第331話

 実習コースの授業が終わったあと、フィリップはエレナと別れてすぐに教室へ戻った。

 いや、エレナがフィリップと別れて図書館へ行った、と言った方が的確か。今回の依頼実習の行き先についてミナと話してくると言っていたエレナだが、王国の地理についてミナが知っているとは考えにくいので、フィリップはパスした。


 「シリル湖? 王国北部の観光地ね」

 「正確にはだな。元は“心鏡こころかがみの湖”とも呼ばれるほど澄んだ水が有名だったが、数年前に原因不明の酷い汚濁が起こって、今ではただの、辺鄙な場所にある大きな水溜まりだ」


 教室でいつものように隣に座ったルキアとステラの言葉に、フィリップは「やっぱり」と頷く。

 ミナのいた古城、そして魔王の領域である暗黒大陸は大陸南部に広がっている。そして依頼実習の行き先であるシリル湖は、暗黒大陸から見ると王都よりさらに北だ。ミナがそこまで浸透していたら、人類は今頃半減している。


 彼女の性格的に、遠出して観光を楽しむタイプでもないし。


 「汚染っていうのは? ……泳げる程度ですか?」

 「いや、私も概要報告を見ただけで、詳しいことは知らないが……泳ぐつもりなのか?」


 水が汚染されていると明記されて、調査しても原因が分からなかったということまで分かっているのに? こいつはこんなに楽観的なバカだったか? というステラの内心を声ではなく表情から読み取ったルキアだったが、柳眉を逆立てることはなく、むしろ困ったように眉尻を下げた。


 確かにフィリップは時々怖いほどに楽観的だが、考えなしの馬鹿ではない。考えた結果として、やっぱりどうでもいいから楽観するだけだ。


 そしてフィリップは基本的に、痛いことと苦しいこと、そして怒られることは嫌う。

 そのフィリップが汚れた水で泳ぐなんて露骨に病気になりそうなことをするとは考えにくい。なのに一体、どういう風の吹きまわしなのか。


 「いえ、僕じゃなくて……エレナが」

 「……そうか。まぁ、うん、現地で水の感じを見てから決めたらどうだ?」


 やっぱり、と言いたげな苦い顔のルキアが頭を振る。

 まぁ彼女にとっては、エレナが汚水にダイブして病気になったところで胸はちくりとも痛まないのだが……感染うつされても困る。


 「ですね……。ところで、その概要報告ってどこで見られますか?」

 「王国が調べた時の資料なら、うちに保管されているか、宮廷錬金術師の資料保管庫か……いや、待てよ? 確か写本作業の時に書庫を空けたんだった。……レオンハルトが持っているんじゃないか?」


 「レオンハルト先輩が? へぇ……」

 「あの龍狩りの一件で獲得した報酬の一つだな。王国が所有する全学術的情報への無制限アクセス権。現存する資料の譲渡……勿論、希少度の高いものは写本になるが。当然ながら公開することまでは許されていないが……お前なら問題ないだろう」


 なんでまた彼女が? という疑問がフィリップの顔に出る前に、ステラが補足をくれる。

 次は「なんで僕はいいんだろう?」なんて疑問も浮かびそうな特別扱いだが、流石にそこまで鈍感ではないフィリップは、「まぁ僕も龍狩りの英雄らしいしね」と納得顔だ。


 ちなみに不正解である。

 開示された資料の中には王や宰相の他には筆頭宮廷魔術師や筆頭宮廷錬金術師にしかアクセスできないものもある。禁呪や邪法と呼ばれる類のもの、強力な魔術儀式の方法なんかだ。


 王国の中枢しか知らないような情報もある。

 では何故フィリップならいいのかというと、フィリップはどうせ、そのになるからだ。残念ながら。


 「シリル湖か……子供のころに何度か行ったが、いい所だったぞ。今がどうなっているのかは知らないが」


 へぇー、とのほほんとした相槌を打つフィリップ。

 これまで観光名所や風光明媚の類には然して興味はなかったものの、そう言われると、ちょっと行ってみたくなる。いや、行くのだが、汚染調査ではなく、綺麗な状態を観光しに行くという意味で。


 「フィリップは行ったことあるの?」


 ルキアの問いには頭を振って答える。

 田舎から出たのは王都に来る時が初めて──物心つく前に何度か旅行に行ったことはあるらしいが、覚えているのは兄のオーガストだけで、全く記憶になかった。常に父か母に抱かれていた時分らしいので無理もないけれど。


 「じゃあ、もしフィリップたちが水質汚染を解決出来たら、夏休みに一緒に行きましょう?」

 「いいですね! ……って、そうなると責任重大ですね。頑張ります」


 答えると、ルキアは嬉しそうに、しかし気品を損なうことなく柔らかに微笑んだ。


 試験免除はともかく、そう期待されると、ちょっと肩が重くなる気分だ。

 というか水質汚染の解決なんて、どう考えても冒険者の領分ではない──というか、元の依頼だって「原因解明」であって「問題解決」ではないのだけれど。


 しかしまあ、原因が魔物の類だったらミナに頼るか、最悪邪神を呼んでブチ殺せば解決だ。

 残念ながら湖一個の水質汚染となると、環境要因である可能性の方が高そうだけれど……汚染源があるようなものなら、やっぱり邪神を呼んで吹き飛ばせば解決しそうではある。何なら、今ある湖を溜まった水ごと蒸発させて一から作り直したっていい。


 ……いや、駄目か、流石に。そんなモノ、たとえ観光名所級に綺麗でもあまり見せたくないし。


 「夏休み? 建国祭はどうするんだ?」

 「主賓が一人居なくなるくらい、問題ないでしょう?」


 ルキアとステラの会話に、フィリップは怪訝そうに眉根を寄せる。


 「……? 二人では?」


 ステラは主催側だから主賓にはカウントされないのかな、なんて考えるフィリップだが、フィリップに言われるまで、ルキアは二人で──旅の世話をする使用人は除いて──行くつもりで「一人」と言っていた。


 「貴女も来る? 建国祭が第一王女不在になるけれど……まぁ、学院長がいるし良いんじゃない?」


 フィリップがそのつもりなら、旅の仲間に親友が加わることに否やは無いルキアだが、ステラは無邪気に友達と旅行できる身分ではない。国を挙げての催しがあるとなれば尚更だ。


 そう配慮してのことだったが、彼女も大概、その手の政治的仕組みには無頓着だ。それが許される超特権階級の聖人でもある。


 そしてそれは、ステラもそうだ。

 

 「…………行く」


 彼女はたっぷり10秒は考え込んでから、口の端でそう答えた。



 ◇



 案の定、ミナもシリル湖については全く知らないとのことで、エレナはしょんぼり顔で教室に帰ってきた。

 そしてフィリップとエレナは、放課後に揃って学院を出た。流石に準備もしていないので、実習に出たわけではない。


 二人が向かったのは、初回の実習課題である薬草探しと三回目の課題だった毒蛇捕獲で色々とお世話になったフレデリカの所だ。もうすっかりフィリップたちのパーティーの知恵袋である。ちなみにミナは「あの家は臭いから行きたくない」とのこと。たまにフィリップでも分かるほど濃い薬草や薬品の臭いがするから、無理もない。


 扉をノックすると、いつかのように「どちら様でしょう?」と警戒心を感じさせる声で誰何される。フィリップが名乗ると気配が和らぐのも、いつもの通りだ。


 「やあ、カーター君。それにエレナさんも、来てくれて嬉しいよ! さぁ、上がって!」


 おじゃましまーす、と声を揃えて玄関を潜る二人。なんだか姉弟のようにも見える、邪気を感じないコンビだった。……まぁ実際、エレナだけでなくフィリップにも邪な気は一切ないので間違ってはいない。フィリップは至って純粋に、そして無垢に、この世の全てを蔑視しているだけだ。


 リビングに通されて少し待っていると、フレデリカがティーセットを持ってきてくれた。相変わらず、使用人は雇っていないようだ。懐には余裕が……押し潰されるほどの余剰があるはずなのだが。


 「実は昨日、マカロンを作ったんだ。手慰みだけど、良かったら食べて」

 「わーい! ありがとうフレデリカさん! ……わ、おいしいね! 外はぱりぱりしてるのに、中はしっとりしてる! 見た目も可愛いけど、食感が楽しいね!」


 興奮するエレナの隣でフィリップも「甘くて美味しいです」と不器用な感想を述べつつ、何でもできるなこの人、などと感心する。


 ちなみにマカロンはただレシピ通りに作ればいいというものではなく、作る部屋の環境によって出来栄えが変わる、製作難易度の高い菓子だ。

 前回は生地を一日寝かせたらベストな出来栄えだったのに、今度は二日寝かせないとベストにならなかった、なんてこともある。


 フレデリカが立ち上げた“王国最高の研究機関”の設備として現在王国が総力を挙げて建造中の、特殊実験室。光量、室温、湿度、気圧などを自由に操作可能な環境再現型実験室のテストとして作られたものが、今二人が食べているマカロンだった。


 「それは良かった。それで……今日は、どうしてここに? 勿論、ただお茶を飲みに来てくれたのなら嬉しいけれど、そうじゃないんだろう?」


 ソファに浅く腰かけて、少しだけ残念そうに言うフレデリカ。相変わらず、気の置けない話し相手に飢えているらしい。

 アンティーク調の家具と彼女の貴公子然とした振る舞いはよく似合っていて素晴らしく絵になったが、ドキドキしているのはフィリップだけで、エレナは全く平然としていた。普通は逆ではないのか。


 「はい。実は──」


 今度は実習課題で湖の水質汚染の原因を探ることになったと言うと、フレデリカは質の悪い冗談でも聞いたような苦笑を浮かべた。


 「シリル湖の汚染を? あれは宮廷錬金術師でも分からなかった、匙を投げたような問題なのに……鼻っ柱を折りに来たんだね」

 「……何とかなりませんか?」

 「うーん……私も資料では知っているけれど……水質悪化と汚濁が主な異常らしいよ。水草や藻類の異常繁茂は無し……だったかな。少し待ってて」


 フレデリカは紙束を読みながら持ってきて、フィリップたちに渡した。

 紙は宮廷錬金術師や学者たちで構成された王国の調査団が記した調査記録で、内容は概ねフレデリカが語った通りだ。


 「資料には調査の手順も載ってるし、持って行くかい? 特殊な薬品とキットを使う手法もあるみたいだけど、このぐらいなら用意してあげるよ?」

 「え? でも──」

 「いいの!? ありがとう、フレデリカさん! ぜひお願い!」


 学者がやって無理だったのなら、学生風情が見様見真似──どころか、記録を読んで道具と手法だけ真似たところで、有益な情報は得られないのではないだろうか。

 そう思ったフィリップが言葉にする前に、エレナが嬉しそうに言った。


 「あぁ、任せて。それにしても、凄くモチベーションが高いね?」

 「泳ぎたいからね!」


 原因不明の汚染を受けた湖で? と思ったフレデリカだったが、まぁ流石に汚染された状態では水に入ったりしないだろうと一人で納得する。

 実際はちょっと怪しいというか、一見して大丈夫そうだったらダイブしそうなほど、エレナの「泳ぎたい欲」は高まっているのだが……。


 「じゃあ、道具と薬品を準備しておくから、二日くらいしたら取りに来てくれるかい?」

 「ありがとう! その時はボクたちがお菓子を持ってくるね!」

 「それじゃあ私も、市販品にも負けないように腕によりをかけて傑作を仕上げておくよ」


 それはなんだか本末転倒な気がする、と思ったフィリップとエレナだったが、マカロンが美味だったので何も言わなかった。



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