第302話

 その日──つまり、交流戦四日目の夜。

 フィリップは不幸にも、夜中に目が覚めてしまった。しかもただ目が覚めただけではなく、尿意のおまけ付きだ。昼間に碌に汗をかいていないからだろうか。


 嘆息し、モゾモゾとベッドを這い出るフィリップ。シルヴァはいない。フィリップが寝たことを確認して、自分から送還されていた。


 ふらふらとランタンを取り、蛇腹剣も掴んで部屋を出る。暖炉まである豪奢な部屋のくせに、トイレは無かった。

 部屋を出るぎりぎりまでウォードを起こそうかと悩んでいたが、最終的には恐怖より羞恥心が勝った。


 廊下の蝋燭はもう殆どが消えかかっていて、僅かに残った蝋燭が頼りなく揺れているのが却って不気味だ。窓から覗く月の無い夜空は、星に照らされて辛うじて漆黒ではない程度の濃紺だった。


 「あ、待って。怖すぎる。ここで出ちゃいそう」


 敢えて声を出してみるも、石造りの壁や床に虚しく吸い込まれていくばかりだ。フィリップはパジャマの上からジャケットを羽織っただけの姿で、こわごわと廊下を歩いてトイレに辿り着いた。


 用を足してトイレを出て──何事も無く、自分の部屋の前まで戻ってきた。

 ティンダロスの猟犬どころか、お化けさえ出なかった。我ながらビビり過ぎだと苦笑して、扉の前で大きく伸びをして深呼吸する。


 「ふぁ……──、あ?」


 むにゃむにゃと意味の無い音を垂れ流しながら大きな欠伸をして、ドアノブに手を掛けた時だった。


 ほんの微かに、粘つくような異臭が鼻を擽った。

 夜風に乗って窓から入って来たのだろう。その出どころは窓から見える中央塔か、女子A棟か。恐らく、後者だ。


 フィリップはもう一度、深々と深呼吸する。しかし、もう空気には何の異常も無かった。古い砦に染み付いた土と埃の匂いが、それには慣れたと臭細胞を素通りした。


 ……眠気の齎した幻覚、或いはただの勘違い。そう自分を納得させるのは簡単だ。

 今すぐ部屋の扉を開けて、剣を置いて、ベッドに潜り混んでしまえばいい。そうしたらきっと、今度目が覚めたら朝になっているはずだ。


 ──けれど、朝食の席にルキアとステラが来ないようなことがあったら? 

 その最悪の事態を、フィリップの怠慢が引き起こしたとしたら。フィリップはもう、二度と鏡を見られなくなるだろう。


 フィリップはぺちぺちと頬を叩いて眠気を飛ばすと、足音も気にせず女子用の宿舎に向かって駆け出した。



 同時刻、女子A塔と中央塔を繋ぐ連絡通路には、二人の女性が見張りに立っていた。

 一人は軍学校生のジェシカ、一人は魔術学院生のエミリーだ。二人は以前の交流戦からペア同士であり、プライベートでも遊びに行く程度には仲が良かった。


 仲のいい二人組ということもあり、また燭台だけでは不十分だとゴネて用意した篝火が温かく、二人はうつらうつら舟を漕いでいた。辛うじて意識を周囲に向けてはいるが、十分ではない。もしも誰かが強行突破を試みれば、魔術師でなくても、フィリップ以下の白兵戦能力でも突破できるだろう。


 あと一時間もしないうちに見張りを交代する時間だが、二人ともかなり限界に近かった。

 特に普段は睡眠に力を入れた魔術学院の学生寮で暮らしているエミリーは、ふらついて篝火にぶつかってしまった。三脚の台がガタリと危なっかしく揺れ、パチパチと火の粉が飛び散った。


 「……あっ、やば」


 その音と熱で一気に覚醒したエミリーは、髪の先がちりちりと焦げていることに気が付いて、慌てて魔術で水をかける。その騒ぎでジェシカも目が覚めて、伸びをしたり、コキコキと首を鳴らして体を目覚めさせていた。


 「ふぁ……普通に寝ちゃってた」

 「ウソ、立ったまま? 流石、軍学校生」


 二人は眠たそうな顔のまま顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。


 ジェシカが眉根を寄せたのは、そのすぐ後だ。

 愉快そうな笑みも引っ込んで、鼻の周りに皺が寄るほど顔を顰めている。


 「……ね、なんか臭くない?」

 「あ、ごめん、私の髪が焦げた……」

 「違う! それも臭いけど、もっと──うっ」


 自分の髪を示して苦笑するエミリーだが、彼女の鼻はタンパク質の焼ける特有の匂いで麻痺していて、ジェシカとは嗅覚を共有できていなかった。しかし、片膝を突き、今にも吐きそうなほど顔を顰めて口元を押さえているジェシカは、友人と危機感を共有するどころではなかった。


 「だ、大丈夫? 私、先生を呼んでく──、えっ?」


 顔を蒼白にした友人のために駆け出そうとしたエミリーの足が、竦んで凍る。

 衝撃に目を見開いた彼女は、震える足で後退り、厚い木の扉に背中を押し付けた。


 「なに、どうしたの?」と聞くだけで胃の内容物が全部出そうなジェシカは、涙に潤んだ目で友人を見上げる。


 ──その、目の前を、青白い影が通り過ぎた。


 「ひッ──!?」


 全くの無音で、全くの無挙動で、石の床を滑るように移動する“何か”。それは辛うじて二足二腕のヒトガタではあったが、絶対に人間ではなかった。


 腕は床を擦るほど長く、その中ほどからは巨大な鉤爪を備えた付属肢が生え出でて、蟹のハサミにも似ていた。先端にある明らかに比率の合っていない小さな手は、別の生き物から移植したような歪さだ。鎧のような甲殻を纏っているが、全身半透明で、鎧騎士のような存在感は無い。


 天井にめり込んでいるように見える頭部には、ぼやけて捻じれた黒い光点と不格好な穴があった。人間はそれをシミュラクラ現象によって目と口であると認識する。エミリーとジェシカは、光点に見据えられたような気がした。


 「あ、や、いや、嫌ッ……! 《ウインドバレット》!」

 

 エミリーは咄嗟に風属性魔術を使い、青白いナニカを殴り飛ばす圧縮空気の塊を撃ち出した。たとえゴースト系の魔物でも、魔術攻撃であれば問題なくダメージが通るはずだと。

 しかし、絶対に外すはずの無い超至近距離でありながら、魔術はヒトガタに何の影響も与えなかった。──いや、そもそもソレは、この次元における実体を持っていなかった。


 咄嗟の一撃は中央塔の壁に当たって弾け、そちら側の蝋燭の火を軒並み消した。

 虚しい成果を確認する余裕は、エミリーには無かった。


 ヒトガタは、蒼白な顔で歯をカチカチと鳴らして震えるエミリーなど居ないかのように、そして木製の扉など存在しないかのように、歩調を全く緩めずに滑る。


 ──死ぬんだ、とエミリーは思った。

 助けて、と叫ぶことも出来ず、ただただ震えて。固く目を瞑ったのは、覚悟や抵抗ではなくただの反射だが、それは正解だった。その異形の醜い姿を至近距離で見るのは、誰であってもお断りだろう。


 そして──半透明の巨体は、エミリーも、厚い木の扉もすり抜けるようにして塔の中に消えていった。


 「……?」


 予期した“死”は、もう自分を襲ったのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら薄目を開けたエミリーは、真ん中辺りの壁の蝋燭だけが無事に明かりを灯している薄暗い廊下と、左手の隅で震えながら剣を構えているジェシカを見つけた。


 「……?」

 「……!」


 二人は極度の緊張から解放されて荒い息を溢しながら、首の動きだけで会話する。

 エミリーが首を傾げると、ジェシカは頭を激しく上下させた。エミリーは「もう大丈夫なのかな?」と聞いたのつもりなのだが、ジェシカは「私も見た!」と答えているつもりなので、本当は噛み合っていないが──ただ、二人を安心させるのに支障はなかった。


 「あ、あれがお化け……!?」

 「こ、怖かったね……! ホントに居たんだ……!」


 恐怖心を共有して緩和させた二人がまず真っ先にやったことは、エミリーの魔術の余波で倒れてしまった篝火台を立て直し、明かりをつけ直すことだった。

 篝火だけでなく、二人がいる側と、中央塔側の蝋燭も全て──つまり、廊下の真ん中あたりの蝋燭以外は全て消えていて、廊下は不気味な薄暗さに包まれていた。


 エミリーは火属性魔術が得意ではなかったが、それでもマッチ程度の火種は無詠唱で簡単に用意できる。

 とりあえず近くの蝋燭をつけて一安心した二人は、深々と溜息を吐いて強張った笑顔を交わすと、また恐怖を共有するためのお喋りを始めようとした。


 しかし、二人は今度こそ同時に、鼻を突く異臭に気が付いた。


 「うっ……!?」

 「さっきの……! ねぇ、これ何の臭い?」

 「分かんない! 埃っぽくて、腐ってるみたいな……気持ち悪い」

 

 粘つくような悪臭は、あの幽霊が現れた方──中央塔の方から漂ってくるようだった。

 エミリーとジェシカはほんの数秒前の恐怖も忘れ、せり上がってくる胃の内容物を飲み下すのに必死になる。いくら友人とはいえ、人前で吐くのは乙女的に大問題だ。

 

 二人の見つめる先で、天井の隅から煙が上がった。いや、下がった、というべきか。それは明らかに空気より比重が重く、冷気のように壁を伝って床に充満していく。煙は毒々しい蒼褪めた色をしていて、普通の煙以上に有害そうだった。


 「なに、あれ……」


 煙は蝋燭や他の火元から出ているのではない。

 天井と壁の交差した角、より正確には、そこから滲み出た青白い何かが発生源だ。それは一般に煙の発生源となる炎ではなく、どちらかと言えば薬品に属するものに見えた。そこから垂れた青白い粘液が数滴、ぼたたっ、と粘ついた感触で床に落ちた。


 そして、蝋燭の消えた暗がりから、何かが──


 



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