第323話
乗合馬車で半日ほどかけて王都近郊の森にほど近い農村にやってきたフィリップとエレナ、そしてミナは、一先ず宿を探すことにした。
幸いにして空き部屋が三つ以上ある宿を見つけられたのだが、エレナは二部屋しか取らなかったし、他の二人も何も言わなかった。──フィリップは「ミナとエレナが同じ部屋かな」と思っているし、エレナもそのつもりだ。ただ、ミナは「私とフィルが同室なのね」と思っている。
部屋に荷物を置く段階になって、漸く認識の相違に気付いた一同だが、結局、フィリップとミナが同室になった。
一応はエレナがパーティーリーダーなのだが、意思決定権が一番大きいのはミナらしい。
諸々の準備をして部屋を出たとき、一見して分かる武装をしているのは、黒い鞘のロングソードを持ったフィリップだけだった。
半袖にハーフパンツという森を舐めているとしか思えない格好のエレナは、よく見ると腰の後ろにナイフを持っている。普段と変わらずコルセットドレス姿で高いヒールを履いたミナには、もう何も言うまい。擦り傷だろうが虫刺されだろうが足首の捻挫だろうが、即座に治るのだろうし。
ちなみに吸血昆虫の大半は呼吸によって生じる二酸化炭素や体温などを感知して餌を探すので、どちらも無いミナは極めて狙われにくかったりする。
村から少し離れた所にある中規模程度の森が、今回の目的地だ。村を出て畑を横目にしばらく歩いていると、腰に手を遣って、見るからに困り顔で畑を見つめているおじさんが居た。
「どうしたの? 何かトラブル?」
「不作なのかな」と一瞥して興味を失ったフィリップと、端から一片の興味も持っていないミナは素通りしようとしたが、気が付くとエレナが話しかけていた。
二人は顔を見合わせ、足を止める。いきなり声をかけられたおじさんは面食らったようだったが、それ以上に、ミナとエレナの外見に気を引かれているようだ。
美しさに見惚れているばかりではない。それもあるが、細長い特徴的な形の耳と極めた優れた容姿を見れば、多少の知識があれば人間でないことがすぐに分かる。
「ねえちゃん達、まさかエルフ……!? 初めて見たぜ!」
「ボクたちはただの冒険者見習いだよ。気にしないで。それよりあなた、すごく困り顔だよ? 何かあったの?」
おじさんはフィリップほどエルフに対して思い入れが無いのか、「珍しいモノを見た!」と目を瞠るだけで、それ以上の感動はないようだ。
或いはエレナの問いに対する答えが、それ以上に重要な問題なのか。
「いや……ちょっと畑が荒らされててな。冒険者ってことは、薬草でも摘みに来たのか? 森のかなり浅いところまで出て来てるハズだから、気を付けてな」
獣か、と、フィリップとエレナは明言されずとも理解する。
ミナは端から興味がないので、「先に行くわね」と森の方に向かって行った。その後をトコトコと付いていくのは、いつの間にか出て来たシルヴァだ。
フィリップが「あれ!? いつの間に!?」なんて二度見している横で、エレナとおじさんの会話が続く。
「ふぅん? 何作ってるの?」
「俺のとこは野菜だ。他にも麦を作ってる奴とか、果実畑の方もやられたらしい」
「果実ってことは、木になってるやつだよね? じゃあイノシシとかじゃないね。イノシシが木にぶつかった跡って特徴的だから」
「あぁ、みんな熊じゃないかって怯えてる。村の衛兵は槍を持ってるが、デカいグリズリーとかだと不安だしな」
気重そうに言ったおじさんに、エレナは楽観的過ぎると言いたげに頭を振った。
「不安っていうか……人間には無理だと思うよ。ボクも小さい頃は出来なかったもん」
今なら戦えるのも大概異常だと言いたげなフィリップだが、口には出さなかった。ディアボリカがいたら怒られそうな気がしたからだ。
「でも、熊も結構分かりやすいよ? 大きいし重いから、柔らかい地面だと足跡とか露骨に残るし」
「あぁ、それが……蹄跡に見覚えが無くてな。これなんだが……」
おじさんは少し屈んで、畑の一点を指差した。
その先には、何かの足跡らしき窪みがある。畑の奥に向かって点々と続いているようだ。
馬やイノシシの蹄ではないし、狼や熊のパッドフットでもない。偶蹄目の足跡に似ているが、別れ方が左右ではなく前後だ。
ヒールのある靴の跡に近いが、人間の足跡にしては小さい。足のサイズがフィリップの拳より小さいとなると、幼児? まさか、野菜や麦を盗むような幼児は居ないだろう。
「あ、ホントだ、なんだろうコレ。フィリップ君、分かる? ボクたちの森にいた動物とか魔物じゃないみたい」
「僕も田舎育ちですけど、獣に詳しいわけじゃ……いや、これホントに蹄ですか……?」
「そう思うよね! 魔物かな?」
エレナの推理に、フィリップも頷いて同意を示す。
獣の足跡については二人とも多少の知識があるが、魔物の足跡には詳しくない。狩人にしろ冒険者にしろ、魔物は調査研究やトラッキングの対象ではない。そういう学術的なアレコレは王宮のやることだ。
魔物だろうけど、でもどんな奴だろう? と首を傾げる二人だが、それには待ったがかかる。
「いや、この辺に居るのは踏み潰せるくらいのスライムと、あとはキラービーが精々で……」
農家のおじさんに言われて、エレナは「そうなの?」と首を傾げた。
「でっかい蜂だよね。ボクらの森にもいたよ。でも、あいつらは六本脚だけど、こいつは二本足だ。歩幅は……姉さまより少し小さいくらい? 深さも考えると、大人のエルフくらいの大きさと体重だと思う」
「流石エルフ、狩りのセンスはピカイチだな! 村の狩人連中もそう言ってたぜ!」
「現実的に考えるなら、熊か魔物だね、確かに。グリズリーではなさそうだけど、こんな足だ。突然変異っていうのも、あながち間違った推理じゃないかもね」
突然変異……正確には遺伝子異常を引き起こしそうな存在に嫌な心当たりがあったフィリップは、「あいつじゃありませんように」と祈りつつ、周囲の風景を確認する。
晴れ渡る青空に、冬から春にかけて収穫される野菜や果物の彩り。六月の収穫に向けてどんどんと穂を出し、肥えて垂れはじめる若い麦。懐かしくも素晴らしい田園風景だ。……遠近感の狂った異常な植物や、肉食性の触手なんかは見当たらない。おじさんも良く鍛えられた身体を小麦色に日焼けさせていて、とても健康そうだ。
遺伝子構造を破壊し狂わせるヤツはいないようだ。──良かった。物理的存在では干渉できないから、即刻邪神召喚しなければならないところだった。
勝手に怖くなって勝手に安堵していたフィリップは、肩を叩かれて意識を取り戻した。
「……ね、あの蜘蛛みたいな、普通じゃない魔物だと思う?」
「どうかな……神威は感じないし、突然変異した動物とか、この辺には居ない珍しい魔物かも」
遺伝子を狂わせる例のアイツはいない、と、それだけは一見して分かるフィリップだが、そこまでだ。
人類領域外の存在で一定以上の強さを持つ相手のことなら、フィリップは人類屈指の知識量を誇る。だがこの星にどんな動物が棲んでいて、どんな姿形で、どんな生態なのか。そういう普通の知識は、狩人だった父親の影響で、他よりは少し詳しい程度だ。
「可能性はどのくらい?」
「うーん……半々ぐらい?」
人類領域外の存在か、そうではないかの二元だから50パーセント。そんな甘い計算式によって導き出された不正解に、しかし、エレナは「そっか」と重々しく頷いた。ステラが居てくれたら、「どういう計算だ?」と深掘りして、少なくとも半々よりは少ないと分かっただろうに。
「じゃあ、ボクたちが調べて、有害な魔物なら駆除してあげるよ!」
自分も怖いだろうに、おじさんを心配させないように明朗な笑顔で言うエレナに、フィリップとおじさんは「え?」と声を揃える。
「え? あ、いや、冒険者なんだろ? 悪いが、赤依頼を出してやれるほどの持ち合わせはねぇんだ」
「やだな、押し売りみたいな真似しないって。ただの人助け。あなたは困ってて、ボクたちは力になれるかもしれない。なら、助けるのが当然でしょ? ね、フィリップ君?」
フィリップは一瞬、予期せぬ痛みに襲われたかのように顔を顰めた。
見ず知らずの他人だろうと、困っている人がいるなら助ける。なるほど当たり前のことだ。少なくともフィリップの心のうち、人間の部分はそう頷く。
だが、人間ではない部分──大部分は、エレナの言葉を嘲笑ってしまった。
何処の誰とも知らない他人がどうなろうと知ったことではない。一人死のうが一億人死のうがどうでもいいと。
「……えぇ、勿論」
フィリップの笑顔が僅かに歪なことには、エレナも農家のおじさんも気付かない。
だが、あぁ、そうだったとフィリップは思い出す。
心の底で何を考えていようと、善であろうとすればよいのだと。今は一緒にいない“理解者”の言葉を想起して穏やかに笑ったフィリップは、もう一度、しっかりと頷いた。
「その魔物がどんなものであれ、僕たちが駆除します」
フィリップの言葉に、それでこそだよ、と口の動きだけで言ったエレナは、心の底から嬉しそうな笑顔だった。
二人は顔を見合わせて頷きを交わし──
「森の調査……は、シルヴァがいるし……」
「戦闘は……姉さまがいるね……」
もしかして僕たちは要らないのでは? と言う悲しい事実を口に出す前に、二人は乾いた笑い声をあげて誤魔化した。
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