第300話

 一応、ミナにも時間操作魔術の実行可否を聞いてみたのだが、彼女にも無理という話だった。闇属性魔術に於いて右に並ぶ者のいないルキアでさえ軽率に検証できない高難易度の魔術となると、他の学生には絶対に無理だろう。一先ず安心したフィリップは、立ち聞きしたサボり学生の話を単なる与太話、尾ひれの類と判断して気にしなかった。

 

 それでも一応、その日の夜、ウォードが寝た後にルキア達の宿舎に行こうと思っていたのだが、無理だった。ステラが狙った通りに、疲労困憊で朝までぐっすり寝てしまったからだ。


 翌朝、フィリップは一生の不覚と言いたげな顔で朝食の席に現れた。

 いつもの将官用の談話室は暖炉の熱でぽかぽか陽気だったが、フィリップは夜通し爆睡していたので眠気を催さなかった。王都のものより数段質の落ちる食事をつまらなそうに食べ終えると、フィリップはミナに聞こえないよう、少し身を乗り出して小声で話しかける。


 「……で、どうでしたか?」

 「昨日の話か。私も気を配ってはみたが、特に変な臭いはしなかったぞ?」

 「そうね。強いて言えば、雨の臭いがしたくらいかしら」

 「まあ、夜は雨だったからな……」


 窓から覗く空は灰色の曇天だったが、雨は夜のうちに止んでいた。


 フィリップは安心したような、むしろがっかりしたような微妙な気持ちで頷き、無言のまま紅茶のカップに手を伸ばした。

 奴らがここに居るのか、居ないのか。それだけでもはっきりすれば、行動の指針も固まるというのに。ルキアかステラの言葉なら無条件に信じられるが、見ず知らずの他人の言葉は鵜呑みにはできない。


 「ナイ教授に聞いてみたらどうだ? 私たちより目は良いだろう?」


 背もたれに体重を預けながら、なんでもないアイディアのように言うステラ。

 一見すると最適解かもしれないが、そもそもあれが素直に答えてくれるとは思えなかった。フィリップだってナイ教授に「奴らがいるんですか?」と聞くだけで問題の半分が片付くなら、とっくにそうしている。


 「アレに会いに行くなら、フィル、先に血を頂戴ね」


 三人の会話には加わらず、ソファでワイングラス片手にフィリップを眺めていたミナが、唐突に眉根を寄せて言う。

 フィリップは「あ、うん、分かってる」とサムズアップで応じるが、ルキアとステラは怪訝そうにしていて、フィリップは補足説明の必要性を認めた。


 「ミナはナイ教授の匂いが、っていうか、ナイ神父とかマザーの匂いも無理みたいで。この前、教会から帰って来たときなんて、頭から水を掛けられたんですよ」


 けらけらと笑うフィリップ。ルキアとステラはとんでもないと言いたげな目でミナを見るが、フィリップは気にしていなかった。いや、当時はかなりショックだったが、理由を聞いた今では納得している。


 「……だって、腐乱死体と抱き合っていたような臭いだったんだもの。石鹸で落ちなかったら、本当にどうしようかと思ったわ」

 「野生動物並みの嗅覚があるのか。それにしては、カーターの臭いは平気なんだな?」

 「フィルはいい匂いじゃない。何を言っているの?」

 

 ミナはさっと立ち上がり、気分を害したように眉を顰めながらフィリップを抱き寄せた。

 本当に心の底から気を悪くしているのは表情を見れば分かったが、ルキアとステラはむしろ、ミナの行為に憤慨していた。ステラは「私たちの目の前で血を吸うなと言ったはずだ」と鋭く咎め、ルキアは今にも魔術をぶっ放しそうな気配を漂わせていた。


 特に血を吸うつもりの無かったミナは深々と嘆息し、フィリップの首筋に顔を埋めて深く息を吸った。


 「匂いはね、薄くても濃くても駄目なのよ。そして純粋すぎるのも、混ざり過ぎているのも駄目。あのマザーとかいう神官は──まあ、神官というだけで、私たちアンデッドにとっては天敵なのだけれど──匂いが純粋すぎるし、黒い二人は、匂いまで黒いわ。あらゆる全ての匂いが混ざり合ったような、黒い匂いがする」

 「……それを薄めると、カーターの匂いになるのか? 正直、私にはカーターの“臭い”も今一つ判然としないんだが」

 「さぁ? 調香師にでも聞いて頂戴。私に分かるのは香りのノートくらいよ。何と何を混ぜて薄めたらどんな匂いになるかなんて、知らないわ」


 ミナの適当な答えに、ステラは少しむっとしたようだった。しかし彼女の言うことにも一理あるというか、香りの合成はかなり専門的な知識が必要になる技術だということを知っていたから、言葉の正当性を認めざるを得なかった。


 「フィルの匂いは、あんなのよりもっと澄んで、冷たい感じね。夜の匂い、雲の無い夜空から降る、月光と星明りの匂いよ」

 「……全く分からないわ。フィリップの匂いは──いえ、なんでもないわ」


 微かに頬を赤らめたルキアが中途半端に言葉を切って、フィリップは続きを確認したい衝動に駆られた。

 好きなのか嫌いなのか、臭いのか臭くないのかで、今後のルキアとの距離感がかなり変わってくる。というか、嫌いだと言われたら全力で距離を置く所存だ。なんせ、龍狩り遠征の時に、フィリップは五頭もの軍馬を壊しているのだから。


 ルキアの精神がぶっ壊れて廃人になるのは何より避けるべきだが、その原因がフィリップの体臭だったなんて笑い話にもならない。


 とはいえ、ここまでずっと一緒に居るのだから、嫌いだとしても通常の範囲──汗臭いとか、その程度だろう。それなら別にどうでもいい。

 いま最優先すべきはそんなことではなく、もっと危険な臭いだ。


 「ミナは、宿舎で変な臭いとか感じなかった? 埃と黴と、腐臭の混ざった淀んだ臭いみたいなの」

 「特におかしな臭いはしなかったと思うけれど……どうして?」

 「んー……どう言えばいいのかな……。人間を殺すためだけに居るようなヤツが、その臭いの原因なんだ」


 ルキアとステラに警告しつつ、ミナにはそれほど緊張感を与えない塩梅の言葉を探り、最終的にそんな表現になった。フィリップが我ながらいい言葉選びだと感心するような調整だ。


 ミナは吸血鬼、人間を餌かペットのように把握している怪物だ。人間を殺すことに特化した化け物なんて、彼女にとって何ら脅威ではないだろう。

 フィリップが駄目押しに「困った連中だよね」と安心させるように笑って見せると、ミナは曖昧に微笑んだ。


 「きみが狙われているわけではないのよね?」

 「分からない……多分、違う。奴らは時間旅行でヘマをした奴を地獄の果てまで追いかけて殺すけど、僕は時間移動してないし……なに?」


 フィリップは言葉を切り、不機嫌そうに尋ねた。フィリップ当人としては真剣に考察していたのに、ミナがくすくすと、上品ながらも可笑しそうに笑ったからだ。


 「だって、大真面目に“時間移動”だなんて言うんだもの。ふふっ……ごめんなさい、続けて?」


 揶揄うような笑みに、フィリップはミナが冗談半分にしか話を受け止めていないことに気が付いた。

 当然、フィリップにしてみれば笑い事ではないのだが、ミナにとって──いや、本当はルキアやステラにとっても、時間移動を前提にして話すなんて、それこそ笑い話だ。現代魔術の常識において、時間操作や時間移動は不可能魔術だとされているのだから。

 

 「……魔術は、何も現代魔術と秘蹟だけが全てじゃないよ、ミナ。僕だってやり方とか理屈は分かんないけど、でも、時間を操作する魔術は確かにある」

 「……そうね。現代魔術でも、理屈の上では可能な技術よ」

 

 ルキアがミナを不愉快そうに見つめながら補足する。

 将官用談話室の中で、フィリップの語った内容を一番信じているのはルキアだった。彼女はそれが自分に実行可能であることを理解しているから、実感と共に、フィリップの言葉が真実であるだろうという推察をすることが出来た。次点で、フィリップのある一定分野に対する深い知見を知っているステラが、フィリップへの信頼を理由に信じている。

 

 しかしミナは、自分の知っている常識が先に立ってしまう。

 フィリップが無意味な嘘を吐いて自分を騙しているとまでは思わないにしても、冗談か、怪談話の延長だと思って楽しんでさえいた。万が一、フィリップの話が本当だったとしても、大した問題にはならないからこその余裕もあるだろう。


 フィリップは「そうだった」と苦笑して、彼女の態度で気を悪くするのは無意味なことだと思い出した。


 「まあ、ミナなら戦って勝てないことは無いと思うけど……個体次第じゃ、何回か死ぬよ」


 ティンダロスの猟犬は恐ろしく強い。だが、殺せば死ぬ。

 対してミナは、同じく恐ろしく強いうえに、10万回殺さないと死なない。


 「言い切るわね? 龍よりも強いということ?」

 「どうかな。でも……奴らと戦うか、もう一度古龍と戦うかなら、僕は古龍と戦った方がマシだと思うな」


 フィリップが苦笑交じりに言うと、ルキアとステラだけでなく、ミナまでもが瞠目した。


 いや、受けた衝撃の度合いで言えば、ミナの方が大きいくらいだ。ミナ自身は一度や二度の死は損耗率で言えば1パーセント以下だし、フィリップが瀕死でもちょっと血を分ければたちどころに癒すことが出来る。即死以外はかすり傷と言ってもいい。

 だが、フィリップが古龍を相手に肋骨と内臓をぐちゃぐちゃにされたことは、その治癒の簡単さとは無関係だ。フィリップは確かに、古龍によって重傷を負わされた。


 そのフィリップが「古龍の方がマシ」というからには、相手はきっと、古龍よりも“戦い”に長けているのだろう。

 腕を振り下ろすだけ、尻尾を振り抜くだけ、魔術をぶっ放すだけで邪魔者を殺せる龍は、自分の性能を過信して“戦い”をしない。一部、剣師龍のような例外もいるが。


 だが、自分が無敵ではないと知って、戦う術を身に付けているものは面倒だ。特に、特化した能力を持っている手合いは──そのための機能を備えているものは。


 「人間を狩るモノなら、人間に対して優越するのは道理だけれど……吸血鬼わたしよりも強いの?」

 「言ったでしょ、個体次第だよ。それに、ミナは奴らの事を知らない。それも結構なハンデだね」


 ミナは「そう」と、殆ど感情を滲ませずに言った。

 フィリップの物言いに、ルキアとステラは言い知れぬ危機感を覚えた。言葉ではなく、雰囲気から察した。──フィリップはまた、一人で戦おうとしている。


 「何か、私たちに出来ることはある?」


 すかさず言うルキアだが、フィリップはYesともNoとも答えかねた。


 「そいつらが居るかどうかも分からないので、何とも。……やっぱり、ナイ教授に聞くだけ聞いてきます。無駄かもしれませんけど。……なるべく三人一緒にいて、角に近付かないでください。あと、変な臭いがしたら、すぐ逃げて」


 「か、角?」と困惑したステラに、フィリップは「えぇ、角です。こんなのとか、そこも、全部の角」と、ナイフの刃や、部屋の隅や、戸棚の四辺なんかを示してみせた。


 ルキアとステラ、そしてミナも顔を見合わせて、フィリップに怪訝そうな目を向けた。

 「そこからが飛び出してくるの?」と揶揄うように問いかけたミナに、フィリップは「えぇ」と当然のように頷いて三人を更に困惑させた。


 「ねぇ、フィル、大丈夫? 昨日はきちんと眠れた?」

 「お陰様で、朝までぐっすり。今日はもうちょっと緩めのメニューにしてくださいね、殿下」


 フィリップはひらひらと手を振りながらナイ教授のところへ行こうと扉に向かい──ミナに手を掴んで止められた。


 「フィル?」

 「あっ! ごめん、血か、忘れてた。えっと、じゃあ──?」

 「私たちが出よう」


 ルキア達は目の前で血を吸われるのを嫌がるからと、フィリップはどこか適当な場所に行こうと脳内地図をめくり始めたが、先にステラが席を立ってくれた。ルキアもその後に、ミナを不愉快そうに一瞥して続く。まあ同族が目の前で食われるのは不快だろうな、と、フィリップは考えた。共感はできないが理解はできるので、まだ自分は大丈夫だ、なんて思っている。


 うんうんと頷くフィリップに呆れ笑いを溢しつつ、ミナはフィリップの背後から矮躯に覆い被さった。







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