第333話

 フィリップが戻ってきたときには、もうエレーヌは泣き止んでいた。

 まだ目元が赤く腫れていたものの、涙は出ていないし、「さっきはごめんなさい。驚かせてしまって」なんてフィリップのことを気遣ってくれた。


 それからフィリップたちは本格的に湖を調査することにして、持ってきた道具やら装備やらを弄って準備する。

 興味深そうに見ていたエレーヌは、「まあ、王国の調査隊と同じくらいの器材ね」と驚いていたが、それをベースに用意してもらったものなので当たり前と言えば当たり前だ。


 タオルに砕いた炭を挟んで作った防臭マスクを付けたエレナは、漸くサムズアップして探索開始の合図にした。

 目元しか見えていないし、一言も発していないのに「これでよし!」なんて楽しげな声が聞こえた気がしたのは、フィリップが凄いのかエレナが凄いのか。


 フレデリカに貰った手引書に従って、湖の水を採取しては試験管に小分けにして、そこに薬品を入れて変化を見る。


 ある試験管は緑色に濁った水が一瞬で透明になったかと思うと、次の瞬間には鮮やかな赤に変色した。手引書によると、赤が濃ければ濃いほど純粋な水から遠いらしい。汚染発生以前の基準色は、淡いピンク色。そりゃあ湖の水が純粋であるはずがない──魚のフンとか、色々混ざっているだろうし──とはいえ、流石にちょっと色が濃すぎる。

 四年前の調査記録によると、当時はやや濃い目のピンクと言ったところ。順当に汚染が進んでいると見ていいだろう。


 「次は酸チェック……あれ? 反応薄いな?」


 次の試験管に入れた薬品は溶液の性質を見るもので、酸性だと黄色く、アルカリ性だと青くなるのだが……湖水は、まあ強いて言えば黄緑寄りになったくらいで殆ど無反応だ。

 ただ、四年前の実験記録だとやや青寄りになるはずなので、弱アルカリから弱酸へ変質している。


 「次の項目は……臭気? 測定方法は個人の判断? 急に大雑把だなぁ……」


 とかぼやいていると、エレナが調査記録用のバインダーを引っ手繰って「大いに問題あり」と書き込んだ。多分そういうことじゃなくて、具体的に「腐臭」とか「刺激臭」とか書くべきなのだろうけれど、フィリップたちは調査記録を残すためではなく原因解明のための手段として手がかりを探しているだけなので、これでも別に構わない。


 「ベクトル的には腐臭、だよね。案外、死体が山ほど捨てられたりして……まぁ、無いか」


 こんな広い湖を汚染する数の死体が放棄されていたら、管理人はまぁ気付くだろう。

 ただ、この辺りからもう少し北の山側に行くと、竜巻が頻発することで有名な場所がある。なんでも、その辺りに成龍の群れがいるのだとか。


 竜巻で大量の死体──人間に限らず、動物や植物なんかの死骸が大量に巻き上げられて湖に落下し、腐敗してしまったという説は無理筋ではない。……と、四年前の調査記録にそういう考察が乗っている。


 ただ、潜水調査は研究者たちの体調を考えて実施されなかったとはいえ、調査中に動物の死骸が一部でも見つかったという報告は無かったらしい。おそらく、水質汚染を切っ掛けに野生動物の大半がこの水源を離れたのだろう。


 「あとは鉛と硫黄とヒ素の含有率……なんで氷河湖だと可能性が低いんだ? ……まぁいっか」


 手順通りに薬品を使って各種パラメータを計測するものの、どれも汚染原因として有意であるという結果にはならなかった。

 そりゃあそうだ。ここまでは四年前の王国調査団の真似でしかない──原因不明という結論を出した調査の繰り返しでしかない。


 何か、工夫を加える必要がある。


 「うーん……なーんも思いつかないや」


 そりゃあ、まぁ、特に理系というわけでもなければ、この手の科学的調査のノウハウがあるわけでもないフィリップに思いつくことなら、プロの集団がとっくに思いついて解決しているだろう。


 「エレナはどう思う? なんか原因に心当たりとかない?」


 口元をマスクで覆ったエレナは、無言のまま首を振って否定する。その時にちょっとマスクがずれて、慌てて直していた。


 一応は先人に従って器材をカチャカチャ弄り回すこと数時間。だんだんと日が傾いできて、遂に空が朱色に染まり始めた時には、フィリップもエレナも完全に諦めムードだった。


 ちょんちょんとフィリップの肩を叩いたエレナがコテージの方を指し、「帰ろう」とか「今日は終わりにしよう」といった感じのジェスチャーをしたので、フィリップもすっぱりと粘るのを止めた。


 コテージに戻ると、エレナは「ぷはー!」なんて解放感溢れる声を上げてマスクを取り、上着を脱いでソファにダイブした。


 「フィリップくーん、どうしよー! なにも分かんないよー!」

 「僕だってそうだよ……」

 「ぐぇ……」


 徒労感に任せてソファに座る──ソファに寝転がったエレナの上に座る。

 普段なら「このやろー!」なんて笑いながら逆襲してくるエレナも疲れ切っていて、呻きを漏らしたきりだった。子供一人分程度の重さで苦しくなるほどヤワではないはずなので、それもただのリアクションだろうが。


 「どうしよう。浮き輪持ってきたのに……」

 「うーん……まぁ、湖畔でチマチマ水を弄ってても仕方ないよね。明日は湖の周りをぐるっと回ってみて、何もなければボートを借りて水上に出てみようか」


 フレデリカの教えに従って。

 何なら水質の調査も、湖畔の一端ではなく、水深別に水を採るべきだというのが彼女の主張だったのだが、王国の調査隊は一部採取式だったのでそちらに倣った。


 「森から何かが流れ込んでるってことは……」

 「無いだろうね。来るときにシルヴァが森を爆走して遊んでたけど、おかしなことは何もないって言ってたし」


 そっか、とエレナが力なく呟いて、しばしの沈黙が通り過ぎる。

 黙考ではなく、完全に思考が停止しての沈黙だった。


 「……そういえばさ、ここの湖って、“湖の精”がいるんだっけ?」

 「ニンフとか、ウンディーネとか? ボクは会ったことないけど、フィリップ君はあるの?」


 “心鏡の湖”の異名は王家の人間が「湖の精に心を覗かれた」という言葉を残したのが由来らしい、という逸話を思い出したフィリップが呟く。

 エレナが具体例を挙げるが、どちらも伝承上の存在だ。村の近所に森があったフィリップは樹木の精であるドライアドが身近だったが、湖の精は本でしか知らない。


 「僕も本で読んだだけだよ。すごく美人なんでしょ?」

 「らしいねー。でも、姉さまより美人なんてことある?」

 「知らないよ……マザーより美人ってことは無いだろうけど」


 と、ぐったりしながら全く脳を使わずに脊髄で会話していると、不意に煙っぽい臭いが鼻を突く。


 すわ火災かと飛び起きた二人に、キッチンで薪に火をつけていたエレーヌが驚いて肩を震わせた。


 「あ、ご、ごめんなさい? そろそろ夕食の用意をしようと思って……貴方たちの分も用意するわね」

 「いいの? ありがとう、エレーヌさん! じゃあ、ボクたちの持ってきた食料を使ってよ! パンと干し肉と、スープに入れるスパイスもあるよ!」

 「……ありがとうございます。調理……は難しいですけど、何か手伝いますね」


 家事系は、意外にも──というと失礼だが──エレナの方がフィリップより上手だ。

 フィリップも魔術学院のカリキュラム上、野営のノウハウを教わってはいるし、魔術や火打石無しでの火起こしや鍋を使わない調理方法も幾つか知っている。サバイバル能力は、その手のプロである衛士団と一緒に旅をしたこともあって、かなり高い。


 だが、流石にエレナには何十年レベルの経験がある。焚火一つ作るにも、フィリップと最終的な成果物は同程度でも手際の良さが倍くらい違うのだった。


 そして調理設備が整った状態での料理となると、フィリップは全くの未経験だ。

 直火でならレアからウェルダンまでの6段階で指定された通りに肉を焼けるのに、鍋を使うと有り得ないぐらい外側しか焼けないといえば、調理技術の偏り具合──野生度合いが分かるだろう。


 フィリップも「文明の中に生きる人間としてこれは良くない」と、たまに練習しているのだが……まだ練習中なのだ。他人の家で練習するわけにはいかない。


 食事を摂って順番に風呂に入り、その日はもう何をする気力も残っていなかったので、調査も考察も全部明日に丸投げして眠ることにした。


 エレナとエレーヌは寝室に引っ込み、フィリップはリビングの三人掛けソファに横になる。

 エレーヌは「疲れているなら代わりましょうか?」と言ってくれたが、流石にそれは悪いと断った。ソファでも、地面にマットを敷いて寝袋に入るだけよりずっとマシだ。


 窓が閉め切られ、明かりも消されて真っ暗になった部屋で一人、フィリップは天井を見上げながら考える。


 王都からここまで乗合馬車で四日。課題開示から一週間が経っている。そして期限は三週間。

 つまり帰りに五日かかる計算でも、あと一週間くらいは時間的猶予がある。


 時間的には、猶予がある。 

 ただ、多分、一週間もここにいたらエレナがあまりの臭気で体調を崩しそうだ。フィリップは風が吹いていれば全然平気だし、無風でも五分もすれば慣れる程度なのだが。


 なるべく早く終わらせたいなぁ、なんて考えた後には、フィリップの意識は深い眠りの中に落ちていった。


 そして──どのくらいの時間眠っていただろうか。

 きい、と軋むような音がした。


 ふと目が覚めたフィリップは、寝ぼけ眼で「何の音だろう」と暗闇に目を向ける。

 と、誰かが寝室から出てきて、廊下を歩いているのに気が付いた。さっきの音は、寝室の扉が開いた音だ。


 「……」


 真っ暗なのにランタンどころか燭台の一つも持っていないから、夜目の利くエレナだろうか。或いは住み慣れた家で暗闇の中でも問題なく動けるエレーヌか。


 別にどちらでもいい。どうせトイレか何かだろうし、と、起こしていた頭を枕代わりのクッションに戻す。


 また、きい、とドアの開く音がして──「くさーい!」と、時間を弁えない大音量の悲鳴が上がった。


 「……うるさいなぁ」


 フィリップがのろのろと上体を起こすと、たったいま寝室から出てきた誰か──聞こえた声からするとエレナのようだ──が、のそのそと寝室に戻っていった。


 「……王都外のトイレならあんなものでしょ。エルフの集落だってそうだったじゃん。もう……」


 水洗式トイレなんて、王都か、あとはミナのいた城くらいでしか見たことがないような代物だ。あとは大概汲み取り式だし、エルフの集落にあったトイレだってそうだった。

 このコテージのトイレも定期的に廃棄されているようだし、きちんと掃除が行き届いていて、そこいらの宿なんかよりよっぽど綺麗だ。


 王都のクオリティに慣れたのか寝惚けていたのか知らないが、明日文句を言おうと決めて、フィリップはまた眠りについた。





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