最悪、僕が一緒に寝ることになるけど」
「あ、いいね。いつもは姉さまと一緒に寝てるし、偶にはボクと寝る?」
冗談のつもりだったんだけど、と胡乱な顔のフィリップに、エレナは悪戯っぽい笑みを返す。
それで揶揄われているのだと気付いたものの、フィリップとしてはあまり冗談も言っていられない。
いや、まぁ、エレナぐらいならどうなったって知ったことじゃあないし、何が何でも一緒に寝る、一緒に寝て守ると主張することはないのだけれど──ルキアやステラとは違うのだけれど。
まぁそれでも、朝起きたらパーティーリーダーが入水していたというのは寝覚めが悪いし、同じ屋根の下で寝ている誰かが夜中に誘われているというのは夢見が悪い。
勿論、まだそうだと決まったわけではない。それはこれから確かめなければならないことだ。
「エレナがゴネるなら、そうなるよ。いや……流石のエレナも、手足をベッドに縛り付けたら移動できないよね?」
僕も一年生の時の交流戦でベッドに拘束されたなぁ、なんて懐古するフィリップ。あの時は脳震盪による異常行動で夜中に徘徊していたらしいが、正直全く記憶にないので、イメージとしては「不当に拘束された」という印象の方が強いのだけれど。
「そりゃそうだけど……ボク、ロープくらいなら普通に千切れるよ?」
「流石。じゃあ鈴付けといて」
というか、それなら僕も一緒に寝たくないよと突き放すフィリップ。
寝相の良いミナはともかく、夢遊病の疑いがある腕力お化けと一緒に寝られるわけがなかった。
エレナもその理屈は分かるからか、寂しそうにしつつも「はーい」と応じた。
「うーん……でも、夢誘導なら管理人さんも入水してなきゃおかしいよなぁ……魔術師なら多少は耐性があるだろうけど……」
魔術師なら井戸から水を汲む必要もないし、薪に火をつけるのに火打石を使う必要もないが、エレーヌはどちらも手作業でやっていた。
勿論、魔術絡みではフィリップの目は節穴なので、火と水の属性はからきしでも他がずば抜けているなんて可能性もゼロではないのだけれど……。
でもやっぱり、人口の比率を考えるなら彼女が非魔術師である可能性の方が格段に高い。王都から離れた場所に住んでいるというのも、その可能性を高める理由の一つだ。
それに、水辺に棲んでいて、夢を使って人間を水底に引きずり込むヤツはそこそこ多いものの、どいつもこいつも神格だ。フィリップが出向いたところに偶々邪神がいる可能性なんて、それこそ1パーセントくらいだろう。
確認する方法は、邪神の手を借りる以外では無い──いや、無いことはない。
フィリップがその存在を怪しんでいるやつらは、どいつもこいつも神格、邪神だ。
しかし唯一神や他の一部の旧神のように、信仰によって存在を確立する形而上学的存在ではない。もっと物理的で現実的な、“神と呼ぶべき強大な生き物”。
ここにいるのなら──緑色に穢れた湖面の下、氷河によって削られた最大水深200メートルもの大穴のどこか、二十億リットルもの水の下のどこかに隠れ潜んでいるのなら、潜れば見つかるだろう。見るからに病んだ色の、触れるだけでも病気になりそうな色の水に、どうやって潜るのかという問題はあるものの。
「いない想定で動くべき……なのかな? それとも逆? でも、僕はビビリらしいし……」
まぁいざとなったらエレナをどうにか昏倒させて──後ろから殴るとかして──引き摺ってでもここから逃げればいいだけのことか。
今はルキアもステラもいないし、最悪の場合は邪神召喚がいつでも使える。
本体に襲われたってどうとでもなるというのは、警戒心を緩める一つの材料だった。
居たら、いや、出てきたら殺そう。フィリップは心の内でそう決めた。
「それまではいない想定で動くとして……うん。エレナ、予定通り、ボートを借りて沖の方に出てみよう」
「オッケー! それじゃ、エレーヌさんに鍵を貰ってこないと……って、あれ、エレーヌさんじゃない?」
エレナが湖の対岸を──一キロ以上向こうを見据えて指し示す。
しばらく目を凝らしても見つからなかったものの、エレナは「ちょうどボート小屋の方に行ったみたい!」と嬉しそうだったので、それを信じて湖畔を回っていく。
エレーヌ曰く、旦那さんが亡くなってからは管理と言っても湖畔がメインで、ボートで岸を離れるのは年に一度くらいだそうだ。
今日がその一回とか、フィリップたちに触発されてやる気を出したとかなら、ついでに乗せて貰おうとエレナは考えている。
湖を半周する時間があればボートの準備も終わるだろうと思っていたのだが、しかし、二人がボート小屋の前に着いてもエレーヌは小屋から出て来なかった。どころか、ボート小屋には鍵がかかっている。
まぁ一キロ向こうのことだし、風に揺れる木の影なんかを人影と誤認しても無理はない。
コテージにいるだろうし呼びに行こうと踵を返すフィリップだったが、エレナは長い耳をぴこぴこと震わせて、ボート小屋の扉をノックした。
「……あれ? ねぇフィリップ君、コテージにエレーヌさんがいるかどうか見てきてくれない? ボート小屋の中に人が居るみたいなんだ」
「え? いや、ルモンドさんじゃない? ……泥棒だったら、コテージの方を狙うでしょ」
やや警戒心を滲ませたエレナに、フィリップはその原因に気付いて頭を振る。
ボート小屋は明らかにコテージより見劣りのする、本当に「小屋」というべきこぢんまりとした木の建物だ。ここに貴重品があると思う人間はいないだろう。
「それもそっか……エレーヌさん、いるー?」
もう一度ノックすると、少し慌てたような気配が小屋の中で動いたのがフィリップにも分かった。
ややあって扉が開き、中からエレーヌが顔を出した。
「どうしたの? 私に用事?」
「うん。ボートを使わせてもらえないかな?」
エレナが言うと、エレーヌは合点がいったように「あぁ」と頷いた。
「えぇ、構いませんよ。あまり使ってはいないけど整備はしているから、そのまま使えるはずですし。オールを湖に落とさないように気を付けてくださいね」
「ありがとう!」
朗らかにお礼を言ったエレナに、エレーヌはにこりと微笑んでコテージの方に戻っていった。
「これだね。ボクがボートを持って行くから、フィリップ君はオールをお願い」
「持って行く? ……わお」
よいしょ、なんて小さな掛け声と共に、エレナは二人乗りの木製ボートを担ぎ上げた。
そりゃあ水に浮かべるものだから重厚な木材ではないだろうし、実際、十キロそこらではあるのだろうけれど……如何せん、線の細い少女がボートを片手で持ち上げて運搬している光景は驚愕を誘った。
……でも、ボートはタイヤ付きの台座に乗っていたから、ストッパーを外せばもっとスマートに岸まで運べたと思う。
フィリップもオールを持って後に続き、なんとなく小屋の方を振り返った。
「あの小屋、なんか甘い匂いしたね? ココアか何か飲んでたのかな?」
それか、ボートの整備に使う薬の臭いかもしれない。
一瞬香っただけではっきりとは覚えていないが、どちらかといえば食品ではなく、ケミカルで甘ったるい感じだったし。
「え? そう? ボクは分かんなかったけど……あ、そりゃそっか」
「そりゃそうだね……」
フィリップも「聞いた意味は無かったな」と、エレナの鼻と口を覆う防臭マスクを見て苦笑した。
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