第286話

 数時間後。 

 太陽が直上に位置する頃に、フィリップたちは龍のいた場所の近くまで戻って来た。


 出立に際してはエルフたちに手を振って見送られたり、「手伝うよ」と申し出てくれた腕自慢たちを何とか説得してエルフの集落に残してきたりとイベントはあったが、結局は衛士たちとフィリップ、そして最後方待機のフレデリカで事に当たる。


 今回は夜を待つ余裕もなく、偵察兵が龍の所在を確認した後、すぐに攻撃開始となった。


 ただ、ここで一つ問題がある。

 前回は夜だったから、フィリップの臭い──所謂『月と星々の匂い』が、ある程度は誤魔化されていた。しかし今は昼日中、森に入ればたちまち獣が騒ぎ出し、龍もたちどころに気付くだろう。そうなれば衛士団長による一撃が奇襲ではなくなり、命中率が著しく下がる。


 とはいえこの問題を共有すると、出てくる案は「フィリップを残して衛士たちだけで行こう!」というものだろう。そうなるとどうせ「このままフィリップは森の外に置いておいて、俺たちが壊走するまでは待機させようぜ!」となり、ポコポコ死んでいくに違いない。


 フィリップは衛士たちを信頼している。

 何かしらの口実があれば、なるべくフィリップを戦いから遠ざけようとするだろうと信頼している。フィリップが危険に晒されるか自分が死ぬかなら笑って後者を選ぶと信頼している。


 そして、彼らはその信頼に応えるだろう。だから嫌なのだ。


 何も言わないまま、衛士たちと一緒に森に入り、息を殺して龍へと近付いていく。

 木立の隙間からちらりと見えた錆色の古龍は伏せていたが、頻りに首を上げては空気の匂いを嗅いでいた。即座にフィリップの位置を特定できない辺り、狼ほどの嗅覚は持っていないようだが、やはり警戒されている。


 「僕が囮に──」

 「駄目だ。言っておくけど、二度目は無いよ」


 昨日と同じくフィリップの前を歩くジェイコブが振り返らずに言う。彼はフィリップの拍奪突撃を止められなかったこと、その結果としてフィリップが死にかけた──フィリップ自身にそんな認識はないのだが──ことを、酷く悔やんでいた。


 「君が前に出ていいのは、団長から召喚術使用の許可が出た時だけだ。いいね?」

 「はーい……」


 間延びした返事はどう聞いても本気ではなく、「隙を突いて前に出よう」と考えていることが丸わかりだった。

 しかし衛士たちとて歴戦の戦士。フィリップの『拍奪』は両目と脳で相対位置を認識するなら効果を発揮するが、あくまで歩法だ。移動していなければ発動しない以上、警戒した衛士が前後を囲んでいてはすり抜けるのは難しかった。


 しかし、幸運にも──或いは不幸にも、フィリップが衛士たちを出し抜く必要は無くなった。


 「────!!」


 龍が吼える。

 森の木々を揺り倒し、天上の雲さえ千切りそうな大音響に、フィリップも含め全員が耳を塞いで身体を硬直させた。


 恐怖や怯懦は訓練によって抑制されても、音ばかりはどうにもならない。いや、防がなければ聴覚に悪影響が出る。だからそれは仕方のないことだが、明確な隙だった。


 木立の合間を縫い、黄金色の龍眼と青い双眸がかち合う。

 それが虐殺開始の合図であり、陣形瓦解の発端だった。


 一度取り逃してしまった害虫を再発見した時の反応で、龍が身体を起こす。叩き潰すとか、踏み潰すとか、そんな甘いことは最早言わない。


 咆哮と共に、龍の周囲に無数の剣が浮かぶ。

 それはかつて龍に挑み破れた勇者たちの遺品と、その身に受けた魔術を模倣し魔力で編んだ剣の混合だ。耐魔力では物質の剣が、盾や鎧には魔力の剣がよく通り、一筋縄の防御を許さない。


 「総員散開、木の陰を信じるな!」


 団長が叫び、疾駆する。

 寄らば大樹の陰、と──そういう意味ではないのだが──手近な木の幹に身を寄せたフィリップを、ヨハンが地面に引き摺り倒す。直後、木々を容易く粉砕する横殴りの雨が通り過ぎて、フィリップたちは大鋸屑を浴びた。


 「こりゃ更地になるな!」

 「俺たちがそれまで耐えれたらな!」


 近くで衛士たちが怒鳴るように会話している。

 フィリップは大きめの破片から頭を庇って伏せたまま、地面を伝う幾つもの足音を聞いた。


 何十、何百、何千と撃ち出される剣の雨は、並ぶ木々を粉砕しながら延々と続く。その中を、何人もの衛士たちが掻い潜りながら突撃を敢行していた。


 鬨の声は破砕音に掻き消されるが、時折、剣戟の音が聞こえる。まさか龍の攻撃を撃ち落としている者がいるのか。


 衛士たちは線上に並んだように横一列に並んで進む。突出や遅れがあった場合に調整していることから、それは偶然ではなく故意だと分かる。


 だが、どうして?

 そんなことをすれば、龍が横薙ぎの攻撃をした瞬間に全滅してしまう。


 現に今、錆色の龍は鎌首をもたげて敵の位置を確認して、剣を自分の周囲ではなく頭上に展開した。


 敵を炙り出す掃射は終わり、仕留めに来る。

 頭上から眼下へ、脳天から股間へ貫く一撃によって、標本のように森の大地へ縫い留めるつもりだ。


 そして──そんなことは、衛士たちも重々承知だった。


 「今だッ!」

 「跳べッ!」


 衛士のほぼ全員が一斉にバックステップを踏み、大きく下がる。

 それによって串刺しは免れたものの、龍の射程を脱するには全く足りない。フィリップが思わず左手を伸ばし、ジェイコブに止められる。見ると、彼はニヤリと笑って頭を振った。まぁ見てろ、とでも言いたげに。


 直後、フィリップたちが居る方とは90度ズレた、龍の真横から飛び出してくる人影があった。一人ではなく、龍を挟み込むように二つ。


 錆色の龍は素早く顔を上げ、右方をじろりと睨み付ける。

 左方の人影が持つのは通常の──と言っても、王国が持てる技術の粋を集めた逸品なのだが──剣だが、右方の人影は濃紺色の輝きを放つ魔剣を持っている。どう考えても警戒すべきはそちらだ。フィリップだってそう思う。


 左方の人物が、少しだけ意匠の華美な鎧を着ていなければの話だが。


 彼らは木の幹を踏み台に、龍の背中ほどの高さまで跳躍した。


 「団長ッ!」

 「任せろ!!」


 右方の衛士が渾身の力を籠め、魔剣を投擲する。

 或いは龍の攻撃のように木の幹すら貫きかねない速さのそれは、龍がひょいと首を下げて回避する。そんな見え透いた攻撃に当たるか、とでも言いたげだが──今のは、パスだ。


 「おォォァァ──ッ!!」


 龍の攻撃と見紛う速度で飛来した剣を掴み取り、その勢いを丹田へ集めて力へと転換する。

 獣じみた咆哮と共に振り下ろされた剣は、最終的に龍の攻撃さえ上回る威力を孕んでいた。そして──一刀両断。


 「────!?」


 絶叫が上がる。

 四足歩行の翼ある大蜥蜴は、ただの大蜥蜴に堕とされた。その背を飾る一対の大翼、蝙蝠のそれと似た形状でありながら、全く違う威厳と畏怖を振りまいていた翼が、その根元から切断された。


 龍の声には、困惑と、苦痛と、何より怒りが込められていた。

 悲哀は無い。もう二度と空へ舞い上がれないことへの寂寥など抱いている心の隙間は無い。


 あるのは敵意。そして殺意だ。


 ぎょろり、と龍眼が回り、魔剣を構える衛士団長を見据えた。

 フィリップは龍の意識が自分から完全に逸れたことに気付く余裕も無いほど、目の前の光景に感動していた。だって、これは──フィリップが何度も読んできた、英雄譚の光景そのものだ。


 「龍を堕とした……!」


 誰かが口走った感動に、衛士たちも思わず浮足立つ。しかし、直後に団長が一喝した。


 「それがどうした! 奴はまだ健在だ! 鱗、四肢、そして魔術! 俺たちを殺すには十分だぞ!」


 たったいま偉業を成し遂げた──彼自身すら人生の目標にするような難行を達成した者の言葉は、この場の誰の言葉より重かった。


 衛士たちは一瞬で気を引き締め、陣形を形成する。

 タンクを前に、弓兵を後ろに、遊撃手は散開して。とはいえ、これはあくまで龍に攻撃が通じる場合のプランだ。魔剣を持たない彼らの役割は、囮による団長の援護、そしてフィリップの守護。


 だが龍は団長を徹底的にマークしていて、他の衛士たちには横腹さえ見せている。必然、前腕と魔術、そして噛みつきによる猛攻を衛士団長は一人で凌ぐことになるが──それも一瞬だった。


 「──?」


 弓兵の一人がヤケクソで放った矢が、龍の脇腹に突き刺さった。

 鏃は鱗を貫いて肉に達し、矢柄を伝ってほんの数滴の血が滴る。


 錆色の龍は衛士団長への攻撃を止め、首を曲げて不思議そうに傷を見遣る。その隙に衛士団長が慌てて距離を取る辺り、たった三撃、一瞬の防御でも本当にギリギリだったのだろう。


 龍はじっと傷を見て、それから衛士たちの方を見た。

 痛みは無いか、ごく僅からしい。出血量も、人間で言えば指のささくれくらいのものだろう。致命的な失血には絶望的に遠い。しかしそれでも、自分が人間に──猿モドキの劣等種に傷付けられたことは、本当に心の底から理解不能のようだ。


 「効く、のか……?」


 矢を放った弓兵がぽつりと呟く。

 衛士団長の一撃すら跳ね返し、魔剣を使って漸く通るような鱗に、自分の攻撃が通じた。それは彼に喜びではなく、困惑を一番に齎す光景だった。


 「……そんざいかくがおちた」

 「うわっ!? あ、き、君は確かフィリップ君の……?」


 不意に背後で聞こえた幼い舌足らずな声に、衛士たちが飛び上がる。

 振り返ると、若葉色の髪をした小さなドライアド──フィリップは一度も「彼女はドライアドです」なんて言っていないのだが──シルヴァが立っていた。彼女はこくりと頷き、先を続ける。


 「ん。ふぃりっぷからでんごん。いまのりゅうは“ひとにきずつけられるもの”におちた。ふつうのぶきでもつうじる」


 フィリップの言葉にどれほどの信頼を置いているのか、彼らは表情を困惑から歓喜へと移す。しかし、フィリップからの伝言はそれだけではなかった。


 「でもよわくなったわけじゃない。あるくさきにいただけでしぬ。きをつけて。……だって」

 「あぁ、それは勿論! ありがとうって伝えてくれ!」

 「よしお前ら、作戦開始だ! 今度こそな!」


 衛士たちは俄かに活気づいて攻撃を始めた。

 盾を持ったタンクたちは槍や剣で龍の気を引き、弓兵は目を狙って射かける。当初の作戦通りに、龍を殺すために動き出す。


 フィリップは相変わらずジェイコブとヨハンに見張られて身動きが取れないが、もしかしたらと期待を抱き始めていた。


 衛士たちが剣を振り、槍を突き、矢を放つ。

 致命傷には程遠い針の一刺しばかりだが、その雑音で衛士団長への攻撃が狙いを過ち、威力が落ちる。


 龍は苛立たしげに鎌首をもたげ──時が止まる。

 ほんの僅か、実時間にして一秒。錆色の龍が天を仰いで静止した。衛士たちもまた、その明らかな隙を前に、一歩も動けないでいた。


 “死”。


 その強烈な直感を前に、あらゆる生物は本能を曝け出す。

 大抵の野生動物は本能のままに生きているから、逃げ出したり、死んだふりをしたり、必死に襲い掛かって来たりと様々な、けれど見覚えのあることをする。


 翻って、理性に拠って生きている人間が本能に従うとどうなるのか。

 逃げる? 戦う? いや、違う。


 それは超高所からの落下などの、避け得られぬ死に直面した人体による生存本能の終了宣告。


 錯死。

 まだ死んでいないが、絶対に死ぬ。そんな状況に際して、死に至る前に心臓が止まる現象だ。


 錆色の龍から迸る圧倒的な威圧感と殺気は、衛士たちの心拍を急激に低下させ、呼吸さえ止めた。先ほどまで喊声と剣戟の音に満ちていた森は、無限にも思われる静寂に包まれる。


 そして──。


 「ブレスが来る!! 逃げて!!」


 フィリップの悲鳴のような叫びが、間一髪、衛士たちの呼吸を再開させた。

 ひゅっと喉が鳴るほど息を吸い、それで漸く、自分が呼吸を忘れていたことに気付く。心停止はほんの一瞬ながら、咄嗟には動けないほどのダメージを肉体に与えていた。


 見えてはいたが知覚は出来なかった龍は、半開きの口から煌々と輝く炎を漏らしている。既に発射寸前と言った様子だ。


 「っ──!」


 フィリップは咄嗟に左手を伸ばすが、間に合わない。

 

 龍が頭を下げ──ナイフのような牙が並ぶ大口から、紅蓮の炎が噴き出した。

 最大射程50メートルを超える、摂氏1500度の気体炎の掃射。錬金金属製の鎧を溶かすほどの超高温には至らないが、生き物の身体から出たにしては破格の高温だ。何より、人間の肉を焼き血を沸騰させるには十分すぎる。


 紅蓮の炎と真っ黒な煙が森の中を横切り、地面を、木々を、人を舐めて呑み込んでいく。 


 「伏せろ!」


 ジェイコブとヨハンがフィリップを引き摺り倒し、その上に覆い被さる。どちらかの手が顔にずいっと伸びてきて、鼻と口を握り潰すような勢いで覆った。


 その上を炎が舐めていく。

 生木が炙られてちりちりと音を立てるが、フィリップには炎が大気を喰らう轟々という音と、自分を庇った衛士たちの苦悶の声しか聞こえなかった。


 




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