第283話

 エレナは剣対素手という不利な戦いの中にあって、一番の関心事は自分の内にあった。

 

 頭が痛い。

 きりきりと刺すようでもあり、がんがんと響くようでもあり、ぼうっと焼け付いたようでもある。とにかく、頭が痛い。


 目が痛い。

 眼球そのものも、その奥から伸びる視神経も、その奥にある脳も、何もかもが鈍い痛みを発している。視界が霞むようなことがないのが、唯一の救いだ。


 耳鳴りがする。

 耳というより意識そのものが、重く低い音を絶え間なく垂れ流している。バランス感覚に支障が出ていれば、戦闘どころではなかっただろう。


 『あぁ──頭が痛い』


 ぼやきながら拳を振るう。

 自分の動きも、幽霊の動きも、水の中みたいに鈍重に見える。すっとろくて、まるで見てはいられない。


 幽霊には殴るべき実体がなかったが、エレナの拳は魔力によって強化され、単純な物理攻撃のみならず魔術攻撃としての属性も持っている。パンチの一発ごとに、半透明の人影に有意なダメージを与えていた。


 しかし、エレナが一方的に有利というわけではない。

 元より不利な戦いだ。相手は間合いに優れた得物を持ち、森の外を知らないエレナより何十倍も経験に富んだ戦士。エレナが格闘に天賦の才を持ち、その得意距離を離されないよう食らいついているから、辛うじて拮抗している。


 ──いや、脳が過剰回転し、思考や認識の速度と精度が跳ね上がった今でなければ、それさえも許されず斬られている。


 『頭が──痛い』


 剣を振るう手を打ち、腕を打ち、絶対に相手の思惑通りに剣を振らせない。

 そう立ち回っていれば死ぬことは無いが、敵を殺すことも不可能だ。


 そもそも、エレナには殺し合いの経験がない。

 正確には、人間やエルフを殺した経験はない、と言うべきか。知性無き獣や魔物との戦闘経験は、豊富だと無い胸を張るほどではないが、かと言って自衛できないほどでもない。


 だからエレナは、自分の弱点をよく知っていた。

 

 ──パンチでは殺せない。


 勿論、エレナのパンチは強烈だ。生木を抉り飛ばし、身体能力に優れたエルフの意識を一撃で刈り取る威力がある。

 相手が生きた人間やエルフであれば、鎧の上から胸を叩いて心臓を止め、第一から第三頸椎の辺りを狙えば運動機能を永続的に奪うことも可能だ。


 だが相手は臓器や神経系を持ち合わせない幽霊。胸を吹っ飛ばそうが頭を吹っ飛ばそうが、霞のように元通りになってしまう。


 パンチで幽霊は倒せない。

 魔力を纏わせてダメージを与えられても、相手の回復力はきっと無限だ。対してこちらは、スタミナには余裕があるとはいえ時間が無い。


 倒れ込むように全体重を乗せ、右腕を鎌か鞭のようにしならせて打ち込む。拳は狙いを過つことなく人影の首筋を捉えたが、幽霊はけろりとして剣を上段へ振りかぶる。

 

 『目が──痛い』


 その動きも、振り下ろされる一撃も、何もかもがスットロくて見ていられない。

 剣を握る手にスナップを効かせた裏拳を打ち込み、剣の軌道を変えて凌ぐ。ついでに顎と人中にも裏拳を入れてやったのに、まるで効いている気がしない。


 脳も無ければ骨格も無い、やりにくい相手だ。


 対策は──一つ、思い付いているものがある。

 

 あの剣だ。

 触れたものを圧力によって切断するのではなく、不明な現象によって消失させ、結果的に切断する不可思議な魔剣。あの無刃の剣なら、実体も急所も持たない幽霊を削り殺すことも出来るかもしれない。


 ただ当然ながら、その剣は幽霊の手中にある。

 脳の加速込みで技量は拮抗しているが、経験と武装の差でエレナが不利な状況だ。距離を詰め続けなくてはならない以上、蹴りすら出せない有様。


 その状態で剣を奪うというのは、少し現実的ではない。

 相手が生きていれば、目潰しや喉突きで動きを止めれば或いはといったところだが。


 そんなことを考えて、エレナはふっと口元を緩めた。

 ──あの衛士団長という人間、馬鹿だが、闘いの本質をよく理解していたらしい。


 生き物なら急所がある。急所があるならそこを突けば勝てる。

 以前には脳ミソの代わりに筋肉が詰まっているのかと苦笑した理論だが、こうして急所を持たない相手と戦って、その言葉の正しさに気が付いた。


 殺し合いは、互いに殺せてこそだ。片方が不死身なら、残る片方がどれだけ食らいついても、どれだけ有利に事を運んでいても意味がない。勝ち目がない。


 『耳の痛い話──だッ!』


 ぼやきつつも勝ち筋に手を伸ばすため、足払いをかける。姿勢が崩れれば或いはと思っての一手だったが、完全に無駄だった。

 相手は幽霊だ。二腕二足のヒトガタではあるが、両の足で地面を踏み、体重を支えているわけではない。踝を蹴り砕くような強引な足払いによって、二本の足は下半分が霞のように消えた。


 その状態で、剣を逆手に持った突き下ろしが来る。

 体重も体幹も持ち合わせない幽霊だが、武器が武器だ。攻撃それ自体に威力が無くても、触れれば斬れる。


 『ッ──! あっぶな!』

 

 足元狙いは失策らしい。

 エレナは身軽な身体に見合わない重い蹴りを突き上げ、幽霊の鳩尾辺りに大穴を開ける。その隙に立ち上がって適正な距離を空け、また構えを取った。


 経過時間は、体感で何十分にもなっている。だが実際には、フィリップと別れてから五、六分といったところだろう。それでも約束の時間をオーバーすることは確定だ。想定上、復路には7分を要する。あとはどれだけ早く、眼前の幽霊から魔剣を奪うか。


 お互いに構えて隙を探っていると、幽霊がだらりと剣を下げた。

 見るからに誘いという動きをされて、エレナは咄嗟に動けなかった。


 半透明の人影は呆れたように肩を竦め、嘆息したように見えた。相変わらず表情は見えないが、声には呆れ笑いのような気配があった。


 『……頑固だな』

 『こっちの台詞だよ。というか勇者さまのくせに、ゴーストで不死身とかズルくない!?』


 非難するようなセリフだが、エレナに嫌悪感は無い。

 戦いとはそういうもの。ズルかろうが何だろうが、強いものが正義だ。エレナだって格闘戦では目も喉も突くし、相手が男なら金的も狙う。


 幽霊はゆらゆらと輪郭を揺らがせた。笑っているのだろう。

 

 『ズルはお互い様だろう、王女。思考速度と身体操作にズレが出ているぞ、ドーピングでもしたか?』

 『そりゃ薬の調合はエルフの得意分野だけど、ここにはナイショで来てるからね。薬を貰う口実も無かったから、今は素面だよ』

 『そうは見えないがな。……そら、鼻から血が出ているぞ』


 エレナは前手を下げないように後ろ手で鼻の下を拭い、悠然と立つ人影から視線を切らないように手を運ぶ。

 言葉通り、指が赤く汚れていた。


 鼻を打たれた記憶はない。外傷ではなく、先刻からの頭痛や眼痛に端を発する内的理由によるものだろう。病気か、毒か、もっと別の何かか。


 『──どうでもいい。あなたをぶっ飛ばして、魔剣を貰う。あの子たちを助けて、皆を助ける』

 『その意気や善し。心根も善良だ、我が剣を託すに値する。戦意と心情、その二つは合格としよう』


 幽霊は傲慢に、尊大に、しかし教師のような慈愛を滲ませて言う。

 エレナは口元を苦々しく歪め、答えに想像のつく質問をした。


 『……残りは?』


 幽霊は剣を構え直して、答える。果たして、エレナの想像通りの解を。


 『強さだ──!』


 幽霊の動きが変わる。

 これまでの、優れた技量は見えつつも本気ではないような虚ろさが消え、明らかな戦意を纏う。霞の身体から呪いを思わせる瘴気が吹き上がり、宝石のような魔剣へと吸われているようだ。


 『我が愛剣の本気本領、手向けとなるか、手本とするかは貴公次第だ。では行くぞ──』


 ふっと、エルフの勇士が放っていた威圧感が消える。

 それは戦意や敵意が無くなったことによる精神的なものではなく、もっと物理的な理由だった。


 ──剣が、無い。

 その間合いを食い潰すことを念頭に置いて立ち回っていたエレナは、その刀身の長さを感覚的に把握している。隠す、投げるなどの動作をすればすぐに分かるし、剣や手の動きには特に注意を払っていた。


 なのに、瞬きほどの隙も与えなかったはずなのに、気が付くと剣が消えていた。


 『無刃にて無尽を断つ──魔剣ヴォイドキャリア』

 

 幽霊が空の手を掲げ、振り下ろす。

 両手は剣を握るような形で揃えられていたが、手の内には明らかに何も無い。腕の軌道は袈裟斬りのそれだが、剣が無ければ大仰に胴体を開けただけの隙でしかない。


 エレナは一瞬だけ逡巡すると、岩肌を踏み締めて飛び退いた。

 

 『ほう、避けるか。何故避けた?』

 『剣が消えたんじゃなくて、見えなくなったんじゃないかと思ったんだけど……』


 どぱっ、と、エレナの左鎖骨から右の脇腹に掛けて一条の斬線が入り、鮮血が噴き出す。

 苦し気に顔を歪めて片膝を突くが、翠玉色の双眸に宿る戦意に衰えはない。


 未だ色濃い戦意を滲ませる表情を見て、幽霊はゆらゆらと輪郭を揺らがせた。笑っているのか、そうではないのか、微妙に判断がつかない。


 『違うと?』

 『違うね。間合いは完全に把握してた。剣が見えなくなると同時に伸びたとか、そんな小賢しいトリックでもないんでしょ? 私はいま、何にも斬られなかった……けれど、斬られた。“なにもない”に斬られたんだ』


 確信を持って言い切ったエレナに、幽霊は今度こそ声に出して笑う。相変わらず表情は見えないが、どこか嬉しそうに。


 『素晴らしい、正解だ。魔剣ヴォイドキャリアは無刃の剣。刃無くして尽くを断つ、無尽の刃』

 『刀身の消失、間合いの伸長……いや、ただ単純に“斬った”という現象だけを押し付けるってわけ。確かに強いけど、避けられないわけじゃない』


 エレナは傷を押さえ、痛みに顔を顰めながらも、しっかりと立ち上がる。

 傷は広く肩口から脇腹までを裂いていて派手に出血しているが、深さはそれほどでもない。内臓や骨どころか、筋組織も殆ど無事だった。 


 『左様。俺は貴公の鎖骨を裂き、心臓と肺を破る気で斬った。この剣の弱点はそこにある』

 『間合いは無限じゃないし、狙いも付けなくちゃいけない。そして、剣閃の軌道は自分で振らないといけない。……あなたの技量があってこそ活きる武器だ』


 エレナの言葉は単に褒めたわけではなく、むしろそれだけの技量を持った──間合いが変わるどころか重さも無くなる変則的な武器を扱い熟す勇者が、敵として自分の前に立っていることへの愚痴だ。


 応じるように、或いは謙遜のように、愚痴が返される。


 『その上、魔力の消耗も著しい。身体の全てが魔力で編まれた今の俺は、あと一撃で消滅する』

 『へぇ? なら、それも避けたらボクの勝ちってことでいいのかな?』


 顔には靄が掛かっているが、幽霊が挑戦的に唇を吊り上げたような気がした。


 『上等。では征くぞ──我が秘奥義を以て、貴公の戦技を見極めよう。これこそは無尽無想の対極、想像力の究極。可能性にて不可能を塗り潰す、道理の極点にして特異点──想極の太刀』


 顔の横で剣を立てる八相に構えられた腕を見て、エレナはガードを解いて回避に専念した。

 目や頭の痛みは限界に達し、視界は既にモノクロだ。本当は今すぐにぶっ倒れてしまいたい。だが──まだまだ駄目だ。この一撃を躱して魔剣を手に入れても、むしろここからが本番。まだまだ休んではいられない。


 相手の構えから予測される攻撃は、概ね三種。

 上段からの斬り下ろし、左右両方の斬り込みだ。


 その場にいるのは悪手。詰め切るか、退くかがベスト。そう判断した矢先、構えが切り替わる。


 剣こそ持っていないものの、顔の横で左の手首が返され、左右の手の前後関係が逆転する。剣があれば切っ先がこちらに突き付けられる、霞構えのような状態だ。


 左の斬り込みが消え、代わりに突きの可能性が生まれた。そう認識した直後、幽霊が身体が霞むほどの超速度で動く。


 選択された攻撃は突き。

 最も早く、最も間合いに優れ、攻撃それ自体も速い最善手。だが、それ故に予測の通りだ。エレナはそれを予期していた。


 モノクロの視界の中、幽霊がスローモーションで剣を突き出す。

 エレナも自分にできる最高速、利き足である右足に力を込めて左側に飛ぼうとして──強烈な悪寒に襲われる。


 何がどうというわけではない。

 ただ猛烈に嫌な予感がする。そっちに動くのは不味いと、自分でも分からない何かが叫んでいる。


 最速の安定解か。それを捨てるか。

 エレナは刹那以下の時間で判断し、右足に込めた力を抜いた。


 極限まで脱力して膝を抜き、右側へと転がる。

 次には繋がらない、咄嗟に立ち上がって構えた頃には二回は死んでいるだろう動きだったが、追撃は無かった。


 『──素晴らしい直感と反応だ。全く本当に、エルフの王女というのは、どうしてこうも。クククッ……はははは! 全く、全くという奴だ! はははは!』


 幽霊は身体を揺らして笑い、手の内にどこからともなく濃紺色の剣を取り出した。宝石のような半透明の輝きを持つ、あの魔剣だ。


 その剣が無造作にエレナの足元へ転がる。

 あまりにもな扱いだが、エレナは抗議しなかった。エルフの形をしていたはずの幽霊は、もはやその形状を保ってはいられず、煙か霞のような有様になっていた。剣は投げ捨てられたのではなく、把握していられずに手から抜けたのだ。

 

 『持って行け。貴公の魔力量では真の力は使えんだろうが、その状態でも鋭利さは折り紙付きだ。龍が相手でも、その存在を引き摺り下ろせるだろう』


 エレナは剣を拾い上げると、もうほとんど消えかかっている人影に一礼して、湖へと飛び込んだ。降りて来た蜘蛛の巣は何十メートルも頭上で、幾らエルフの身体能力でも足場無しでは届かない高さだ。せめてその高さまでは、正規の順路である壁面沿いの階段を使うしかない。


 幽霊はその後ろ姿に柔らかく微笑むと、風に吹かれた煙のように消えた。







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