第287話

 地獄だった。

 森の土の湿気は完全に飛び、そこいらでちらちらと地面が燃えている。生木は表面を炙られて変色していたり、色づいていた葉の全てを吹き飛ばされたりしていて、数秒前までの肥沃さは見る影もない。


 炎を孕む大地と木々、赤く焼けた空気、罪人の肉が焦げる匂い。

 聖典に描かれた地獄のような有様が、たった一息で作り上げられた。


 意気軒高だった衛士たちは軒並み全員、苦痛に呻いている。無事なのは最後方でフレデリカを守っていた二人と、フィリップより少し後ろにいた衛生兵が二人。たったそれだけだ。


 フィリップを庇った二人も、鎧の背中が赤く変色するほどの熱を受け、苦痛に喘いでいた。

 

 「《ウォーター・ランス》! 《ウォーター・ランス》! 《ウォーター・ランス》!」


 二人交互に、背中の鎧を何とか冷まそうと「魔法の水差し」で水をかけ続ける。これほど「焼け石に水」という言葉を強く実感したことは無いが、フィリップは手を止めなかった。


 素晴らしきは王国の錬金術と付与魔術で、フィリップを庇って背中で炎を受けた二人の鎧は、その胸側にまで熱が伝わっていなかった。背中の火傷も広範囲だが、それほど深くはない。盾を使って炎を受け止めたタンク役の衛士たちも、火傷を負っているのは腕だけだ。


 しかし、弓兵や盾を持たない回避型のタンクたちは、炎をまともに喰らって重傷だった。流石に実戦経験豊富なだけあって咄嗟に息を止め、気道火傷は防いだようだが、それが唯一の救いみたいな状況だ。


 損耗率で言うと、約四割。


 傷はある。痛みもある。負傷者も数多い。だがまだギリギリ戦える。

 フィリップにとっては、そのことを厭わしいと思ってしまったことこそが地獄だった。


 生きているのは嬉しい。戦う意思が折れていないことは凄い。けれど──邪魔だ。

 死なない程度の重傷を負って諦めてくれたのなら、或いは恐怖して逃げ出してくれたのなら、フィリップは何の躊躇も無く召喚術を使えたのに。


 そんなことを思ってしまった自分を責めるように、急激な魔力喪失で気分が悪くなるのも気にせず、ジェイコブとヨハンの鎧を冷やし続ける。


 「衛生兵! 早く! 誰か──」


 人を呼ぼうとして息を吸うと、喉が焼けそうなほど空気が熱い。魔力の大量喪失とは無関係に汗が噴き出す。


 しかし、それを忘れるほどの悪寒が背筋を貫く。

 振り返ると、ちろちろと口角から残炎を溢す龍の、黄金の瞳と目があった。


 直後、人ならざる獣の、獰猛な意思が伝わる。言葉も無く、仕草も無く、ただの一瞥によって、フィリップはそれを痛感した。


 「……僕を殺すか」


 狙われている。

 そんなに臭いのかとちょっと傷付いたフィリップは、立ち上がってウルミを抜き放った。


 「馬鹿、止すんだ……! ぐっ……」


 立ち上がって制止しようとしたヨハンが背中の火傷の痛みで蹲る。フィリップは後ろから衛生兵が駆けてくるのを見て、ジェイコブとヨハンに背を向けた。


 治療はフィリップの得意とするところではない。多少の火傷や切り傷なら心得もあるが、今は医療品の持ち合わせがない以上、出来ることは限られる。それこそ水をかけて冷やすぐらいだ。そしてそれはもう終わった。


 「まずは龍を皆から引き離して──いや、魔剣か? 団長は何処だ?」 


 龍の尻尾側に回り込むように移動しながら、前衛を張っていた衛士たちの間に目を凝らす。

 気丈に盾と槍を構えている者もいるが、龍はもう一瞥も呉れない。もう一度攻撃すれば話は別だろうが、あのブレス攻撃を何度も繰り返されては幾ら最高級の盾や鎧でも限界が来る。軽傷者の役目は、重傷者を庇いながら衛生兵のところまで下がることだ。


 そうなると、やはりあの魔剣が欲しいところだ。

 古龍は数で押すと鬱陶しがって、ブレスで数を減らしに来る。あれはフィリップの拍奪でも避けられないし、そもそも避けさせないための攻撃だ。


 しかし、龍は自分の翼を捥いだ衛士団長を攻撃するのにはブレスを使わなかった。

 少数相手で使うのは勿体ないと思っているのか、或いは一秒そこらのチャージ時間を疎んじたのかは分からないが、どちらにせよフィリップが魔剣を持てば状況は同じになるはずだ。


 勿論、フィリップと衛士団長では戦闘能力に大きな差があるが、龍の視点からは誤差だろう。そのくらいの想像はつく──というか、外神の視座から見るとそうなのだが。


 「──!!」


 くせぇんだよこっちくんなよ! と言いたげな龍の咆哮。

 フィリップは中指を立てて挑発しようとして、すぐに止めた。そんな余裕は無いし、今優先すべきは魔剣だ。


 「団長は!?」

 「後ろだ! あのブレスをまともに喰らっちまって──って、フィリップ君!? 何やってるんだ、下がって!」


 答えてくれた衛士に礼も言わず舌打ちを漏らすフィリップ。その顔は最高戦力の負傷と主要武器の喪失という二つの難事に苦悩していたが、まだ諦めてはいなかった。


 「僕が龍を引き付けます。その間に治療と陣形の再構築を。あと、できればブレスを無効化する方法も考えて下さい」


 言うが早いか、フィリップは相対位置欺瞞を全開にして突っ込んでいく。

 迎え撃つように前足のストンピングが襲い掛かるが、フィリップは狙いの甘いそれを急加速で躱した。


 「さて、どうしようか……」


 現状、詰みはかなり近いところにある。

 龍の攻撃が当たれば終わりなのは言うまでも無いが、炎のブレスと、剣のような棘が並ぶ長い尾による薙ぎ払い。二つの回避不能攻撃が来ると、フィリップには為す術がない。


 暴、と森を吹き抜けていく風が乾いた砂塵を巻き上げて、危うく目に入りかけた。

 ただの環境すら邪魔をするこの状況。これはもう、どうしようもないのではないだろうか。


 そんなことを考えるフィリップの肩を、一人の衛士が掴んで止める。


 「フィリップ君! 下がるんだ! 早く!」

 

 背筋に強烈な悪寒を感じ、衛士を押し倒すように自分も飛び退く。直後、寸前までフィリップが立っていた場所に、煉瓦色の鱗に包まれた巨大な手が振り下ろされた。


 「──!!」

 「──!!」


 高低差のある二つの咆哮が重なって聞こえる。

 衛士とフィリップは伏せた姿勢から慌てて起き上がり──絶望を見た。


 錆色の龍と、二回りほど小さい煉瓦色の龍。

 脳震盪や蜃気楼で物が二重に見える訳ではないことは、大きさや体色の差、そして赤い方の龍には両の翼が健在であることから理解できた。できてしまった。


 「もう一体……!?」

 「嘘だろ、だって、魔物研究局も国土管理局も、ここには古龍が一体だけだって──」

 「言ってる場合か! 下がれ!」


 呆然と呟いたフィリップと声に絶望の色を乗せた衛士の二人を、また別な衛士が引き摺るように後退させる。そんな逃げるための動きすら、二匹の龍のどちらか片方に見咎められたら全員死ぬ。そう考えると、中々に勇気のいる行動だ。


 フィリップは衛士たちを二人纏めて押しやり──盾持ちだった彼らの火傷している方の手をわざと押して抵抗させなかった──一人、番いの龍と正対した。


 そして徐に左手を眼前に掲げる。

 魔術行使に際して照準補助を要するのは未熟故だが、龍を相手に魔術が無意味と悟っているフィリップは、そもそも龍を狙ってなどいなかった。


 「《エンフォースシャドウジェイル》──起動!」


 フィリップが詠唱したのは、最上級に区分される召喚魔術。どれだけ訓練しても中級魔術が限界だと人類最強に太鼓判を押されているフィリップでは、何百年訓練しても届かない領域。


 それは当然、フィリップによって発動されたものではない。

 ミナがルキアとステラの手を借りて作った、発動委任型設置魔術の光学刻印。フィリップの影に仕込まれた、フィリップが魔力を流し込むことで発動する魔術。それにはルキアが魔術教導で使った他人を介して魔術を使う邪法、王国に於いては禁術とされる手法が使われているのだが、法の外にいるステラが絡んでいるので善し。


 さておき、要はフィリップがトリガーを引く、影の中に仕込まれたミナの魔術だ。

 その効果は拘束。ミナが何処に居ても、何をしていても、その身柄を瞬時にフィリップの影の範囲内へと縛り付ける。拘束時間はせいぜい数秒だが、その強制力はミナの意思や魔術では抵抗できないほど強い。


 ソファに座って本を読んでいたらしいミナは、不意に椅子が無くなっても即座に足を動かして尻もちを防ぎ、不機嫌そうに立ち上がる。手も突かないのは流石だった。


 「……」


 ミナは無言のまま、片手で持っていた本をぱたりと閉じる。もう片方の手には赤い液体が半分ほど注がれた瓶──フィリップの用意したお弁当を持っていたが、彼女はそれを苛立ちも露わに投げ捨てた。

 ぱん、と物悲しい音を立てて砕ける瓶から、フィリップが増血剤を投与してまで採った血が飛び散る。じわじわと地面に吸い込まれていく血は、これからフィリップもそうなるという暗示のようだ。


 「あ、あの、ミナ? どうしようも──んっ」


 強制拘束魔術が不快だったのか、眉根を寄せて無言で近付いてくるミナに慌てる。

 どうしようもなくなったら呼べと言ったのは彼女なのだが、やっぱりダメだったのだろうか、と。

 

 しかしミナはフィリップへ伸ばした手を首筋へ絡め、流れるような動きで首筋へ顔を埋めた。


 こく、こく、と二度の嚥下を終えたミナの瞳は、怒りではなく柔らかな慈愛の光を湛えている。

 吸血に伴う多幸感と酩酊感で困惑も麻痺したフィリップは、とろりと蕩けた目で赤い双眸を見つめ返す。ミナは鮮やかに濡れた唇を艶めかしく舐め、異常に発達した犬歯を覗かせて微笑した。


 「いいわ、やってあげる」


 フィリップの頬を撫でたミナは、漆黒のコルセットドレスを翻して振り返り、黒銀の魔剣を霧の中から取り出して右手に握る。フィリップを背中に庇う位置だが、フィリップの心は特に揺れ動かなかった。

 

 ミナは二匹の龍を見比べると、不思議そうに首を傾げる。


 「赤い方は成龍? 確か、必要なのは古龍の心臓じゃなかったかしら?」

 「うん。じゃあ、赤い方をお願い。そっちはどんな殺し方をしても良いから」


 ウルミを抜き、錆色の龍の方へ回り込んでいくフィリップ。ミナはその背中に呆れたような溜息を溢した。


 「一応言っておくけれど、きみでは古龍に勝てないわよ」

 「勿論分かってるよ。衛士団長が龍殺しの魔剣を持ってるんだ。治療が終わるまで時間稼ぎするだけ」


 ちょっとそこで遊ぶだけ、とでも言うような気軽さのフィリップに、ミナは呆れたように頭を振る。


 「あまり危ない遊びは……まぁ、この話は龍を片してからにしましょうか。赤い方だけ引き付けるわ。《デコイ》」

 「ありがとう、ミナ。衛士さんたちのことも守ってあげて!」 


 注文が多いわね、と嘆息するミナだが、目元は優し気な微笑の形だった。


 赤い龍の気を引きつつフィリップとは反対側に移動するミナの背中に、負傷した仲間を背負った衛士が問いかける。

 

 「……助けてくれるのか?」

 「結果的には、そうね。あの子のお願いだし……個人的にも興味を持ったところだったのよ。龍殺し、楽しそうだわ」


 左手に持ちっぱなしだった本を示す。

 遠目に見えたタイトルと装丁は、王都外でも有名な児童書で、龍殺しの英雄譚だった。


 ──本で読んだからやってみる。そんな理由で龍殺しに挑むなんて、彼らの価値観ではまずありえない。


 「……化け物か」


 衛士の呟きは聞こえていたが、ミナは何も思わず、何も言わなかった。







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