第284話
アトラク=ナクアの娘は強いのか弱いのか、フィリップは10分以上のマタドールを経てもなお判断が付かなかった。
ウルミは効かない。拍奪の歩法にも惑わされない。
しかしフィリップはもうスタミナが切れ、酸素を求めて顎が上がり始めているのに、10分以上も耐久している。中級戦闘魔術師を再現したステラには、二分と持たないというのに。
危ない場面は幾つもあった。だが、フィリップはまだまだ煽って走って避けている。まだ生きている。
だが、それはアトラク=ナクアの娘に対して、フィリップが強いとか有利だとかいうわけではない。
フィリップと異形の蜘蛛の間には依然として体重や力、速度や動体視力などの性能差があるし、何より相手は存在の格が一段上だ。人間風情とは「戦い」をしない、するまでもない化け物。
10分耐久出来ただけで奇跡だ。
「はぁ……はぁ……いま何分経ったんだ……?」
肩で息をして、顎を濡らす滝のような汗を拭いながら、フィリップはぼやく。
攻撃は間断なく繰り返されるわけではなく、むしろ蜘蛛が様子見をしたりフィリップが挑発したりするインターバルがあるだけに、運動負荷が高くなっている。
ウルミも仕舞って回避に専念しているのに、それでもスタミナが限界だ。
エレナはまだなのか。もしかして蜘蛛がもう一匹いて、巣の中で食われているのではないか。はたまた巣に絡めとられて動けなくなっているのでは。そんな心配が頭を過っていたのも、もう遠い過去のようだ。今や他人の心配をしている余裕も無いほどに疲労が蓄積されている。
「もう無理だ、限界……ハスターを呼ぼう。いやホントに」
喘ぐように酸素を求めながら、フィリップは諦観を口にする。
しかし一向に詠唱を始めようとしないのは、邪神が来ないかもしれないという懸念からではなく、エレナはまだ生きているかもしれないという希望があるからだ。
彼女は善人だ。
フィリップが何を措いても守るべき相手ではないが、かといって軽々に見捨てていい相手でもない。今のフィリップが衛士たちだとしたら、彼女は王都に来たばかりのフィリップだ。
何の縁も無い、ただのちょっとした顔見知り。そんな相手のために、衛士たちは命を懸けた。
ならフィリップだって、もうちょっとだけ頑張るべきだ。今日会ったばかりのエレナの為に。
蜘蛛がぎちぎちと牙を鳴らし、八つの単眼でフィリップを観察する。
こつ、と硬質な音。剣のような肢の一つが、一歩前に。
フィリップはその動きを、酸欠で朦朧とし始めた意識で緩慢に認識した。
直後。
「──ッ!?」
いい加減に飽きた。
とでも言いたげに、蜘蛛の動きが変わる。
突進が速い。今までの足で踏みつけたり突いたりすることを前提にした動きではなく、顔面から衝突しに来るような──毒牙による攻撃のための急接近だ。
蜘蛛の狩りには種類があるが、アトラク=ナクアの娘はいま、むしろ人間や狼のような手法を使っていた。
即ち、スタミナに物を言わせた長期戦。獲物が弱るまで追いかけ回し、楽に仕留められると判断したら毒牙で止めを刺す。
毒牙は当然ながら、
それを外敵に近付けるのは大きな危険を伴うが故に、獲物が反撃の気力を失くすまでじわじわと追い詰め、じっくりと殺す。生存本能なのか、戦闘本能なのか、とにかくそういう習性があった。
フィリップはその突進を躱せない。
蜘蛛はそう判断したから全力で突撃したし、その観察眼に狂いはなかった。
人間の肉は柔らかく、骨でさえ体長5メートルにもなる大蜘蛛にしてみれば小枝に等しい。
踏み貫き、潰し砕き、牙を突き立てて毒を流し込む。剣のような牙が刺さるだけで一回死ねる。毒による筋肉と臓器の麻痺で二回死ぬ。流し込まれる毒の量に耐えかねた身体が破裂して三回死ねる。
死を押し付けることはできずとも、弱った相手なら過剰なほどに殺し尽くせる。アトラク=ナクアの娘とはそういう手合い、そういう種類の怪物だった。
「やば──」
踏鞴を踏んで下がるフィリップ。バックステップとはとても呼べない、足のもつれた無様な後退だ。
毒で死ぬとか絶対苦しいじゃん最悪だ後で此奴だけは絶対に殺そう。頭の中で一息に決めるが、その予定は覆る。
「──フィリップ!!」
絶叫だった。
焦りを多分に含んだ声に一瞬遅れて、りぃん、と澄んだ音を聞く。
いつからそこに居たのか、フィリップが痛みを予期して固く閉じていた目を開けた時には、エレナが目の前で肩で息をしていた。
「エレナ、さん……」
フィリップが呟いた一瞬の後に、エレナの奥で行儀よく佇んでいたアトラク=ナクアの娘が縦に二分割される。一瞬だけ痙攣した蜘蛛は、四つずつに分かれた足の全てを折り、ずん、と重い音と共に沈んだ。
内容液を噴き出して頽れる巨体を確認したのはフィリップだけで、エレナは虚ろな目でフィリップをじっと見つめている。その手には濃紺色の宝石でできたような長剣が握られており、フィリップは深々と安堵の息を吐いた。
「良かった。ギリギリセーフって感じです」
「……あぁ……うん。間に合って、良かっ──」
どちゃっ、と嫌な音を立てて、エレナの身体が地面へ倒れ伏せる。
フィリップが慌てて抱き起こすと、エレナは両方の鼻の穴からだくだくと血を流して昏倒していた。息はあるようだが、原因不明の出血がとても怖い。
「あわわわわ……!」
鼻が折れているとか、ぶつけたという感じではない。それは主にエレナにとっての朗報だった。思わぬ負傷で気が動転したフィリップは、とにかく止血しなきゃ! と鼻をつまんだからだ。これで鼻骨が折れていれば、エレナはとんでもない痛みで飛び起きる羽目になっただろう。
フィリップはしばらく鼻を押さえて血が止まったことを確認すると、エレナを担ぎ上げた。いや、担ごうとした。
「っと、これは……」
魔剣の一撃による傷に気付く。
地下湖を泳いだことで一度は血が洗い流されていたが、また再出血して服に滲み始めていた。
傷自体はフィリップでも処置できそうな浅さだが、如何せん広範囲だし、何より医療品の手持ちがない。
「い、急がなきゃ……!」
フィリップは焦るが、長身のエレナを背負うには身長が足りないし、かといってファイヤーマンズキャリーも体格的に現実的ではない。
フィリップが上半身を背負い、後ろに伸びた足はシルヴァが持ち上げるという変則飛行機スタイルまで試して、結局は担架持ちに落ち着いた。フィリップが脇下を抱え、シルヴァが足を肩で持つといい感じに地面と平行になる。
「よし……! これで……これで洞窟を登るのかぁ……」
勾配が45度を超えるような場所は流石に無かったものの、それでも鍾乳洞だ。地面はなんだかぬるぬるツルツルしているし、天井から鍾乳石が垂れ下がるようなところも、水に浸かった階段のようなところもある。骨が折れそうだが──誰かを呼んで戻ってくるのは時間がかかり過ぎる。
エレナがどうして倒れたのか、どうして鼻血を出したのかが分からない以上、医者に見せるまでに時間を掛けたくない。
「行くよ、シルヴァ」
「ん、まかせて」
声を合わせてエレナを持ち上げ、魔剣をエレナの上に乗せる。
つるっと滑って剣が落ちても、シルヴァがキャッチするだろう。
次元断だろうが何だろうが、剣で切られた程度で森は傷付かない。
そしてフィリップには、他人の心配をしている余裕は無かった。
◇
フィリップたちが地上に出ると、洞窟の外には松明を持った衛士たちが10人ばかり、鎧も剣もフル装備で集まっていた。その中には衛士団長の姿もあった。
篝火も焚かれていて、夜も更けた頃合いとは思えないほどに明るかったが、フィリップは人の気配にも気付かないほど疲弊していた。
森の柔らかい土の上にどっかりと寝転がると、抱きかかえていたエレナの身体がずっしりと乗っかる。しかしそれを退ける気力も無いほどで、酸素を求めて喘いでいた。シルヴァがぺしぺしと地面を叩くと、土が盛り上がって柔らかい枕になった。
何処かへ走り去っていくシルヴァと大の字に転がっているフィリップを交互に見る衛士たちの目は、状況を呑み込めずに困惑の色に染まっている。
「……フィリップ君? 何してるんだ?」
「はぁ……ふぅ……はぁ……え? ……あっ」
頭の横に膝を突いてフィリップの顔を覗き込んだのは、ヘルムを外したジェイコブだ。
怪訝そうな目がフィリップと、その上に乗って眠っているエレナ、更にその上に乗った濃紺の宝石剣を順番に見て、最終的には天を仰いだ。
「……衛生兵! 来てくれ!」
フィリップは所々に擦り傷や打撲があったし、エレナは浅いとはいえ肩から脇腹にかけて袈裟斬りにされている上に昏倒している。
何はともあれ安否の確認が最優先だと治療をしていると、シルヴァがエルフの薬師と唯一人語を解せるリックを連れて戻って来た。
フィリップはリックの無事を喜ぶ余裕もなく、水をガブガブと飲んでいる。既に飲み干してしまった自分の水筒ではなく、衛士に貰ったものだ。
リックは昏倒しているエレナを見ると、顔を蒼白にして駆け寄った。
「こ、これは一体……!? 衛士さん、エレナ様は我々が手当てします。霊樹の館へ運んでください」
「あ、あぁ、分かった。案内を頼めるか?」
「勿論です。こちらへ」
エレナが担架に乗せられ、運ばれていく。
魔剣も一緒に持って行かれたが、フィリップはアドレナリンが切れて睡魔に襲われており、気にする余裕は無かった。
うつらうつら舟を漕いでいると、ひょいと衛士に担ぎ上げられた。顔はヘルムを被っていて見えないが、鎧が違うから衛士団長ではない。
「何やってるんだ?」
「ベッドに入れるんだよ。ここで夜を明かさせるわけにはいかないだろ?」
もう一人の衛士が「そりゃそうか」と答えたのを聞いて、フィリップの意識は完全に暗転した。
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