第332話

 課題開示から一週間。

 フレデリカから調査キットを受け取ったフィリップたちは、馬車で四日ほどかけて、目的地の湖に到着した。


 シリル湖は周囲を深い森に囲まれた湖で、資料によると、周囲長10キロ、最大水深200メートルの氷河湖だ。元は月夜に凪いだ湖面が鏡のように夜空を反射して美しく輝き、そこを訪れた王家の人間が「湖の精に心の中を覗かれた」というよく分からない伝説を残したことから、“心鏡の湖”と呼ばれる観光名所だった。

 水質汚染が観測されたのは五年前で、原因不明のまま年々悪化しているとのこと。


 どんなものなのかというと、湖全体が毒々しい緑色に濁り、風に吹かれて消える程度ではあるものの、僅かながら腐臭も感じるほどだった。


 「泳ぐのはやめとこうね、エレナ」

 「そ、そうだね……」


 三人の中で一番五感の鈍いフィリップが気付くということは、エレナにはもっと酷い臭いに感じるはずだ。ミナなんて、今にも帰りたいほど──?


 「……ミナは?」


 振り返ると、さっき森を出るまで二人の後ろにいたはずのミナが、忽然と消えていた。

 何かに奇襲された──わけでは、勿論ないだろう。何に襲われたとしても、ミナが声を出す間もなくやられるとは考えられない。


 自分からどこかに行ったのだろうが、何故、何処に行ったのか。フィリップは何も聞いていないからエレナに尋ねたのだった。


 「姉さまなら帰ったよ。「魔物がいないなら私の出番も無いでしょう? こんなゴミ捨て場みたいなところに居たくないし、帰るわ」だって」

 「……流石、自由だなぁ」

 「「お腹が減ったら血を吸いに来るし、何かあったら呼んでいいわよ」って、あなたに伝言。……うぅ、ボクも帰りたいよ。酷い臭いだ……」


 フィリップはもう鼻が慣れ始めているのだが、流石に感覚の鋭敏な種族は違うらしい。

 

 「確か、湖畔に管理人の夫婦がいるんだよね? 宿を借りられないか聞いてみない? 野営するつもりだったけど、この臭いはちょっとキツいよ。遮る壁とドアが欲しい……」

 「レオンハルト先輩が言ってたね。どうせ調査のことを伝えに行くんだし、頼んでみようか」


 管理人というのは、この湖がある地域の領主から任ぜられて、湖の監視をする仕事だそうだ。

 汚染が始まる前は老夫婦が任されていたそうだが、汚染の一件で管理の不備を指摘されて引退し、今は若い夫婦がその職に就いているらしい。先代から引き継いだ、湖畔にあるコテージに住んでいるのだとか。


 フレデリカからはその情報と一緒に、「調査の前に挨拶するんだよ。温厚な人たちだとは聞いてるけど、汚染の犯人扱いはされたくないだろう?」と言われている。


 テントだの保存食だのを詰め込んだ重いリュックを背負い──情けないことに、フィリップよりエレナの方が持っている量が多い──よちよちと湖畔を歩く。

 砂利っぽい浜は歩きにくかったが、エレナはそれ以上に臭いの方がキツそうにしている。フィリップはもう完全に慣れているのに、可哀そうなことだ。


 コテージは二人暮らしにはやや大きいものの、造り自体は華美なところのない簡素なものだ。築年数はあるようだが、よく手入れされていて、本来であれば美しい湖の景観を損なうことなく、むしろ飾るように寄り添っていただろうと思わせる純朴な外観だった。


 「すみません、管理人の方、いらっしゃいますか?」


 ノックして呼びかけると、ドアの向こうから「お待ちください」と返事があった。

 リュックを下ろして口元を押さえているエレナの方を向いたとき、ちょうどドアが開いた。


 顔を見せたのは、くすんだ金髪と青い目を持つ妙齢の女性だ。どこか陰のある美人といった顔立ちだが、心なしか肌の血色が悪く、一見しただけだと実際より老いて見える。やはり、湖の臭気が毒なのだろうか。


 「貴方たちは……?」と困惑も露な彼女に依頼票を見せて事情を説明し、ついでにエレナの体調のことも伝えると、「エルフの国と国交を回復したとは聞いていましたけど、本当だったのですね……」と驚きつつも、湖を調査することと、ベッドを一つ貸すことを了承してくれた。


 コテージには寝室が一つしかなかったものの、ベッドは二つあった。一つは管理人の彼女──エレーヌ・ルモンドと名乗った──が使うので、フィリップはリビングのソファで寝ていいとのこと。フィリップだけテントで野営というのも嫌なので、お言葉に甘える。


 「コテージはお好きに使ってください。お風呂とトイレと、キッチンも。でも、水は湖の水じゃなくて、裏手の井戸から汲んだものを使うようにしてくださいね。綺麗な地下水でないと、病気になってしまいますから」

 「そりゃあ、そうだろうね……」


 憂鬱そうに言ったエレナがリュックを持って寝室に引っ込んだ。

 フィリップはリビングに残って、エレーヌと話を続ける。


 「あと、管理用のボート小屋には鍵がかかっているので、使いたいときは私に言ってください」

 「ありがとうございます、ルモンドさん。旦那さんにもご挨拶とお詫びがしたいんですけど、今はどちらに?」


 夫婦で住んでいるからベッドが二つあるのだろうが、その片方をエレナが使うとなると、必然的にエレーヌかその夫がもう片方のベッドに移動することになる。まぁ夫婦なので慣れてはいるだろうけれど、急に追いやられていい気はしないはずだ。


 そう思って聞いたフィリップだったが、エレーヌは元々どこか陰を感じさせる顔を更に曇らせた。


 「……夫は死んだわ。だから気にしないで」


 気にしないで、と口にする時にはエレーヌはもう涙声だったので、気にしないなんてことは普通は絶対に無理だったのだが、フィリップは普通ではない。

 そりゃあ誰かを不意に傷付けてしまったことに対する罪悪感は人並みにはあるものの、そもそも「まあ人間は死ぬものだよね」とか思っているから、受けたショックは罪悪感の分だけだった。


 「あ、すみません、すごく不躾なことを……。不躾ついでに質問なんですが、それは湖の汚染が原因で?」

 「分からないわ。ごめんなさい、子供の前で泣くなんて、私……」


 問いを重ねられて本格的に泣き始めたエレーヌに、流石のフィリップも戸惑った。

 周りに年上の女性が多いフィリップだが、感情を表出させるタイプは少ないから、誰かを慰めた経験はかなり少ない。ミナは感情に正直だが、泣くようなタイプではないし。


 だからこそ、まさか泣くとは思わなかったのだが。


 「……何してるのさ、フィリップ君。ごめんなさい、エレーヌさん。この子、少し人の心に鈍いところがあって……」


 コテージの壁で臭いが遮断されてある程度は気力を取り戻したらしいエレナが、不機嫌そうな顔でのそのそと寝室から出てくる。

 彼女はエレーヌを慰めるように背中を擦りながら、もう片方の手でフィリップに「あっち行ってて」と示した。


 扱いがひどいんじゃなかろうか、なんて考えつつも大人しく従うフィリップ。

 「水でも持って行くべきだよね」とコップを持ってコテージの裏にあるという井戸を探しに出た辺り、人の心がない、は言い過ぎにしても、“人の心を残している”というべき状態ではある彼にしては、抱いた罪悪感は大きい方だった。


 コテージの裏には、井戸だけでなく、小さな花壇もあった。

 綺麗な花が並ぶ花壇の奥には、ぴかぴかに磨かれた大きめの石がある。察しがついたフィリップが近づいてよく見ると、やはり、墓石だった。


 『穏やかなる守人に安らげる眠りを。ニコラ・ルモンドここに眠る』と墓碑銘が刻まれている。


 「没年は……五年前。それに死因は分からないって言ってたな……あー、やだやだ、凄く嫌な予感がする」

 

 エレナにも言われた通り、そしてここ何回かの冒険でそうだったように、と遭遇する確率は決して高くないのだ。湖を汚染するような輩にいくつか心当たりはあるものの、人類領域外の存在がいる確証はないし、気にしすぎるのはストレスだ。

 言われたではないか。怖がりすぎだと。


 「うん、そうだよ。僕がビビリなだけだって」


 ぴかぴかに磨かれた御影石に反射する自分に向かって、フィリップは強く言い聞かせた。


 「でも五年も前にしちゃ反応が過敏じゃない? まだ吹っ切れてない……吹っ切れられないような死に方だったのかな」


 それだけ愛が深かったんだよ、とか、引きずるタイプなんだろう、とか、そんな突っ込みをくれる人は、生憎と傍に居てくれなかった。





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