第299話

 その日の訓練はいつもより厳しく、フィリップは「きっと夜中にうろうろしないように、限界まで疲れさせるつもりだな」と思った。そして、それは正解だった。


 フィリップは龍貶しドラゴルードのソードウィップ形態の使用を禁じられて、今はロングソードの扱いに慣れるのが優先だ。

 100センチ超の棒を持ったままでは極端に走り辛いから、“拍奪”の精度も大きく落ちる。だというのに、ルキアもステラも容赦なく弾幕の密度を上げてきたし、ウォードもマリーも体格で劣るフィリップを相手にパワー勝負を仕掛けてきた。ミナが一番優しかったぐらいだが、彼女はそもそもこの中で一番強いので、手加減していようが意地悪していようが、フィリップは手も足も出ない。


 「……よし、5分休憩にしよう」

 「…………ぁぃ」


 声も出せないほど追い込まれたフィリップは、ぐったりと地面に寝転がったまま呻いた。

 たったいま、ミナ相手に五分間の耐久──五分間の戦闘機動の持続をこなしたばかりだった。酸素も足りなければ水分も足りないし、アドレナリンの過剰放出で手足がプルプルしている。心拍も異常に速いし、耳鳴りまでする。ここまで体を酷使したのは久し振りだった。


 というか、何なら龍狩りより疲れた。まあ、あの時は一撃喰らって以降、大ダメージによる感覚麻痺状態だったからあまり参考にはならないが。


 フィリップはそんな益体の無いことを考えながら、モゾモゾと動いて何とか立ち上がった。


 「大丈夫?」

 「だいじょぶれす。といれれす」


 口の中に粘ついた涎がまとわりついているのに、喉はカラカラでマトモに声が出せなかった。心配そうなルキアに適当にサムズアップして追い返すが、別にトイレに用があるわけではなかった。というか、ここまで交感神経優位だと尿意も便意も消え失せる。


 顔でも洗って戻ろうかな、と考えながら中庭に入ると、妙に多くの生徒と目が合った。──いや、ここ一カ月くらいはずっとそうだったのだが、今朝のステラの話で多少なりとも意識が変わり、自分に向けられた視線や意識に敏感になっていた。


 所属する学校、学年、性別を問わず、フィリップの方を見ては近くの生徒とひそひそと話しているのが目に付く。その中の殆どが貴族で平民は二割にも満たないのだが、フィリップには知る由も無いことだった。

 男子生徒は声がよく通るからか、「あれが例の」とか「まだ子供なのに」とか漏れ聞こえてくる。女子生徒は会話の内容より、フィリップをちらちら見ながら漏らすクスクスという笑い声が耳に付いた。そんなに笑える逸話はないはずなのだが、何がそんなに面白いのだろうか。


 フィリップは少しだけ気を悪くして、足早に塔の中に入った。

 中には風の当たらないところでサボっている男子生徒がいて──見回りの生徒や教員が来たら「トイレに来ただけです」と言える位置だ──フィリップを見ると慌てて立ち上がったが、見回り役ではないことに気付くと、また廊下の端に座り込んで駄弁り始めた。


 フィリップがトイレに入るときは「あれ、例の龍狩りに付いて行ったって子じゃないか?」と囁き合っていたのだが、出てきた時には全く別の話題にシフトしていた。


 「ホントか? ってか、なんで女子寮のことなんか知ってんだよ」

 「いや、昨日彼女の部屋に行ってて」

 「は? どうやって?」

 「中庭玄関の鍵、彼女が開けといてくれたんだよ」


 ウォードの友人──マシューと似たようなことを考えるやつがいたのか、と意外そうな一瞥を呉れて、フィリップはそれ以上の興味を持たずに彼らの傍を通り過ぎる。

 しかし、すぐに聞き捨てならない内容が聞こえてきて、フィリップは廊下に張り出された部屋割り表で友達の名前を探すふりをして立ち止まった。


 王宮に両親が呼ばれたことで“猊下”疑惑はかなり収まったものの、今度は龍殺しの英雄になってしまったフィリップに友達なんていないのだが。


 「そこでさ、お化けが出たんだよ。いや、見たわけじゃなくてんだけどさ……」


 サボり学生は演出のための間を置いた。

 片割れとフィリップは全神経を耳に集中し、彼が語る情景を詳らかに想像しようと準備した。


 「滅茶苦茶遠くから聞こえるような、むしろ耳元で聞こえるような奇妙な声でさ……聞こえたんだ……“たすけてください”……“ゆるしてください”……って。女みたいにか細い声だったけど、男の声だったな。妙だろ? 俺みたいに忍び込んだ野郎が、誰か女子生徒にボコられてたって風じゃない。それなら、もっといろんな音が聞こえたはずだ」

 「うわ、うわーっ! クッソ怖いな、おい! それで? 見たのか?」

 「いや、見てない──」


 これ以上の情報は無いか、とフィリップはサボり学生から離れていく。いや、そもそも彼の話した内容が本当なのかも怪しい。いわゆる尾ひれ、彼の創作や勘違いである可能性の方が高いくらいだ。


 お化けはいる。それは間違いない。フィリップが自分の目で確かめたのだから。

 しかし、フィリップの前であれは一言も発していないし、一目見ただけだが人語を解せるようには見えなかった。あれは明らかに人外の何かだ。


 「でも、彼女の部屋から出た時さ、妙な臭いがしたんだ」

 「性臭か? だったらお前の鼻にこびりついてただけだぞ」

 「うっせ。ホントに怖かったんだから黙って聞けよ」


 フィリップはなんとなく足を止め、もう少しだけ立ち聞きすることにした。

 それは別に彼の話が急に信憑性を帯びたように感じたとかそういう訳ではなく、“臭い”というワードに気を引かれたからだ。フィリップがミナに惹かれ、ミナがフィリップに惹かれ、そして何よりフィリップが一部の神話生物に好かれ、ほぼ全ての野生動物に嫌われる理由。──『におい』。


 「なんていうか、くさいっていうのはそうなんだけど、それ以上に怖くてさ。爺ちゃんが死んじまった時、埋葬するまで寝かされてた地下室の……死体安置所っていうのか? あそこみたいな独特のやつだった。埃と黴と、あとは……こう、病気っぽい臭いと、ちょっと腐ったような臭いもしてさ。吐きそうだし、何より怖かった……」


 サボり学生は思い出しただけで顔を蒼白にしていたが、友達の前だからか、両腕で震える肩を押さえつけて気丈に振る舞っていた。


 彼らはふと廊下に目を向けたが、フィリップはとっくのとうに走り去っていて、もう砦の正門を出たところだった。


 ふらふらしながらトイレに行ったかと思えば、今度は全力疾走で帰って来たフィリップに、ルキア達年上組──或いは指導組──は揃って怪訝そうな目を向けた。


 「どうしたの? お化けでも出た?」

 「そんな感じです! ちょ、ちょっとルキアと殿下だけ来て貰っていいですか? 大至急!」


 フィリップは揶揄うような笑顔のマリーに余裕なく返し、ルキアとステラの手を掴んで城壁の影に引っ張っていく。

 片や王族、片や最高位貴族という生まれで、何より聖人という地位がある二人は、生まれて初めての乱暴な扱いに顔を見合わせて微笑を浮かべた。


 残された三人に声が届かない場所まで離れたことを確認して、フィリップは二人の手を引いて顔を突き合わせる。二人が全く抵抗しなかったので危うく頭をぶつけそうになり、皆が一斉に顔を引いた。


 「……どうした? 何か問題か?」

 「大問題かもしれません。……ルキア、前に重力操作の極致は時間操作だって言ってましたよね」

 「そうね。……貴方が「絶対やるな、死んでもやるな」って言うから、試したことは無いけれど」


 怪訝そうに答えたルキアに、フィリップは刺すような目を向けた。そこに含まれた強烈な疑念の色に、ルキアは傷付いたように眉尻を下げる。


 だがフィリップは視線を全く緩めない。

 赤い双眸の奥底を見透かそうとするように、暗く淀んだ青い瞳を眇める。ステラが嗜めるように伸ばした手も、それどころではないと言いたげにぞんざいに払った。


 「本当に? 一度もやったことはないですね? 少しも試したことはないんですよね?」

 「えぇ。私の神に誓って、魔術式の一項たりとも実行したことは無いし、魔術の一部だって使ったことは無いわ」


 ルキアの声は固かったが、嘘を吐いている感じはしなかった。尤も、フィリップに言葉の真偽を確かめるような目はないのだが──フィリップは何度か浅く頷いて、それから深々と頭を下げた。


 「疑ってごめんなさい、ルキア。凄く重要なことだったんです」

 「……いいのよ、気にしないで」


 そう言って、ルキアはフィリップを柔らかに抱擁した。仲直りのハグといったところか。フィリップも自分が焦っていた自覚はあったし、焦燥感から態度がキツくなっていたのも自覚していたから、最大限に親愛の情と謝罪の意を込めて抱擁を返した。


 ややあってルキアの方から手を放すと、フィリップは今度はステラの方に目を向けた。


 「一応聞いておきますけど、殿下は使えませんよね? 時間操作魔術」

 「引っ掛かる言い方をするじゃないか。まぁ、使えないが……言っておくがルキアが特別なだけで、他の誰にも無理な魔術だぞ? そもそも超重力空間において時間の流れが変わるというのも、ただの仮説で──」

 「──あ、すみませんでした、ごめんなさい、拗ねないでください……」

 「拗ねてはいない。……で、どういう話だ? お前の慌てようを見るに、の話のようだが」


 流石、と指を弾くフィリップ。

 その脳内では、どこまで話すべきかと思考が急回転していた。


 フィリップが危惧していることが現実に起こっているのなら──奴らがこの空間にいるのなら、最低でも二人を同じ部屋で眠らせるか、フィリップ自身が立哨になる必要がある。


 奴らとは即ち、死体安置所の臭いを振りまく常外の存在。この世に在らざるモノ。


 ──ティンダロスの猟犬。

 フィリップが知る非神格の中で最も恐ろしく、シュブ=ニグラスに与えられた智慧が最大限の警戒を呼び掛ける怪物。


 単純な強さで語るなら、恐らく、古龍に軍配が上がる。「ただそこに在るもの」として、龍はそれなりに高位にいる。

 だが攻撃力──いや、で語るなら、奴らの勝ちだ。「追い立てるもの」「狩り殺すもの」として、奴らを上回るものはいない。


 奴らは古龍のような存在格を持たず、最上級金属を鍛えた武器による攻撃すら軽減する鱗も持たない。外皮は硬くはあるものの、フィリップの蛇腹剣でも徹せる程度。その代わりのように、人間に対する執着的な殺意と、それを叶えるための追跡能力と攻撃力を持っている。

 フィリップのカルトに対する偏執的なまでの敵意ですら、奴らの執着心に比べれば一歩劣るほどだろう。


 その執着心は、主に時間移動を成し遂げた者に向けられる。

 ある特定の手段を用いて時間を移動すると、その道中で奴等の棲み処に立ち入ってしまうのだ。そこで臭いを覚えられて──奴らが臭いを頼りに獲物を追うかどうかは判然としていないが──次元の果てまで追跡され、追い詰められ、そして殺される。


 奴等の追跡を逃れる方法は極めて少ない。

 極めて難解な禊の魔術によって臭いを誤魔化すか、追跡者を撃退するかの二択だ。逃げ続ける限り、追い続けてくる。たとえマイナスの時間をかけて逃げようと──つまり、時間移動する前の時間にまで遡ったとしても、奴らはそれを追ってくる。


 恐ろしいのは、それが単一の存在ではないところだ。

 猟犬とは言うものの、その外見は決して犬には似ていない。その名は在り方から取られたものだ。


 奴らは大量に飼育され、使役され、普遍している。

 ティンダロス領域の住人たちにとって、奴らは狩りの道具でしかないのだ。その総数は全くの不明だ。フィリップがこの大陸を駆け回る猟犬たちの数を知らないように、笑えるほど膨大だということだけは絶望的にはっきりしている。


 恐ろしく、悍ましい。

 奴らのことを詳しく、そしてはっきりと知っているフィリップが身震いするような化け物どもだ。アレと対峙するのなら、もう一度古龍と対決した方がマシだとさえ思う。なんせ、古龍相手なら逃げ切れる可能性があるのだから。


 「……知らない方がいい話です」


 フィリップは結局、ステラの問いを拒絶した。

 ステラはルキアのように傷付いた表情を見せず、むしろ事の重大さを理解したように深く頷く。その表情に微かな恐怖が過ったのを見て、フィリップは慌てて、努めて明るい声を出した。


 「それに、まだ確定したわけじゃないんです。ルキアが時間操作魔術を使ってないなら、そもそも起こり得ないはずで……勘違いとか考えすぎとか、杞憂の類だと思いますし」


 面倒なことを聞いてしまった、と、フィリップは深々と嘆息した。











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