第324話
森に入る前に二人揃って木の幹に手を当て、目を瞑って数秒ほどの祈りを捧げたフィリップとエレナは、「この文化そっちにもあるんだ」とお互いに驚いていた。エルフでも人間でも、ドライアドの不興を買うのは避けたいのは同じらしい。
ミナの高いヒールの靴跡は追いやすく、簡単に追い付くことができた。
既に一掴みほどの草花を摘んで持っていたシルヴァは、何故か湿度の高いジトっとした半目でフィリップを見遣る。
「……な、なに?」
「んーん。ふぃりっぷはわかりやすいとおもっただけ」
「ん? まぁ、そりゃ、お互いの位置は何となく分かるからね。それは薬草?」
そういうことじゃないんだけどなぁ、と言いたげな顔だったシルヴァだが、更に何か言うほど重要なことではなかったようだ。フィリップがシルヴァの手元の草を指して尋ねると、すぐに自慢げな表情になった。
「しらない。でも、きれいにさいてる」
シルヴァが持っていたのは、小さな花が幾つか集まって半球になったような、小ぶりながら華美な植物だった。鮮やかに赤いゼラニウムだ。
何処かで摘んできたのだろうと思ったが、よく見ると、シルヴァは両掌サイズ分の土ごと、花を根元から掘り返していた。
「うん、確かに綺麗……って、根っこから掘ったの?」
「う? でないとすぐかれる」
当たり前じゃんと言いたげなシルヴァに、フィリップも言われてみればそれはそうだと納得する。
花を摘むというと地上部だけ、茎の部分から手折るようなイメージだったのだが、確かにそれだと王都に帰る頃には萎れているだろう。
まぁ薬草でないのなら、良い状態で持ち帰る意味は薄いのだが……掘り返したものを埋め直すのも、それはそれでどうなんだという気がする。ついさっき、ドライアドに「森の恵みを分けてくれてありがとう」と祈ったばかりなのだし。
「……それ、持って帰ろうか。殿下にあげよう。赤、好きだし」
普通は花を贈るなら花束だろうけど、と笑うフィリップに、シルヴァもにっこりと笑い返した。
「しるばもそうおもってた! るきあのぶんもさがそ!」
「いいね! ルキアが好きな色は……黒? 黒い花なんてある?」
邪神絡みのことなら無類の知識量を誇るフィリップだが、植物には詳しくない。特に、花の種類や色については。
「いっぱいある。……このもりにはないけど」
「じゃあ駄目じゃん……」
うーん、と二人揃って首を傾げるフィリップとシルヴァ。エレナとミナは幼い二人を微笑ましそうに見ていた。
「花を贈るなら、花言葉から逆に考えたらどう?」
と、助言をくれるエレナ。だが、花言葉という単語に、フィリップは聞き覚えがなかった。
ミナも不思議そうにエレナの方を見ているから、普遍的な常識の類ではないはず、とフィリップも視線で問う。
やはり、エレナは「エルフの文化だね」と頷いた。
「花には色や種類によって意味があるんだ。赤いゼラニウムは『あなたがいれば幸せです』だったかな。丁度いいね?」
「へぇ、ホントにぴったりですね」
揶揄うような笑みを浮かべて言ったエレナだが、フィリップが少しも照れずに頷いて、毒気を抜かれたようだった。微笑の質が変わり、優しげなものになる。
「ルキアちゃんには、どんな言葉を贈りたい? 勿論、好きな花があればそれが一番だと思うけど」
フィリップは「なんかそんな話をしたような、してないような」と眉根に皺を寄せて記憶を探る。
普段ルキアと話すとき、話題は完全にランダムだ。フィリップの家のことや丁稚時代の話をすることもあれば、ルキアの家のことや社交界の話、学校であったことの愚痴から読んだ本の感想まで、幅広い。何なら、何も話さずに無言で寄り添い、互いの体温で暖を取りながら全く別の本を読んでいることも多い。
いつか好きな花の話もしたような気がするのだが……いや、宝石の話だったか? それとも絵画? と、そこまで記憶を掘り返して、結局諦めた。思い出せないなら、もう一から彼女が好きそうな花を探すしかない。
「うーん……花って言われても、僕が知ってる花と言えば……シダの花? あと白百合とか」
フィリップの言葉に、エレナは「ん?」と疑問を示すように首を傾げた。
「シダってこれだよね? これ、花は付けないよ?」
エレナは地面近くに傘のように生えていた草を示して言う。
確かに、一般的にシダは花を付けない。が、フィリップの読んだ本の中では花を咲かせていたのだ。
「え、でも、“エイリーエス”では……」
「人間の古典文学だね。爺が持ってたよ。……中身は読んでないけど。でも、あれってフィクションでしょ?」
そっかぁ、と項垂れるフィリップ。
なお、シルヴァの知識によると、シダは本当に数百年に一度だけ、ある特定の星座配列になった夜に一斉に満開の花を咲かせるのだが……今日ではないのなら、言う必要もないだろう。そう判断して何も言わなかった。
「じゃあ、アルラウネとか……?」
「それ魔物じゃん! しかも、でっかい花の中にえっちなお姉さんが入ってるやつ! 引っ叩かれるよ!?」
言われてフィリップも、そういえばルキアもステラもアルラウネは嫌いだったな、とシルヴァに出会った森でのことを思い出す。
そして、知識が尽きた。あとは薬草にどんな花が付くかと、食べられる山菜とよく似た食べられない山菜を花で見分ける方法くらいしか知らない。
「しょうがないじゃん! 今まで花の名前なんか気にしてこなかったんだから!」
エレナはけらけらと笑いながら、「何か忘れてるような?」と首を傾げる。そして、重要なことを一つ、思い出した。
「……って、そんな場合じゃなかった! シルヴァちゃん、この森におかしな魔物とか、動物とかいない? こんな感じの蹄のやつ!」
エレナが地面に絵を描いて例の不思議な蹄跡を再現するが、シルヴァは怪訝そうだ。
絵が下手なわけではないので、その反応だけで答えに察しは付いた。
「んー……? このもり、そんなにどうぶつはおおくない。いのししとおおかみと、あとはちっこいの。りすとか。まものもよわいのしかいない」
そっか、とエレナ。でもドライアドって偶に適当だからなぁ、なんて考えているが、ヴィカリウス・システムは環境の代理人。星の表層に根付いた概念そのものだ。視座の高さゆえに危機感を共有できないことはあれど、森の情報を見逃すことはない。
「ちなみに、地球圏外のやつとか、カルトとかは?」
ヒソヒソと声を潜めて訊ねるフィリップに、シルヴァは首を横に振った。
「ちひょうにはいない。でも、にんげんがひとり。いぬといっしょ」
「そりゃ村の狩人だろうね。調査かな? 普通に狩りかもしれないけど、動物とか盗人と間違えて射かけられないように、近付いたら教えて」
わかった! と頼もしい返事をしたシルヴァに「よろしくね」と笑いかけて、フィリップはふと、何か大事なことを忘れているような不安感に襲われた。
ルキアへのお土産じゃなくて、妙な蹄の正体でもなく、もっと何か、ここに来た理由の根幹に関わることのはずなのだが。
「……なんか忘れてる気がする」
「薬草の採取。きみ、その為に来たのでしょう?」
呆れ顔のミナに、フィリップは小気味よい音を立てて指を弾いた。
「っと、そうだった! シルヴァ、ヨモギネとクロアサガオとドクアオギ、あとアロエノフリって薬草を探せる? どれか一つでいいんだけど」
「んー……そこ」
「あ、コレ? ……なんか、萎びてない?」
薬草というか、なんか死にかけの草だった。全体的に茶色っぽいし、萎れている。
もう今にも倒れて朽ちそうに弱々しい茎や蔓の先端には、やはり枯れたように変色した醜い花が咲いている。咲いているというか、くっついていると言った方が正確な有様だが。
エレナも「確かにクロアサガオだけど、これはちょっと……」と渋い顔だ。近くの村の住民も、ここに来る冒険者たちも、誰も採って行かなかった残り物なのだろうが、残っている理由が明白だった。
「……もっといいやつさがす?」
「そうしよう。この森で一番いいのを頼むよ」
わかった! と再び頼もしい返事をくれたシルヴァは、殆ど考えた素振りも無く、一方を目指して駆け出す。
森は彼女の庭、という評価は、エレナに向けられるべきだろう。彼女の健脚は泥濘や隆起した根や罠のような絡まった下草などで足元が不安定でも衰えることはない。だが、シルヴァはそれ以上にすばしっこく、フィリップだけでなく、ミナもエレナも「ちょっと待って」と声を揃えた。
それから暫く歩き回り、一行は木々に隠されるように拓かれた獣道を通り、巨大なスズメバチの巣を潜り──エレナの持っていた虫よけ薬が大活躍した──、以前にシルヴァが“水鏡”と呼んでいた泥の沼を迂回して、漸く一輪の花の許に辿り着いた。
一見すると、白いユリのような花。
しかし、それが単なる観葉植物の類でないことは、周囲の様子を見ればすぐに分かった。
その花は、いやに拓けた裸の地面の上に咲いている。それを中心とした半径2メートルほどの範囲には、他のどんな植物も、岩肌にでも生えるコケ類さえ息づいてはいなかった。
「ウソ、あれって、アルバ・アルファード? こんなところで見られるなんて……!」
目にしたエレナが感動も露に口元を覆い、瞠目する。
手のひらではなく手の甲で唇を隠すような仕草はルキアやステラが驚いたときに見せるものとそっくりで、フィリップは「ちゃんとお姫様なんだな」なんて、失礼な感想を抱いた。
エレナから花に視線を戻すフィリップだが、見覚えはない。ミナもそのようで、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
「ま、まさか二人とも、あれを知らないの!? 周囲の栄養分や魔力の悉くを吸い尽くし、無類の薬効と美しさを兼ね備える超希少植物だよ!」
希少って言われてもね? 所詮草でしょう? と、いまひとつエレナと興奮を共有できない二人。
フィリップの読んだ児童書の中に登場でもしていれば、もう少し年相応のリアクションもできたはずだ。いや、奇麗な花、強い薬効のある草にさして興味を示さないのは、それはそれで子供らしいのかもしれないけれど。
「ふーん……。あ、他人を寄せ付けない美しさっていうのは、割とルキアに似合うのでは? 色も、まぁ、黒と白なら相性は悪くなさそうですし」
持って帰るか、とスコップを取り出したフィリップに、エレナは慌ててその前に立ちはだかり、庇うように両腕を広げた。
「摘んで帰るつもり!? だ、ダメダメ! 絶対ダメ! あれが希少なのは、人間やエルフが薬効目当てに乱獲したからなの! ここで静かに咲かせておいて、自然に繁殖させようよ!」
「なるほど? ……あ、じゃあ、持ち帰って、レオンハルト先輩にでも預けてみるのはどうですか? 案外、繁殖のいい方法とか──」
「うーん、フレデリカちゃんなら……いや、でも、こういうのって口の数は少ないほうがいいでしょ? それに、万が一、他の人に知られたら危ないし」
森育ちが理由かは定かではないものの、希少植物の保護に強いこだわりがあるらしいエレナだが、フレデリカになら任せられるようだ。その信頼感はやはり、あの蜘蛛と戦った後、彼女も治療に加わったからだろう。
そんな彼女と同等かそれ以上の信頼を向けられるフィリップとしては、嬉しいやら面映ゆいやらだ。
しかし、照れている場合ではない、不穏な言葉が聞こえた。
「危ない?」
「だってフレデリカちゃん、戦えないでしょ?」
「待って? つまりこれは“殺してでも欲しい”とか、そういう考えの人間が出るほどの代物なの?」
面倒なものを見つけてしまったと言いたげなミナに──まぁ、彼女は何をするにも気怠そうなのだが──、エレナは至極当然とばかりに軽く頷いた。
「うん、そうだよ。だから、これはここに置いていこう」
フィリップとミナはもう一度顔を見合わせて、「襲ってくるヤツ全員殺すのは面倒だしね」と肩を竦めた。
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