第305話

 その日の夜、フィリップはベッドに入ったあと、目を瞑らずに聞き耳を立てていた。

 言うまでも無く女子用宿舎に行くため、ウォードが寝入るのを待っているからだ。


 魔術学院の学生寮のふかふかのベッドと前回の交流戦の硬いベッドの、ちょうど中間くらいのクオリティの寝具に包まれて、フィリップは漫然と薄暗い天井を見上げる。手足どころか背中や腰までが、痛みにも近い疲労感をじわじわと訴えていた。


 「……うまく乗せられた気がする」


 ぽつりと呟いたフィリップ。その不満の宛先は、今頃ルキアと同じ部屋で防御態勢を取り、どちらが初めの2時間を寝るかジャンケンしているだろうステラだ。


 昼間はフィリップが焦るあまり、言い争うような形になったが……こうして冷静に考えてみると、途中から誘導されていたような気がする。

 だって現に、ベッドに入って二分も経たないうちに強烈な睡魔が襲ってきて、もう目を開けていられない。


 「駄目だ……起きないと……むにゃ……」


 ウォードは寝入ったばかりなのに寝坊する夢を見ているらしいフィリップにくすりと笑って、自分自身も深い眠りの中に沈んでいった。そして二人は、翌朝まで続く快適な眠りを存分に満喫する。




 ◇




 フィリップが眠るのとほぼ同時刻、ミナは隣の部屋から漏れ出た膨大な魔力に叩き起こされた。

 吸血鬼という頂点捕食者である彼女は、眠りがかなり深い。外敵に対して警戒する必要が無いからだ。しかしその分だけ、眠りを妨げられた時の不快感は大きかった。


 ミナはベッドから身体を起こし、身を包む装束を肌が透けるような薄手のネグリジェから、普段着のコルセットドレスへと変えた。魔力によって物品を編むのは高度な技術だし、人間の脳では処理できない情報を多分に含むが、吸血鬼にとっては常識の範疇だ。


 高いヒールを鳴らして部屋を横切り、苛立ちも露わに扉を開ける。廊下は全くの無人で、等間隔に並ぶ壁の蝋燭が、じり、とほんの僅かな音を立てた。


 ミナは呆れたように片眉を上げ、長い黒髪に手櫛を入れる。

 魔術師を育成する学校が聞いて呆れる、鈍感極まりない連中だと。しかしルキアとステラの魔力隠匿能力は日進月歩で上達しており、全力で秘匿すれば空間隔離魔術でさえも魔術学院生たちから隠しおおせた。


 それでもミナにとってはダンスホール級の騒音だ。

 ルキアとステラは夜中に騒ぐような馬鹿ではないと思っていたが、こうなると評価を大きく下方修正せざるを得ない。フィリップペットの番として強さは十分かもしれないが、飼い主の眠りを妨げるようなら不合格だ。


 「貴様ら、今何時だと……」


 ばたん! と、それこそ他の部屋の生徒たちの安眠を妨げるほどの勢いで扉を開けたミナだが、次の瞬間、彼女は後ろに大きく飛び退いた。


 彼女は激しく燃え盛る部屋の中を驚愕と共に見つめ、それからドアノブを掴んでいた左手に目を落とす。

 手首から先が完全に炭化して、一切の感覚が無かった。


 赤い双眸を忌々しそうに細め、右手の手刀で左手を容易く切り落とす。当然のように大量に出血するが、次の瞬間には傷一つない真っ白で嫋やかな手が戻っていた。


 「……意味が分からないわ」


 ミナは部屋を埋め尽くす炎が物理的なものではなく、極めて高度な魔術によって“燃える”という状態を押し付けられた、概念的なものであることを一目で見抜いた。人間以上の魔術適性を持つミナですら再現不可能な、特定属性の究極点だと。


 問題は、何故そんなものを夜中に、部屋の中で使っているのかということだ。

 延焼しないよう完璧に制御されているようだが、部屋に入った瞬間に燃やされるのは体験した通り。何か、外敵に備えているように思える。


 ミナは深々と嘆息して、フィリップの部屋で寝ることにした。

 魔術師はほぼ全ての感覚器官で魔力を捉えるが、ミナも例外ではない。隣の部屋にいるだけで、眩しいし、煩いし、臭いし、とにかく寝付ける状態ではなかった。


 彼女がほんの少しでもフィリップとルキア達の会話内容に興味を持っていれば、昼間の時点で分かっていたことなのだが──人間家畜同士の会話なんて、聞く気にもならないのは種族的に仕方のないことだった。彼らの都合や理屈なんて、ミナには毛ほどの価値もないのだから。


 フィリップの部屋は何処だったか──視界のチャンネルを魔力の次元へと切り替えて、無数の餌の中からペットを探す。

 途中、上質な魔力を持った処女や童貞、更には特殊な血液型である金の血や銀の血まで見つけて生唾を呑んだが、最終的には真っ直ぐにフィリップの部屋を目指して歩き出した。


 階を二つ降り、連絡通路のある三階に出た時だった。

 ナイ教授や投石教会から漂うものに似た、極めて純度の高い臭いが鼻を突いた。


 ミナは踊り場で足を止め、不快な臭いの元を探って息を吸う。二呼吸目で、階下、塔の二階から漂っていることが分かった。

 不愉快そうに目を細めたミナは、少し考えてから踵を返し、階下に足を向けた。今すぐフィリップの部屋に行ったところで、どこかの馬鹿が左手を焼いた所為で目が冴えていて、すぐには寝付けないだろう。


 不快な臭いの元が何であれ、排除してからフィリップのベッドに潜り込んでも遅くはない。そう判断してのことだ。


 二階から三階へ、足音を殺してこっそりと上がってくる二人の人間には気付いていたが、そんなものはどうでも良かった。

 ただ、その人間たち──中庭玄関で待ち合わせ、今から部屋に行こうとしていた恋人たちにとっては、最悪の遭遇だった。


 「きゃあっ!?」

 「きゅ、吸血鬼!? な、何やってるんだ! 夜中は、へ、部屋から出ないって聞いてるぞ!」

 

 二階と三階の間にある踊り場で遭遇した三人は、恐怖と、敵意と、無関心を表出させた。


 彼氏は果敢にも両手を広げ、彼女を庇うように立ちはだかる。彼の立ち位置と恰好は、図らずも踊り場から下に行かせまいとする通せんぼになっていた。

 二人には一瞥を呉れる気さえ無かったミナだが、進路を妨害されても穏便に、笑顔で「危害を加えるつもりは無いから、退いてくれないかしら?」なんて交渉するほど上機嫌ではなかった。


 ただでさえ、寝入った直後に叩き起こされているのだ。

 そんな不機嫌な状態のミナを更に不快にさせようなんて、フィリップでも考えない愚かな行為だろう。


 とはいえ、ミナも進路妨害されたくらいで魔剣を抜いて首を刎ねるほど短気ではない。

 フィリップが自分の飼っている愛玩犬、ルキアとステラが彼を慕う軍用犬だとしたら、眼前の二人は野良犬以下だが、それ故に、魔剣を抜くほどではなかった。


 ミナはキャンキャンと吠え立てる矮小な生き物に留めていた視線を上げ、止めていた足を再び動かし始めた。


 「ち、近寄るな──うっ!?」


 勇敢にもミナに向かって拳を振り上げ、恋人を守ろうと立ち向かった少年は、次の瞬間には壁にへばりついて失神していた。

 ミナが片手で乱暴に打ち払ったせいで肋骨が何本か折れていたが、命に別状はない。尤も、ミナは彼の命に対して一片の気遣いもしなかったので、単なる幸運によるものだが。


 踊り場の隅でガタガタと震え、頭を抱えて縮こまっている女子生徒には一瞥も呉れず、ミナは不快そうに口元を押さえながら階段を降りる。漂う臭気は、もはや我慢ならないほど強くなっていた。


 そして──蒼褪めた脳漿が壁と天井の交わる角を這って、死体安置所の臭いを振りまきながら、階下から登ってきた。


 「……?」


 ミナは初め、それが何であるのか全く分からなかった。

 ぞるぞるぞる、と耳障りな音を立てるそれが、何か自然の現象──古い建物にありがちな、雨漏りや水道管の破断の類だと思ったくらいだ。だって、スライムやウーズといった魔物とは明らかに違う。ミナはそのどちらも見たことがあるし、魔力のパターンも覚えているが、その脳漿はそもそも魔力を放っていなかった。


 それどころか、その気色の悪い粘体は魔力的には何の情報も持っていなかった。

 視覚的には、蒼褪めた脳漿に見える。嗅覚的には、死体安置所の臭いを纏っている。そして魔力的には、それは真っすぐでありながら捻じれていて、あらゆる箇所が直線と鋭角だけで構成された時間を持っていた。それは臭くて甘かったが、馬のように強靭で煙のように捕らえられず、何かを必死に書いていた。

 

 ミナの──いや、この歪曲した時間の中で生きるあらゆる全ての知的存在には理解できない情報を流し込まれ、思わず視界のチャンネルを物理次元に戻し、激しく頭を振って思考を中断した。


 「何なの……?」


 ミナは吐き気を催しながら、踏鞴を踏んで階段を下がる。

 不快感のあまり、その青白い粘液を吹き飛ばそうと血の槍の魔術まで展開していた。


 青白い脳漿は踊り場までズルズルと移動すると、ちょうど震えて縮こまった女子生徒の頭上辺りで止まった。


 彼女の視線はミナと深紅の槍の鋭い穂先を行ったり来たりしていて、鼻水のせいで死体安置所の臭いにも気付いていないようだった。


 そして、現れたティンダロスの猟犬はノコギリのような歯が並んだ口を大きく開けて、最後の最後まで自分に気付かなかった愚かな女子生徒を丸呑みにした。


 「……?」


 ミナは眼前で人間一人が喰われたことには何ら感情を動かさなかったが、ティンダロスの猟犬の異容を目にして平然とはしていられなかった。

 なにせ、姿が常に変化し続けているのだ。正確にはそう見えるだけなのだが、ミナにとっては同じことだ。


 今度は踊り場の壁に寄りかかって失神している男子生徒に目を付け、憎悪に満ちた唸り声をあげるティンダロスの猟犬の顔は、絶え間なく歪み、捻じれ、蠢き、狂う。四足歩行のように見えた直後には、五本足になったり、むしろ背中から足が飛び出たりしていたが、その姿は一貫して、あらゆる部分が直線と鋭角だけで構成されていた。


 ミナは完全に理解の範疇外にあるものを前に、より詳細な情報を得ようともう一度魔力視を使う。しかし、すぐに止めて口元を押さえた。情報はまたしても完全に破綻していた。何も考えられなくなって、ただひたすらに気分が悪く、油断すれば就寝前に飲んだフィリップの血を吐き戻しそうだ。


 胃の蠕動を押さえつけるように深呼吸するミナ。

 その間に、気絶していた男子生徒が意識を取り戻した。


 だが彼にしてみれば、失神していた方がずっとマシだっただろう。せめて意識が暗黒の中に在れば、眼前に立つ悍ましい「死」を見ずに済んだのだから。


 「──えっ? うわぁっ!?」

 

 全容を見ることさえ叶わない──見えているのに認識できない異形が大口を開けて飛び掛かってくるのを目の当たりにして、彼は咄嗟に両手を挙げて顔を庇った。

 

 意外にも、或いは当然ながら、防御行動に反応したティンダロスの猟犬の顎は男子生徒の腕だけを食い千切った。

 大量の血が噴き出す光景を幻視したミナだが、その予想は裏切られた。


 「うわぁぁぁ──、あ?」


 彼は反射的に絶叫したが、塔内の女子生徒たちを全員叩き起こすような悲鳴はすぐに収まる。腕は肘の先辺りから完全に消失していたが、血は一滴も流れていなかったし、チクリとも痛まなかった。

 そして。


 「な、なんだこれ、なん──」


 表情を困惑と恐怖に染めたまま、彼もティンダロスの猟犬の顎の中に消えていった。腹の中でないことは、人間二人を入れたにしては大きさが全く変わっていないことから何となく推察できた。


 人間二人をあっという間に喰らい尽くした異形は、相変わらずの理解不能な姿でミナの方を向く。

 だが、ミナは自分から先制攻撃するのを躊躇うような遠慮とは無縁だし、眼前の異形に対して警戒心はあっても恐怖は無い。


 正体不明ではあるものの、明らかに敵対的な──どこか躊躇しているようにも、訝しんでいるようにも見えたが──相手に、ミナは容赦なく血で編まれた大槍を撃ち出した。






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