第301話

 フィリップが職員室──正確には中央塔の指令室──に行ったとき、ナイ教授は不在だった。

 吸血直後でほろ酔い気分だったフィリップは、仕方ないなぁなんて思いながら、食堂や、中庭や、外壁の回廊上なんかを見て回った。石壁の上を吹き抜ける冬の朝の冷たい風がきっかけになって意識がはっきりした後は、かじかんだ手をポケットに突っ込んで、ブスッとした顔で室内を探し回った。


 もうすぐ昼食という時間になってやっと見つけた時、ナイ教授は女子宿舎A塔、つまりルキア達が寝泊まりしている塔から中庭に出てくるところだった。頭頂部付近から猫耳を生やした黒髪の少女という特異な外見を、フィリップは中庭で訓練している生徒たちの群れの中からでも一瞬で見つけられた。

 中央塔の窓からそれを見ていたフィリップは、舌打ちなどしつつナイ教授のところへすっ飛んでいって、中央塔の玄関で出会した。


 ナイ教授は不機嫌そうなフィリップに、内心の読めない仮面のような嘲笑を向けて挨拶した。


 「おはようございますー、フィリップくーん。こんなところで、もしかしてサボりですかー? 駄目ですよぉ、羽の生えた蜥蜴風情に負けちゃうよわよわさんなんですからー、ちゃんと訓練しないとー」


 相変わらず媚びるように甘ったるい口調だが、フィリップは妙に違和感を覚えた。

 なんというか、普段のナイ教授とは違う気がするのだ。


 表情の制御は完璧で、嘲笑の一色だ。仕草の制御も完璧で、深い敬意を感じさせる。いつも通りのナイアーラトテップだ。しかし何かが、フィリップには言語化できない、判然としない何かが引っ掛かっていた。


 ルキアやステラのように、観察力に長けているだけでは分からないだろう。フィリップのように、ナイアーラトテップの化身と日常的に接していなければ違和感さえ持たなかったはずだ。そしてそのフィリップでさえ、どこが違うのかは分からない。ナイアーラトテップの化身制御や人間への理解は、それほどの精度がある。


 「あの時あれを飲んでいたらぁ、面倒な訓練なんてしなくてよかったんですよぉ?」

 「……いいから、早くくれませんか?」


 フィリップがかったるそうに、そして傲慢に言うと、瞬きの後には顎を上げなければ漆黒の双眸と目が合わなかった。


 「失礼いたしました、フィリップ君。しかし、よろしいのですか? ここでは人目につく恐れがありますが」

 「今更何を言ってるんですか。こちとら未だに平民階級のクラスメイトには『猊下』とか言われて、貴族の人たちには『龍狩りの英雄』とか言われてるんですよ。これ以上何をどう勘違いされるって言うんですか」

 「まだまだ正確な方ではありませんか。教皇庁の王国支配政策の手駒、なんて言われていないだけマシでは?」


 相変わらず表情を変えずに言うナイ神父。フィリップは「みんなそこまで馬鹿じゃないでしょ」なんて笑いながら、違和感の正体に気付かないまま、それに慣れて、違和感を失くしてしまった。


 「それで、ご用件は? 私に会いたかったのであれば、ただ一言お呼び頂ければ──」

 「ティンダロスの猟犬がいるんですか? 今、ここに」

 「すぐに──はい?」


 ナイ神父が仮面のような微笑のまま問い返すと、フィリップは意外そうに片眉を上げた。

 あのナイアーラトテップがフィリップの言葉を聞き損じるとは──フィリップに二度同じことを言う手間をかけさせるとは、フィリップが表情を変える程度には意外なことだった。


 「ティンダロスの猟犬──ティンダロスの追跡者? 呼び方は何でもいいですけど、奴らがここにいるんですか?」


 怪訝そうにしつつも問いを繰り返したフィリップに、ナイ神父は「失礼いたしました」と腰を深く折ってから、貼り付けた微笑のまま問いを返す。


 「襲われたのですか?」

 「もしそうなら、ここで安穏と喋ってはいないでしょうね。奴らは苟もシュブ=ニグラスとマイノグーラの子孫……まぁ、何世代目かは知りませんけど、とにかく人間が太刀打ちできる相手じゃあない」


 自慢ではないが、もしもティンダロスの猟犬に襲われていたら、フィリップは今頃死んでいる自信があった。

 クトゥグアやハスターを呼ぶ余裕は無い。シュブ=ニグラスの血を求める暇も──今のフィリップがそんなことをするかどうかはさておき──無い。そして勿論、蛇腹剣で抵抗できる相手でもなければ、致命傷を与えて放置するような、獲物に止めを刺さないような間抜けでもない。


 「確かに。1分も持たずに死ぬでしょうね」


 さも当然のように言うナイ神父。

 その薄ら笑いに気分を害したフィリップは口元をひくつかせるが、ナイ神父を言い負かせる気もしないし、喧嘩しに来たわけではないので何も言わなかった。


 その代わり「で、居るんですか?」と答えを急かすと、ナイ神父の薄ら笑いは深い微笑に変わった。


 「フィリップ君……確かに、あれらは外神とも旧支配者とも違う独立陣営であり、君に対しても尊重や敬意は無いでしょう。君が襲われる可能性はゼロではありません。ですが、あれらの住む領域はこの時間の外です。こちらに干渉するには、幾つもの条件が揃わなければなりません。君の想像ほど簡単に現れるような手合いではありませんよ」


 嘲笑の内に呆れさえ滲ませたような声に、フィリップは腕を組んで天井を仰ぎ、しばらくの間黙考に浸った。

 

 確かに言われてみれば、ティンダロスの猟犬なんて早々お目にかかることの無い手合いだ。

 奴らが棲息するのは、このとは異なる時間。あらゆる全てが鋭角と直線のみで構成された、尖鋭時空。対比して『曲線時空』などと呼ばれるフィリップの住む時間へ出てくることは滅多にない。それこそ、不幸にも奴らの領域に立ち入ってしまった不届き物を追討するときくらいだ。


 そして奴らを呼び出す最も手っ取り早い方法は、時間移動すること。

 最も簡単な方法で、それだ。曲線時空の全てを嫌悪し、憎悪し、殺意すら抱いている奴らを召喚して使役することは不可能であり、誰かが意図的に呼び出した可能性は無い。


 ややあって、フィリップは「まあ、そうか……」と納得して呻いた。


 しかし、フィリップにはまだもう一つ、ナイ神父に聞いておきたいことがあった。言うまでも無く、例の“お化け”のことだ。こちらに関してはフィリップが自分の目で見たというか、完全に遭遇している以上、居るか居ないかなんてことは聞くまでも無い。


 「……それと、あのお化けは何なんですか? 一瞬目に入っただけで、輪郭もはっきりしなかったですけど……本物のお化けですよね、アレ」

 「お化けですか。……そういえばフィリップ君、もう御存知とは思いますが、ここは元は砦、旧軍事施設です。つまり、ここで戦い、死んでいった多くの軍人たちの怨念が──おっと」

 

 すぱぁん! と乾いた快音が塔の玄関に響き渡る。おどろおどろしく作られた声での語りは、それによって中断された。

 ナイ神父の脛を蹴り飛ばしたフィリップは、そのまま肩を怒らせて中庭へと出て行った。


 その背中に深々と一礼したナイ神父の姿は、一瞬の後には猫耳と尻尾の生えた幼い少女の姿に変わっていた。彼女は幼気さとは対極にあるような傲慢な動きで首を傾げ、窓から見える女子A棟に鬱陶しそうな一瞥を呉れた。


 「これだから劣等種は困るんですよねー。あーあ……」


 彼女は面倒そうに溜息を吐くと、フィリップとは逆に塔の中に足を向けた。


 

 ◇



 フィリップが足早にルキア達に合流したとき、皆はミナを相手に模擬戦をしていた。

 今はウォードとマリーが二人がかりで戦っていたが、ミナは魔剣どころか武器らしい武器を使わず、ウォードの模擬剣の峰を素手で払ったり、マリーの蛇腹剣の先端を摘まんで取り上げたりしている。


 最上位吸血鬼の無双っぷりに苦笑しつつ、フィリップは外壁にもたれかかって休憩しているルキアとステラの方に歩いて行った。汗を拭いたり、水を飲んだりしているから、ウォードたちの前にミナとやり合ったか、二人で模擬戦でもしていたのだろう。


 真っ先にルキアが気付き、すぐ後にステラが気付いて手を振った。フィリップも手を振り返しながら近づいて、二人の横で外壁に背を預ける。


 フィリップはウォードとマリーが軽くあしらわれるのを眺めながら、ナイ神父との会話の内容を部分的にはぼかして二人に伝えた。特に、『時間』が二つ存在するというのは、フィリップでも理解できないことだ。尋ねられても説明できないというか、所々に邪悪言語に特有の単語が入るので説明のしようがない。


 「……一番の問題については、僕の考えすぎみたいです。でも、や、やっぱりお化けはいるんですよ……! この砦で死んだ兵士たちの霊が集まって異形になったんだ……」 


 そういえば甲冑めいた外殻を纏っていた、なんて思い返すフィリップ。輪郭も判然としなかったのだが、一度そうだと意識すると、そうとしか思えなくなっていた。

 しかし、ステラはむしろ怪訝そうに首を傾げた。


 「いや、この砦は結局、一度も実戦投入されないまま廃棄されたはずだぞ?」


 フィリップはふむふむそうなのかと頷き、ステラを見て、ステラを二度見した。


 「えっ? そ、そうなんですか?」

 「そのはずだが……」

 「私の方を見られても困るのだけれど……帝国と戦争していた時に、この辺りが前線になったと習った記憶は無いわね」


 自信無さげに言ったルキアと、「そのはずだ」と頷くステラを交互に見て、今度はフィリップが首を傾げた。


 「つまり……おちょくられた?」

 「……そうかもしれないな」


 ステラが揶揄うように言った。

 フィリップは両手を上げて悪態をついたが、顔は呆れ交じりに笑っていた。呆れの矛先は相変わらずなナイアーラトテップと、愚かにもナイアーラトテップに信を置いた自分自身だ。


 「もうちょっと思いっきり蹴ればよかった! ……ミナ! 次僕! キックの仕方教えて!」


 「キック……?」と首を傾げるミナ。フィリップの体格でキックなんてほとんど無意味というか、徒手格闘になった瞬間に負けが確定していると言ってもいい。今日は軽めで、と事前に言われていなければ冗談だと思って聞き流すところだった。


 ルキアは笑いながらフィリップの後を追いかけようとして、らしくなく動きの鈍いステラを振り返った。


 「ステラ? 体調でも悪いの?」

 「いや、それは大丈夫なんだが……カーターの話が正確なら、ナイ神父はあいつの質問にYesともNoとも答えていないだろう? 奴のことだ。カーターを試すとかそんな目的で、あいつが恐れる相手を用意しているんじゃないか……とな」


 ステラの危惧を聞いて、ルキアも眉根を寄せて「有り得るわね」と頷いた。

 フィリップとステラが心の底から打ち解けるきっかけになった一件のことは、ルキアもある程度は聞いている。その前例を加味して考えると、フィリップの成長を確かめるとか、むしろ「龍殺しで満足してはいけない」と示すために、敢えて勝ち目のないような相手を差し向けて来た可能性が浮上した。


 「有り得るわね。……どうする? フィリップに伝える?」

 「それが、私たちの身を守る上では最適解だが……正直に言って、今のカーターは信用できない」


 何かを恐れるように言ったステラに、ルキアは驚いたように瞠目して、次の瞬間には柳眉を逆立てて数歩離れた。その数メートルがルキアの必殺圏にして、ルキア自身を守る安全圏であると、ステラは一目見ただけで見抜いた。


 「何ですって? 別に、貴女が誰を信頼して誰を疑おうと知ったことではないけれど、流石に恩知らずに過ぎるんじゃない?」


 決して声を荒らげることは無く、あくまで淑女然として。しかし厳しい口調で咎めるルキア。彼女がまだ魔術を照準していないのは、相手が無二の友人であるステラだからだろう。


 もし彼女以外の誰かが──フィリップに命を救われ、その人間性さえ賭けさせた誰かが、「フィリップは信用できない」なんて言ったら、ルキアは「聖痕者の中で一二を争うほど手が早い」という風聞に違わぬ行為に及んでいた。


 「待て、私の言い方が悪かった。……私はカーターのことを心配しているんだ。また私たちの為に人間性を捨てようとするんじゃないか、とな。勿論、私の言葉を覚えているなら迂闊なことはしないと思うが……この機会に、自分がそれを実行できるのか確かめるくらいのことはしそうじゃないか?」

 「……確かに」


 フィリップはステラとの茶会以来、二人や衛士たちとは以前のように接している。

 だが心の奥底に罪悪感や恐怖が蟠っていないとは、ルキアにもステラにも断言できない。ステラはフィリップの理解者だが、フィリップ本人ではない。心の内とは、結局は本人だけのものなのだから。


 心が読めたらいいのに──と、一瞬だけ思ったルキアとステラだが、すぐに二人で顔を見合わせて苦笑を交わした。


 「同じことを考えたか?」

 「かもね。フィリップの心が読めたらいいのに……なんて、あの子が一番嫌がりそうなことなのにね」

 「あぁ。まず間違いなく発狂するだろうな」


 二人はミナにキックの仕方を教わり、今はマリー相手に素手で挑むという愚行に走っているフィリップを見ながら、少しの間沈黙に浸る。


 ややあって、ルキアの方から口を開いた。


 「フィリップには言わないでおきましょう。……でも、一緒の部屋で寝ましょうか」

 「修学旅行以来だな。折角だ、ミナも呼んで……いや、あいつは寝るか」

 「かもね。呼ぶだけ呼んでみましょう」


 二人はまた、しばらくの沈黙を共有した。

 視線の先では、フィリップがマリーに前蹴りを喰らわせて、反動で自分の方が倒れていた。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る