第306話
翌朝、つまり交流戦六日目の朝。
完全に熟睡してしまったと不本意そうに目を擦るフィリップと、そういえば今日がペア戦だったと同じく不本意そうに欠伸をするウォードは、二人揃って部屋を出た。
朝食の時間はもう過ぎている。つまり──二人揃って寝坊していた。
フィリップは昨日、マリーとステラに散々基礎訓練──というか、ほぼ罰則みたいなメニューを押し付けられて疲労困憊だった。ウォードは「じゃあ」とばかりミナとルキアに教導を頼んで、分不相応な相手との模擬戦で当然のようにボコボコにされて、やはり疲労困憊だった。
一晩明けて──プラス、追加で数十分寝て、何とか回復したが。
「フィリップ君、いま何時……?」
「八時過ぎです。急いで食べれば余裕ですよ」
フィリップがへらりと笑って答えた、その直後。廊下の向こうの方から、猛烈な勢いで走ってくる人影が見えた。
よく目を凝らすまでも無く、馴染み深い相手だ。何故か男子用宿舎の廊下を必死の形相で爆走しているのは、マリーだった。
「エーザー先輩!? 何して──」
「いた!! 二人とも何してたの!? 早く来て、大変なんだから!」
マリーは激しく責めるような目で二人を見て、片方ずつ手を掴んでずんずんと引っ張っていった。
「何があったんですか、先輩?」
「死体でも見つかったみたいな……ふぁ……焦りようですけど」
二人とも寝起きで、フィリップは欠伸などしているが、それはマリーにとって激しく場違いな安穏さだった。
「死体は見つかってない。まだね」
苛立ちを隠さずに吐き捨てたマリーに、フィリップとウォードは不愉快そうに顔を見合わせた。何が起こっているのか知らないが、八つ当たりされるのは気分が悪い。
しかし苛立ちに任せて反撃する前に、眠気で鈍った頭にマリーの言葉がじわじわと染み込んだ。
「……まだ? 何があったんですか?」
「行けば分かるよ。……あ、でも、ここからでも見えるね。ほら」
マリーは窓の外、中庭の向こうにある女子A塔を指す。
その中ほどには黒々とした点があった。──いや、点ではなく、穴だ。塔の真ん中辺りに、ぽっかりと穴が開いている。石造りの塔が倒壊するほど大きくはないが、ここからでも見えるサイズだ。
「え……? なんで……?」
「誰かの魔術が暴発したとかですか?」
不思議そうに尋ねたフィリップに、マリーは呆れたように嘆息して、それからゆっくりと答えた。
「ミナさんだよ。他にも色々、問題があるんだ。とにかく来て……あ、ウィレット君はいいや」
「えっ……?」
「え……?」
フィリップとウォードはそれぞれ驚きと困惑を込めた、似たような呟きを漏らす。
ミナが魔術の制御をしくじるわけがない、という信頼に基づく驚愕はフィリップのもの。突然蚊帳の外に放り出された困惑はウォードのものだ。
「アンタが来たいなら来てもいいけど、面白い話じゃないよ、ウィレット君」
「え、あ、えーっと……」
ウォードは窓の外に見える一部が吹き飛んだ塔と、全く意味が分からないという困惑に満ちたフィリップの顔を交互に見て、僅かな逡巡の後に頷いた。
「僕も行きます」
「そ。でも、邪魔しちゃだめだよ」
マリーはそれきり一言も発さず、二人を連れて中央塔の地下に向かった。
地下はフィリップたちが前回泊まったのと同じような、粗末な部屋が幾つも並んでいた。B塔──前回の平民用宿舎と違うのは、ベッドが一つしかないことと、粗末なトイレが剥き出しで置かれていること。そして、入り口側の壁がドアまで全部鉄格子だという点だ。
そこは所謂、地下牢だった。
石の壁には埃が積もっていたし、蝋燭も最低限で薄暗いを通り越して普通に暗い空間だ。飾り気なんて微塵もない無骨な場所だが、今は妙に明るく輝いている。
それは階段を降りてすぐのところにある独房に、見目麗しい女性が三人も集まっていることと無関係ではなかった。
一人は独房の中で、退屈そうにベッドに座っているミナ。彼女はフィリップが来たことに気付いても、小さく肩を竦めるだけだった。
一人は独房の外で、ミナに魔術を照準しているルキア。彼女はフィリップに気付くと、いつものように「おはよう」と微笑んだ。
ミナの周りを取り囲むように幾つもの光球がふよふよと浮かんでいたが、それは彼女の魔術『エクスキューショナー』だ。回避不能状態にある対象を完膚なきまでに破壊し焼却する、『明けの明星』の限定的同時発動。ミナが殆ど動けずにいる理由がこれだ。
そして勿論、もう一人。ミナを制御し得る聖痕者であるステラは、教職員らしき大人たち3人と何事か話していた。
「王女殿下、フィリップ君をお連れしました」
踵を鳴らして敬礼するマリーは、いつもの「変なお姉さん」然とはしていなかった。
ステラはマリーに声を掛けられるまでフィリップに気付かなかったが、気付いた後はすぐに大人たちとの話し合いを中断して向き直った。
「あぁ、来たか。カーター、状況は聞いているか?」
「あ、はい、ちょっとだけ。ミナが塔の一部を吹っ飛ばしたんですよね?」
ミナの方を見ながら言うと、彼女は適当な感じで肩を竦めた。
どうやら本当にやったらしい。でなければ大人しく収監されているはずもないだろうが。
フィリップの答えは満足のいくものではなかったらしく、ステラは小さく頭を振った。
「それは問題のごく一部だ。……昨日、生徒が二人、行方不明になった。いや──」
「四人ですぞ、殿下! 一昨日に二人、昨夜に二人! この吸血鬼がやったに決まっているではありませんか!」
教師の一人、老獅子のような厳めしい顔つきの男が吼えるように言う。
ステラの言葉を遮るのは宰相でさえ叱責される無礼千万だが、彼女の意を汲んだ内容だったからか、或いは単に処罰を後回しにしたのか、ステラは不快そうにピクリと眉を動かすに留めた。
「ミナが? そうなの?」
「……いいえ。私は誰も殺していないし、食べてもいないわ」
ミナはたっぷり10秒は沈黙してから、うんざりしたように答えた。
心底かったるいと言いたげな溜息の原因は、同じ質問を何度も繰り返されたことによるものだ。初めは騒ぎを聞きつけてやってきた教師に、次にルキアとステラに、それから何人もの教師たちに繰り返し。違うと言って、言い続けてなおこの処遇だ。
フィリップに対する愛着が無ければ、そしてルキアが魔術を展開していなければ、全員殺しているところだった。
そんなミナの心中など知らない、想像さえしないフィリップは、けらけらと笑った。
「あはは、だろうね。ルキア、ミナは無実です。魔術を解いてください」
「……分かったわ」
説得の言葉を考えながら言うと、ルキアは意外にもすんなりと光球の群れを消してくれた。
瞬間、ミナはコルセットドレスの裾をはためかせて立ち上がる。血溜まりを歩くための高いヒールを抜きにしてもすらりと高い上背から、激しい倦怠と僅かな怒りを湛えた赤い双眸が見下ろす。とても威圧感があったが、フィリップはにっこり笑って鉄格子の閂を外した。
「なっ!? いけません、聖下!」
「そうです、龍殺しの英雄とはいえ、こんな子供と吸血鬼の──」
老教師だけでなく、若い女教師も言い募る。
しかし、ミナはもう長身を屈めて鉄格子を潜るところだったし、ルキアも魔術を再展開する気は無いようだった。
「その先は止めておけ。カーターを侮るのは仕方のないことだが、それ以上続ければ侮辱になるし──そうなれば、ルキアは反射で殺すぞ」
「貴女のそれは私への侮辱かしら?」
ステラとルキアがじゃれ合っているのに不愉快そうな一瞥を呉れて、ミナはフィリップを抱き締めた。
心なしかいつもより手つきが優しかったのは、フィリップの気のせいだろうか。
人間を抱擁して愛でる吸血鬼という世にも奇妙な光景を前にして、教師たちは戸惑っているようだったが、しばらくして我に返った。
「君、何を根拠にそう言うのだね?」
「ミナは違うと言いました」
「……まさか、それだけで?」
正気を疑うような目を向けられて、フィリップは端的に肩を竦めた。
それだけだし、それ以上のものは必要ない。いや、もっと言えば、ミナが誰を食おうが、何人食おうが、フィリップの大切な人でなければどうでもいい。
「あー……先生、昨日の夕食でパンを食べましたよね?」
突拍子の無い──少なくとも脈絡を無視したように思える質問に、教師たちは一様に顔を見合わせる。中でも老獅子のような男性教師は、はぐらかされたと思って顔を顰めていた。
「何? いきなり何の話だね?」
「いいから答えてください。そっちの先生でもいいですけど」
「え、えぇ、食べたわ。黒パンとビーフシチューだったわよね、確か」
うんうんと頷くフィリップ。
交流戦では大量に作れて再加熱しやすいシチュー系のメニューが頻繁に食卓に並ぶが、干し肉入りでスパイスの効いたビーフシチューはフィリップのお気に入りだった。
「それ、なんで普通に答えたんですか?」
「え? だって……待って、嘘でしょ? そういうことなの?」
フィリップはまだ核心の部分を話していなかったが、若い女教師はフィリップの不足した言葉から言わんとしていることを察したようだった。
顔を蒼白にして後退っているから、勘違いや誤解ではないだろう。
「素晴らしい。そういうことです。ミナが人間を喰おうが殺そうが、それを隠すことはありませんよ」
「……流石、私のことをよく分かってるわね、フィル」
ミナはフィリップを抱き締めたまま、嬉しそうにつむじの辺りに唇を落とした。
彼女にとって、人間の心臓はパンで、血液はシチューだ。それを食べることに不思議はないし、それを食べたことを隠す必要性も感じない。問題になるという認識を持っているかは不明だが、問題にするような奴を片端から斬り捨てればいいと考えていることを見抜くのは、そう難しいことではなかった。
フィリップはキスや抱擁より、ミナの匂い──月と星々に満ちた夜空の匂いで眠気を再燃させていたが、ステラが目の前でパチリと指を弾いて起こした。
微睡の世界から帰ってくると、ずっと震えていた若い男性教師が声を荒げた。
「し、信用できない! そいつは人食いの化け物じゃないか!」
「そうですね。だからこそ、って言う話を、まさに今したところなんですけど」
不愉快そうに言うフィリップだが、男性教師はミナの不愉快そうな目に怯えてそれどころではなかった。
彼以外の二人の教師とルキア達は、フィリップの言葉を信じたか、人食いの化け物の価値観など想像するだけ無駄という結論に至ったようで、それ以上の追及は無かった。
しかし、ミナにはもう一つの咎がある。言うまでも無く、塔の一部を吹っ飛ばしたことだ。あの破壊痕、穴の直径は二メートル以上にもなるだろう。
「……では、あの魔術は? 塔を吹き飛ばした魔術はどういうつもりだね?」
「あ、それは僕も気になる。まさかミナに限って、魔術をしくじったなんてことはないだろうし」
ミナも当然、自分の実力に自信を持っている──或いは正確に把握しているから、フィリップの言葉には肩を竦めるだけだった。照れもしないし、怒りもしない。ただ当然のことと受け止めていた。
「妙な魔物がいたのよ。臭いし気色悪いし、不愉快だったから吹き飛ばした……いえ、吹き飛ばそうとしたの」
「仕留め損なったの? ミナが? 嘘……待って、どんな奴?」
何かの冗談かと思って笑っていたフィリップの顔から、言葉の途中で笑顔が消えた。
龍さえ屠るミナが取り逃がしたなんて、相手は龍以上の速度か防御力を持っていなければ有り得ない。だが、そんなモノこそ有り得ないだろう。──通常の魔物では。
「分からないわ。姿が判然としない……いえ、見えているのに理解できなくて。魔物以上に化け物だった。魔力情報も壊れてて、本当に謎ね」
ミナが言い終わったとき、質問した当人であるフィリップは奇妙に表情の抜け落ちた顔で立ち尽くしていた。
ただ、ミナの体温とは無関係に背筋が冷えていくような感覚があった。
「……魔力視で見たの?」
「そうよ。魔力は光よりも多くの情報を──フィル?」
フィリップはミナの抱擁を振り解いて、彼女と正対した。
「僕の目を見て、ミナ。……ごめん、少し屈んで、視線を合わせてくれる?」
「……どうしたの?」
自分の目を真っ直ぐに見つめる青い双眸を、ミナは愛おしそうに見つめ返す。
教師たちは何が何やら全く分からず揃って困惑顔だったが、ルキアとステラがじりじりと焼け付くようなプレッシャーを放ち始めていたから、何も言えずに成り行きを見守るしか無かった。
フィリップはミナの赤い双眸に濁りがないことを確認すると、出し抜けに問いかけた。
「ねぇ、ミナ、空間転移魔術が使えない理由って何だっけ?」
「いきなりどうしたの? そんなの、不確定性原理と動質量概念の不安定性に決まっているでしょう?」
ミナは愛玩するような笑みを浮かべ、フィリップの頬を撫でながら答える。
フィリップは胡乱な顔でルキアとステラを振り返る。二人はそれぞれの仕草で「正解」と示した。フィリップは正直、ミナが何を言っているのか全く分からなかったし、何ならもっと長い答えが返ってくると予想していたから、一瞬「おや?」と思ってしまったくらいだ。
フィリップは二人に頷きを返し、質問を続ける。
「1234足す2345は?」
「3579。……何なの?」
フィリップはまた胡乱な顔で振り返り、ルキアとステラは二人揃って頷いた。ステラは「自分で計算できないならもっと簡単な数にしろ」と言いたげな呆れ笑いを浮かべていた。
ともかく、記憶と思考が正常なら、少なくとも精神の表層は正常と見ていいだろう。
「良かった。発狂はしてないみたいだね」
「……それ、どういう意味?」
不愉快そうに目を細めたミナに、フィリップは慌てて諸手を振った。
「あ、違う違う。ミナが錯乱して幻覚を見たとか思ってるわけじゃないよ。その逆──そいつを見て、何か悪影響が無いかってこと」
「ああ、そういうこと。理解できないものを無理矢理に理解すれば、発狂することもあるかもしれないけれど……」
そんな馬鹿なことをする者がいるの? とでも言いたげに微笑したミナに、フィリップは安堵の息を吐き、ステラが片眉を上げた。
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