第304話

 翌日の訓練で、フィリップのモチベーションは異常なほど高かった。

 もう「緩めで」とか「ロングソードはサブだから」とか、生温いことは言わない。むしろ昨年の交流戦と同じかそれ以上の、何か大切なものが懸かったときの集中力を発揮していた。


 朝食を終えてすぐで、まだ日も頂上に至らないというのに、ウォード、マリー、ルキア、ステラと順に模擬戦をこなし、今は魔剣を抜いたミナと戦っているが、その表情は必死さに満ちて真剣なものだ。「勝てるわけないじゃん」なんて弱音は、心のどこにも残っていない。そんなものを抱いている余裕もないほどに、フィリップは自分の身体を追い込んでいた。


 「筋力、体重、技量、色々と足りていないけれど、悪くないわ」


 縦横無尽に駆け回り、ミナの足首や背中、首や心臓といった急所を的確に狙って攻撃を繰り返しているフィリップを、ミナは愉快そうに称賛した。


 言葉の合間にも斬撃が繰り出されては、ミナの魔剣に容易く阻まれる。両者の剣がどちらも規格外の性能故に火花こそ散らないが、剣戟の音は砦の中にまで高らかに響いていた。門を出てすぐのところで打ち合っているから、防壁の上や中庭からこちらを窺って見物している生徒も多かったが、フィリップは全く意識していなかった。


 「でも、狙いが駄目ね。私を人間に見立てて動いているのかもしれないけれど……それでは私とる意味がないでしょう?」


 ミナは防御を止め、心臓を狙った突きを無防備に受け入れた。

 完全に集中していたフィリップは、自分が刃の無い模擬剣ではなく、龍の素材を使って作られた最高級の蛇腹剣を持っていることも、吸血鬼の弱点が心臓であることも──これが模擬戦であることも、全く意識の外に置いていた。


 しかし、ミナの魔剣とも互角に打ち合える特上の刃は、ミナの豊かな胸と心臓を諸共に貫くことは無かった。

 彼女の姿は霧となって消え、ほんの瞬きの間にフィリップの後ろに回り込んでいた。


 フィリップは眼前の敵が唐突に消えても全く動じず、素早く振り返って防御の構えを取る。

 ミナは敢えて防御している剣を狙って打ち込み、フィリップの姿勢を大きく崩す。マリーに教わった通りの正しい防御姿勢だったのに、腕どころか背中の肉が全部弾け飛ぶかと思うような衝撃だった。


 「魔眼も、魔剣も、魔術も使っていないのだから、もっと抵抗しなくちゃ。防御に回った瞬間に死ぬと思って走りなさいな」


 吹っ飛ばされそうになった剣を必死で掴み取ったフィリップに、ミナは容赦なく追撃する。

 剣を持った右腕が外に流れ、空いた脇腹に強烈な一撃がめり込んだ。


 魔剣ではなく、旋回した左足。動き自体は特筆すべきところのない回し蹴りだが、長くしなやかな足は重い鞭のようなもので、衝撃だけでなく浸透力も凄まじい。


 内臓破壊と吹き飛ばしの両方を同時に引き起こす蹴りをもろに受けて、ごろごろと地面を転がる。散々砂に塗れて止まったとき、フィリップはコップ一杯分程度の血を吐いた。


 ミナはしまったと言うように顔を顰め、足早にフィリップに近寄ると、いつかのように手首を切って血を垂らした。即座に回復したフィリップは立ち上がって口元を拭い、反対方向に飛んでいった蛇腹剣を拾いに走る。


 「大丈夫?」

 「……ありがとう、ミナ。次は……ウォード、またお願いできますか」

 「え、あ、あぁ……」


 ウォードは明らかに顔を蒼白にして、異常者相手に事を荒立てたくないときの愛想笑いで立ち上がる。

 フィリップは恐怖の混じった視線には気付いていたが、そんなことはどうでも良かった。ウォードとはどうせ、今日を入れてもあと三日だけの付き合いだ。


 しかし、流石にそれには待ったがかけられた。


 「待て、カーター。少しハードすぎる。ミナも、今のはやり過ぎだ」


 ミナにとっては軽症の部類だったが、怪我をさせたことに変わりはないので肩を竦めて応じる。

 フィリップもとんでもなく痛かったものの、それはモチベーションを下げる要因としては不十分だったようで、蛇腹剣を持った右手の調子を確認するようにぐるぐると回している。


 「いえ、このぐらいは。ミナ、今の回復、あと何回出来る?」

 「血液いのちのストックで言えば、何度でも。でも、やり過ぎるときみが吸血鬼になるわ。それが嫌なら、あと10回か、そのくらいね。負傷の度合いにもよるけれど」

 「限界までやろう。いい?」

 「構わないわよ」


 ミナもフィリップと遊ぶのは楽しいのか、いつも気怠そうな顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

 フィリップも謝意を込めて笑い返すが、当然、フィリップの負傷を笑い事で済ませるルキアではない。 


 「いいえ、構うわ。フィリップ、交流戦が終わってからだって私たちが居るんだから、そんなに焦らないで?」


 フィリップに対しては静かな諫言といった口調だったが、ミナに向けられた初めの言葉は明らかに刺々しく、心の底では烈火のごとく怒っているのが丸わかりだった。彼女にしては珍しく。


 しかし、フィリップは頭を振ってルキアの言葉を棄却した。


 「焦りますよ。あと二回、この砦で夜を越さなくちゃいけないんですから」


 言葉の通り、激しい焦りを感じさせる声で言ったフィリップ。

 その肩をステラが掴むが、フィリップはその手を苛立たしげに振り払った。


 「カーター」

 「こうして全力で戦うのが強くなる最短ルートでしょう? 殿下。それに、最善の環境を利用しないのは非合理的なことのはずです」


 ステラは「それはそうだが」と言いたげに肩を竦め、ルキアの「頼りにならないわね」と言わんばかりの冷たい一瞥を浴びた。


 「でもフィリップ、貴方は──」

 「何を言って僕を説得しようとも、ルキア、僕は言い負かされたとしてもこれを続けます。意地でも。今すぐ強くならないといけないんです」 

 「フィリップ──」

 「──僕に、また出来ることをやらずに二人を見捨てろと?」


 唾棄するような勢いで言ったフィリップに、ルキアは一瞬だけ泣きそうに瞠目して、すぐに表情を取り繕った。

 フィリップは気付かなかった一瞬の変化に目敏く気付き、ステラが代わって言葉を続ける。彼女は今まではフィリップの異常なモチベーションに呆れていたが、今は無二の友人を傷付けられて明確に怒っていた。


 「……私たちの為だというのなら、前にも言ったはずだぞ。私たちはそれを望まないし、許容しない」


 厳しい口調で言うステラだが、フィリップは低質な冗談でも聞いたように冷たく笑った。


 「許容? 僕は僕のやりたいことをやるし、殿下の許可なんて求めてません」

 「フィリップ君、流石に言い過ぎ──」


 吐き捨てたフィリップを、ウォードがステラの顔色を窺いながら諫める。いや、諫めようとした。しかし残念ながら、

 

 「ウォードは黙っててください!」

 「口を挟むな!」


 と、ヒートアップし始めた二人に一喝されて、モニョモニョと口を噤む羽目になった。


 「……そうだな。私もお前の行動を許認可制にした覚えはない。だが、身命を賭して守ってくれと言った覚えもない」


 ステラは第三者に話しかけられたことである程度は落ち着いたが、そのせいで口調はいっそう冷たくなっていた。

 彼女は不覚にも、心の中で歯噛みする。こんなことを言いたいわけではないのに、と。


 ともすれば激発さえしかねないようなことを言われたはずのフィリップは、ステラの予想に違わず不愉快そうに眉根を寄せる。しかし、その口元は怪訝そうな笑みの形だった。


 「え? 殿下、僕の話をちゃんと聞いてくださいよ」

 「……どういう意味だ?」

 「いや、だから、僕は僕のやりたいことをやるって言ったじゃないですか。二人が望もうと望むまいと、二人のことは守りますよ」


 ルキアが顔をくしゃりと歪めて俯いた。

 こんな場面で無ければ「そんな顔も綺麗なのはズルくないか?」なんて揶揄うところだったが、ステラは心外そうに、少し低いところにあるフィリップの目を見つめ返した。


 「私たちだって自分の身を守るくらいは出来ると思うが?」

 「──っ! どうやって!!」


 フィリップはここで激発した。

 これまでの経験と再三の警告によって、フィリップが恐れる相手であるティンダロスの猟犬の脅威は、ステラにも伝わっていると思っていた。


 それなのに侮るような言葉が出てきて、フィリップは初めてステラのことを馬鹿だと思った。


 無論、馬鹿だから怒ったわけではない。

 だがフィリップは今でも、彼女のことを誰よりも賢い女性だと思っていたし、尊敬の念さえ抱いていた。だからこそ、その馬鹿げた考えには我慢ならない。フィリップが最高の頭脳の持ち主だと信じる女性を貶めるような甘い考えは、ひどく癇に障った。


 声を荒げて、連戦で乾いていた喉がズキリと痛んだ。

 その痛みで我に返ったフィリップは、信じられないというような目で自分を見つめるウォードとマリーに気が付いた。


 フィリップに声を掛けるべきか躊躇っているルキアより、むしろ、狼に向かって吠え立てる子犬を見るような目のミナを見て冷静さを取り戻したフィリップは、ステラから一歩退いた。


 「……すみません、つい。でも殿下、昨日話した通り、相手は強いんです。今の僕では到底太刀打ちできないし、二人はなるべく見ない方がいい相手です。場合によってはルキアの『明けの明星』だって効かないかもしれない。そんなヤツを相手に、どうやって身を守るんですか?」


 ルキアとステラには昨夜の段階で、ティンダロスの猟犬について粗方のことは話してある。

 その詳細についてはかなり省いたが、攻撃方法、移動手段、出現の前兆である独特の臭いや角を這いまわる青白い膿について、そしてほぼ無敵の防御である空間歪曲についても。現象については理解はできないだろうが、その効果の強さについては二人も納得していた。


 なのに自分の身は守れるというのなら、是非ともその名案について聞かせて貰おう。そんな態度で顎までしゃくるフィリップに、ステラは嗜虐心に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。


 「その前に確認だが、もし私の提示した案が理論最適解だったらどうする?」

 「どう? どうとでも。殿下の言う通り、模擬戦の強度は下げますよ」

 「足りないな。それは要求の最低水準であり、ルキアを傷付けたことと、私に対する無礼への応報を含まない。……腕立て伏せでもするか?」


 挑発的に笑ったステラはちらりとマリーを一瞥した。

 不機嫌な王族という最もお近づきになりたくない相手の視線が向いたことで、流石のマリーもびくりと肩を震わせた。まあ、事実としては、彼女は不機嫌な「滅茶苦茶強い人」に見られたから怯えただけで、身分階級に対する意識はそこそこ薄いのだが。


 「え、あ、えっと、腕立て伏せは余計な筋肉が付いちゃって、可動域が狭くなるから……持久走かプランクの方がいいですね」


 専門家の意見に、ステラは軽く頷いた。


 「だそうだ。外周100周、プランク3時間。どうだ?」

 「上等。その代わり全くダメな案だったら、殿下にも僕のことを殺す気で模擬戦をして貰いますよ」


 挑戦的に言い返したフィリップだが、砦はかなりの規模で、正方形の一辺が200メートルくらいある。一周約800メートルとなると、勿論、100周もすればぶっ倒れるわけだが、フィリップは全く気にしていなかった。


 「……空間隔離魔術を使う。無駄な装飾を失くした真球状の『黒眩聖堂』と、そもそも物理的実体を持たない『煉獄』なら、“角を通って”内側に入られることはない。重力子の塊を次元歪曲でこじ開けられるかは未知数だが、概念的に遮断する『煉獄』には関係ない。……まあ、こちらからの攻撃も完全に遮断されるわけだが、自衛するだけなら問題ないはずだな?」


 ステラは腕を組み、真剣な眼差しで自身の策を語る。

 挑発的に顎を上げて聞いていたフィリップは彼女の言葉を聞き終えると、引いた顎に手を遣って黙考し、視線をどこか上の方にやって、それから真っ直ぐにステラを見つめた。


 そして、へなへなと跪いて頭を下げた。


 「う、ぐ、さ、最適解です……あの、どうにか負かりませんか」


 消え入りそうな声で言うフィリップに、ステラは愉快そうに笑ってから「仕方ないな」と言わんばかりの呆れた溜息を吐いた。


 「……潔さに免じて10周と5分に負けてやる。ただし、ちゃんとルキアに謝ることだ。……駆け足用意!」

 「くっ……ここぞとばかりに理想的な基礎訓練を……」

 「そうだ、焦ったって急に強くはならない。模擬戦なら私たちがいつでも付き合ってやるから、今はエーザーとウィレットにきちんとした基礎を学べ」


 騙された気がするとかブツブツ言いながらも、フィリップは素直に砦の外壁に沿って走り出した。

 その後姿を見送っていたミナは魔剣を霧にして手元から消し去ると、退屈そうに伸びをした。


 「つまらないわね。あの子と遊ぶの、結構楽しいのに」

 「あら、じゃあ私とりましょうか。さっきのフィリップへの過剰攻撃、まだ許していないから」


 冷たい笑顔を浮かべたルキアが返事も聞かずに歩き出すと、ミナは異常に発達した犬歯を覗かせる獰猛な笑みを浮かべて後を追った。


 ウォードとマリーが顔を見合わせて、結局何が原因で言い争っていたのかと首を傾げた。






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