第298話
後ろを確認しながら走っていたフィリップは、部屋の扉の一つが軋みながら開いたことに、激突の直前まで気付かなかった。
ごっ、と鈍い音を立てて弾かれた左手が、ドアと接触したのだと分かった時には、既に体勢を崩して転んでいた。
「痛った!?」
素早く立ち上がったフィリップは、自分が侵入者であり、就寝時間後に廊下をドタドタ走り回っていたことを完全に棚に上げて、何処の馬鹿がドアを開けたんだと恨みがましい視線を向ける。
その不遜な視線を、およそ人間に向けるものではないような、絶対零度の赤い視線が押し潰した。
見下ろす双眸に宿るのは、耐え難い馬鹿を見る冷酷な光。目だけで言葉が話せるとしたら、きっと「どうしてお前は生きているの?」とでも言いそうな、心胆を凍り竦ませる一瞥だった。
しかし、赤い双眸は驚いたような瞬きのあと、親愛に満ちた暖かな光を宿し、そして怪訝そうに眇められた。
「……どんな愚か者がこんな時間に騒いでいるのかと思えば、フィリップ、貴方なの? 明日も訓練なんだから、早く眠りなさいな」
そう言う彼女はもうベッドに入っていたようで、滑らかな光沢のある生地のパジャマ姿だった。
呆れたような微笑を浮かべたルキアは、フィリップが女子用宿舎にいることに拒否感を持っていないようだ。何をやっているのだろうという疑問は、勿論あるようだが。
「る、ルキア! お化け、お化けが出ました! 今さっき、すぐ下の階で!」
「お化け……?」
ルキアは微かに首を傾げ、フィリップの足元をじっと見つめた。
その視界のチャンネルは魔力次元に合わせられており、硬い石の床を透かして階下の魔力情報を読み解いている。ややあって顔を上げた彼女は、どこかばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「……何か、見間違えたんじゃない?」
「いやいやいや、あれは絶対お化けでした! 確実に人間じゃなかったし、なんか透けてたんですって!」
「そう……」
ルキアは自分の目とフィリップの言葉をどちらも信じて、何とか妥当性のある推理をしようと頑張っていた。
しかし、数秒の黙考は階段を上ってきた教師の怒声で中断される。
「そこの君、何してるの!」
「やば──、っ!?」
思わず声を上げかけたフィリップは、廊下の側から押されるような、或いは部屋の中から引っ張られるような不思議な力に導かれて部屋の中に転がり込んだ。
明らかにフィリップを見つけて怒った女教師は、肩を怒らせてずんずんと歩いてくる。ルキアは悠然と立ったまま、彼女を迎え撃つ姿勢だ。
しかし彼女がルキアの部屋の前に到達したとき、フィリップの姿は何処にもなかった。彼女はルキアが部屋に入れたのだと思って開け放たれたままのドアから中を覗くが、中に人影はない。
「……サークリス聖下、今ここに──」
「勘違いよ。行きなさい」
吐き捨てるように命じるルキアの声に、数秒前までの親愛の情や柔らかさの類は一片も残っていなかった。
女性でありながら騎士爵位を持った教師が、思わずぐっと息を詰まらせる。肺の中が凍り付いたと錯覚するほどの、心胆を震え上がらせるような隔意の奔流に襲われて。
「っ……はい、聖下」
気付けば、一礼して踵を返していた。
支配魔術や、脅迫によるものではない。
ただ単純に気迫で押し負けて、一刻も早く立ち去りたいという衝動に駆られた結果だ。
足早に立ち去っていく教師の背中が角を曲がって見えなくなると、ややあって、二つ隣の部屋の扉がそっと開いた。
「……なんでカーターがここに居るんだ?」
ルキアと同じくパジャマ姿のステラが顔を出して、眠気交じりの胡乱な目を向けた。
「なんのこと?」とルキアはしらを切ったが、ステラはルキアの部屋の方に壁を見透かすような目を向ける。それだけで、ルキアは澄まし顔を苦笑の形に歪めた。
「……フィリップ、いい?」
「はい、勿論」
ルキアは肩を竦めて一歩、廊下側に避けた。
その隙間を通って外に出たフィリップは、今まで何も無かったところに自分の身体を見つけた。他人を透明化させるのは難しいと本で読んだのだが、ルキアは先生に見られながら一部の狂いもなくフィリップを透明化させて隠してくれたのだ。
その精度と速さたるや、フィリップは自分の手や足が無くなってパニックに陥る寸前だった。
「ルキフェリア、「いい?」ってどういう意味だ。もし「駄目です」と言われたら、私と撃ち合うつもりだったのか? いま、ここで?」
「貴女が強要するのなら、そうなっていたかもね」
挑戦的にではなく、あくまで淡々と言ったルキアに、ステラは呆れたように嘆息した。
「お前は全く……まあいい。カーター、お前はここで何をしてる?」
「え? あ、そうだ、お化け! 殿下、お化けが出ました! 今さっき下の階で──」
「──声が大きい。消灯時間後だぞ」
ステラに頬を掴まれて、フィリップは「う、す、すみません」とモゴモゴ謝った。たったいまルキアに助けられたのに、ステラ以外の生徒や別の教師に見つかったら面倒だ。
「お化けを探しに来たのか? 何か、邪神に関係したものなのか?」
「いえ、それは……違うと思います、多分」
なんか怒ってる? と恐々と、フィリップはつい先刻に遭遇した“お化け”のことを思い返す。
でっかくて、半透明で、明らかな異形ではあったが──神威は微塵も感じなかった。フィリップの神威を感じるセンサーはほぼ麻痺していると言ってもいいが、それも地球産の相手に対してだけだ。邪神に連なる相手なら、故郷の森にいた黒山羊程度の劣等種相手でも感じ取れる。
あれは邪神に関連した手合いではない。
邪神そのものでもなければ、その落とし仔でもないはずだ。
「……それを確かめに来たのか?」
「え? いえ、お化け探しに──」
漫然と答えたフィリップだが、ステラの顔を見た上で先を続けることは出来なかった。言葉は尻すぼみに小さくなり、おずおずと上目遣いにステラの顔色を窺う。
彼女は呆れると同時に、怒ってもいた。深々とした嘆息が、それを端的に表している。
「好奇心で女性の寝所に忍び込むのは、賢い行いとは言えないな」
「え? いや、部屋には入ってません!」
フィリップは100パーセントお化けの正体を見極めるためにここに来たのだが、別なやましい目的があったかのように言われ、慌てて言い募る。
しかし、ステラはフィリップの言葉に大した意味を見出さなかった。ルキアとステラ以外の生徒に見つかった場合にそうなるように。
「同じことだよ、部屋でも廊下でも、入ろうとしていたと思われたら終わりだ。ここには私たち以外の女子生徒も大勢いるんだ。私のテントとは訳が違うんだぞ」
ぴしゃりと言い切ったステラに、ルキアもこくこくと頷く。
当初は然程気にしていなかったようだが、やはりここまで軽率な行動を看過するのはフィリップの為にならないと思い直したらしい。が、ステラが妙に引っ掛かることを口にしたのに気付いてしまった。
「そうね、確かに軽率……テント?」
「ん? あぁ、カーターが前に寝惚けて私のテントに……いや、そんなことはどうでもいいだろう?」
寝惚け眼から復帰する速さは流石の一言だが、如何せん、少しばかり遅かった。
「……明日聞くわ。フィリップ、出口まで一緒に行きましょう」
「はい。あの、殿下、すみませんでした」
フィリップを伴って廊下を歩いていくルキアの背中に、ステラは寝言のように「やらかした……」と呟いた。
ステラも人間だ。寝入った直後に教師の怒声で──かなり控えめだったが、元々寝ていても外界の様子に敏感なステラを起こすには十分だった──起こされていれば、思考の速度も大きく落ちる。
ただ、その言い訳でカバーしきれない程度には、漏らした情報は大問題だった。
以前にミナの城から帰る道中で、フィリップがテントを間違えて入って来たことがある。どういうわけか、見張りをしていたメイドが素通りさせて。「もうちょっと詰めてよミナ」などともにょもにょ言いながら押しやられて「なんだこいつ」とは思ったものの、ついそのまま二人で寝入ってしまったことがあった。
勿論、アクシデントはそれだけだ。一緒に寝る以上のことは無かったし、朝起きて「何してるんですか?」と半笑いで尋ねたフィリップ──ステラがテントを間違えたと思った──をくすぐり倒したあと、ちゃんと緘口令を敷いた。ちゃんとルキアのメイドにも灸を据えて、フィリップ同様に緘口令を敷いた。
なのに、まさか自分で口を滑らせるとは。
ステラは夢であってくれと思いながら自室に戻り、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。その日ステラは、ルキアに正座させられて説教される夢を見た。
◇
翌朝の朝食時にも、ステラはまだ怒っていた。
挨拶もそこそこに手早く食事を終えた彼女は、フィリップが食べ終えるのを待ってグラスを置いた。
「……カーター。昨日の件について、追加で話がある」
「え……」
怒られるだけでも嫌なのに、同じことで二度も怒られるなんて最悪というほかない。それに、ステラは同じことで長々と怒るタイプではないと思っていたのだが、見込み違いだったのだろうか。
「そう身構えないで。怒るというよりは……そうね、注意喚起が主だから」
苦笑交じりにルキアが宥める。二人は事前に何を話すかを共有していたようだ。
要は説教じゃないかと思ったフィリップだが、口にも態度にも出さない。怒られている最中に反抗したって、何もいいことは無いのだから。反論材料が完全な時にだけ反論して、あとは適当な相槌と「反省してます感」でやり過ごすのが賢い行いだと知っていた。特に、自分に非があるときには。
まあ、二人からするとフィリップの顔には「めんどくさいな」と明記されていたのだが。
「昨日の夜、お前は女子用の宿舎に入って来たが──あれは軽率に過ぎる」
「……はい。すみませんでした」
ルキアもステラもフィリップと仲がいいとはいえ、女性だ。寝室の近くを男がうろうろしていていい気はしないだろう、と、一晩経ってお化け騒ぎの興奮が落ち着いた今なら理解できる。
だがそれはそれとして、やっぱり同じことで二度も怒られるのは気分が良くなかった。
しかし、ステラは「謝る必要はない」と頭を振った。怪訝そうに首を傾げたフィリップに、彼女は「まぁ聞け」と先を続ける。
「お前は龍殺しの英雄、そして将来の公爵候補だ。爵位の貴賤を問わず、いや、貴族・平民を問わず、喉から手が出るほど欲しがる輩が大勢いる」
「え? はぁ……そうなんですか?」
ステラの言葉に説得力はない。いや、フィリップはステラの言葉をほぼ無条件に信じるので、正確には実感が無いと言うべきか。
貴族平民を問わず“欲しがられた”ことは一度も無い。というか、そもそも龍殺しの英雄に関してはほぼ間違いだし、公爵候補に関しては初耳──「爵位と領地は然るべき時に渡すからね」としか言われていないし──だった。
胡乱に尋ねたフィリップに、ステラは淡々と頷く。
「そうだ。お前の年齢諸々を考慮して王宮の側で差し止めているが、婚約の申し込みは後を絶たないし、既にお前の家族に対する強硬な干渉が──落ち着け、王宮の監視役が対処した。お前の家族にも気付かれていない」
フィリップが怖気を催すような怒気を纏い、ステラは慌てて宥める。
自分やルキアがそうであるように、フィリップもまた大量虐殺に心理的抵抗感を持たない破綻した精神の持ち主だ。もしもフィリップが王国貴族に対してカルトに対するものと同等の敵意を持ってしまえば、王国は容易に滅びるだろう。
「奴らはどんな手でも使うだろう。特に、お前が実際に爵位を持たない平民であるうちはな。魔術、薬物、姦計、何でもするだろう。簡単かつ言い逃れし辛いのは、やはりハニートラップだ。もし仮に女子用宿舎にいるところを奴らに見つかってしまえば、そのまま部屋に連れ込まれて──」
「──ステラ?」
「……大変不味いことになっていた。分かるな?」
ルキアとステラが表現についてアイコンタクトを交わすのに気付かず、フィリップは顔を蒼白にしてこくこくと頷いた。
それは非常に不味い。なんせヨグ=ソトースの守りは龍の一撃さえ素通しするザルっぷりだし、フィリップの対スリープ・ミスト対戦成績は0勝2敗だ。フィリップが抵抗できる可能性はない。
「普段は私たちが一緒にいるし、ミナを怖がって強硬策に出る奴は殆どいない。そもそも平民連中でお前のことを知っている奴はごく一部だろう。だが、お前が自分から餓狼の顎に身を差し出したのなら話は別だ。たとえお前にそのつもりが無くても、お前が望んでいなくても、この世には“既成事実”という便利で恐ろしい言葉がある。……意味の説明は必要か?」
「い、いえ、大丈夫です……」
実体験とか身近にハニトラ被害者がいるとかそういうわけではないのだが、フィリップが以前に読んだ本の中に、そういう展開の話があった。あれは確か、ハニートラップを喰らった英雄が最後には毒殺されて終わる。
ハッピーエンドを迎えない英雄は、大抵裏切りによって後ろから刺されるか、毒を盛られるかで死ぬから、そう珍しい展開というわけでもないのが恐ろしいところだ。
「そういう訳だ。カーター、お前に人間に対する警戒心を持たせたくなくて、ずっと黙っていたが──」
「──杞憂ですよ、殿下」
見定めるような、或いは子供が親の顔色を窺うような目と共に言葉を切ったステラに、フィリップは安心させるように笑いかけた。
この程度の事で、フィリップが人間全体に警戒心を持つことは無い。良くも悪くも、人間風情に警戒心を持つことが難しいのだ。そして、フィリップが人間を見限ることもない。フィリップはもう、泣きたくなるほどに美しい人間性を目の当たりにして、人間の素晴らしさを知っているのだから。
「でもそれはそれとして、毒殺はイヤなので気を付けます」
フィリップは大真面目な顔で、しかつめらしく頷いた。毒殺とか絶対苦しいもんなぁ、なんて考えている。
ルキアとステラは「ハニートラップ=毒殺」という極めて限定的な論理の飛躍に首を傾げたが、フィリップが軽率な行動をしなくなるなら何でもいいので、曖昧に笑って頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます