第282話

 アトラク=ナクアの娘は、拍奪使いの天敵といえる性能をしていた。

 八つの単眼は極端なほどの空間把握能力を持ち、相対位置認識が何をしても狂わない。フィリップが真後ろに回り込んでも、『拍奪』を使っていても、蜘蛛が天井にくっついていても、攻撃はフィリップのいる位置を正確に狙ってくる。


 そうなると、フィリップに残された手段は回避のみ。

 それも拍奪頼りの透かしではなく、素直に距離を取って躱す他にない。


 しかしアトラク=ナクアの娘は図体に見合わず俊敏で、フィリップは既に幾度となく壁際へ追い詰められてはギリギリのところで致死の一撃を躱している。

 戦闘開始から2分。たったそれだけの時間しか経っていないというのに、フィリップはもう息が上がり、肩で息をしている有様だった。


 「あぁ……クソ」


 フィリップは目の上に流れた汗を拭い、その隙を突いて振り下ろされた剣のような肢の一撃を慌てて躱す。


 アトラク=ナクアの娘。次元超越糸を使い、異世界にまで亘る広大な巣を作るための奴隷。

 以前に試験空間で遭遇したゾス星系よりのもの、戦闘員であったクトゥルフの兵とは違う、ただの土木作業員に過ぎない手勢。だが、フィリップより大きく、重く、硬く、速い。それだけで、生物としては一段上だ。


 戦闘技術ではフィリップが上でも、戦闘能力で負けている。

 人間に優越する化け物──生得的機能のみで、技能に勝る。人間が戦うために開発し、磨き上げ、伝承してきた技術が、ただ身体が強いだけという理由で敗北する。


 ぎちぎちぎち、と蜘蛛が嗤う。

 それは以前にエルフの戦士を殺した時、戦闘技術を踏み潰して殺した経験から学習した、愉悦の感情を孕んだものだった。


 フィリップが身に付けた拍奪の技術は、にとっても未知のもの。それを、ただ変異しただけで超越する快感。上位者に服従し強者へと転じた、その力の発露。心地よい、小気味よい、これは何とも素晴らしい。

 蜘蛛はけたけたけた、と嗤いながら、小さな戦士の顔が恐怖に歪むさまを見て──首を傾げる。


 「困るなぁ……ホントに邪魔だ」


 ぺちぺちと自分の頬を叩くフィリップ。まるで眠気を覚まそうとするかのように、頬を張って頭を振っている。

 何のつもりなのかと蜘蛛は首を傾げ、青い瞳に宿る、嘲笑の光を見た。


 「恐怖が無いのは便利だけど、蔑視は行き過ぎだ。回避が一手遅れる」


 フィリップはぽつりとぼやく。

 その心中に渦巻くのは、10分間の耐久戦という難事に際しているのに、心の奥底でずっと嗤っている外神の視座への呆れだ。


 「攻撃が来る」「だから避けよう」。回避行動は普通これだけの思考、いや反射で済む。

 しかしフィリップは「このクソ劣等は何をやっているんだ」「踏み潰すのも勿体ない、勝手に死ね」「いや当たったら死ぬのは僕の方だぞ」「避けなくちゃ」と、攻撃を認識してから二フレームの邪魔が入る。


 「まぁ、とはいえ──神威も無いような劣等種。シュブ=ニグラスの視点からじゃ、警戒するなんて無理な話か」


 何事か独り言ちているフィリップの言葉を解せず、しかし表情や視線に込められたどうしようもなく深い侮蔑の意を感じ、アトラク=ナクアの娘が動く。


 選択された攻撃は、依然変わらず前足による振り下ろし。

 というより、アトラク=ナクアの娘に攻撃のバリエーションは無い。何の格闘技術も身に付けていない人間がパンチとキックと頭突きくらいしかできないように、戦闘技術を持たない蜘蛛にはそれくらいしかない。あとは毒牙か糸かだが、命中精度に最も長けたのは、やはり肢だ。


 しかし、フィリップのステップバックで躱される。タップダンスのようにテンポよく連撃を加えても、ダンスパートナーのように理解しきった動きで避けられる。


 「しかも、攻撃が単調だ。速いし重いけど、ビビらなければ余裕で見切れる。……10分、耐えてやるさ」

 

 フィリップはウルミも仕舞い、完全に回避に専念している。

 その動きこそ単調で、普段の拍奪を使った奇妙ながら素早く複雑な動きは見る影もない。だが、今必要なのは特殊な技術ではなく、正確無比な攻撃を同等以上に正確に躱すステップワークと、超長期戦に耐えるスタミナだけだ。


 それだけで、この程度の相手には十分──そう、慢心した。


 「──?」


 蜘蛛の動きが変わる。

 前向きに生えた二本の肢で押さえつけるような動きだったのが、むしろフィリップから距離を取るように後退し始めた。


 フィリップは右腰のウルミに手を遣り、蜘蛛の動きを慎重に観察する。

 エレナの方に、ヤツのホームグラウンドである蜘蛛の巣の中に行かれたら、殆ど詰みだ。フィリップには幾重にも重なり合った多重多層の蜘蛛の巣、灰白色の帯で織られた立体迷路を通り抜けるような身体能力は無い。いや、それ以前に、この次元超越糸は、何故かフィリップが触ると千切れてしまう。あの中に飛び込んだが最後、何十メートルも下の湖に衝突してジ・エンドだ。


 「逃げる気か? 人間風情から、アトラク=ナクアの娘であるお前が。まあ劣等種らしい無様さだ。お前の主人によく似ている」


 ……何がだろう、と自分でも思う。

 旧支配者アトラク=ナクアに会ったことは無いし、頭に入っている知識は全て外神の視座から見たものだ。基本的な情報の他には、侮蔑と嘲笑ぐらいしかない。


 つまり、無様と嗤うだけの情報が無いのだ。

 彼女が何をして、どうなって、何が起こったのか。そういう生きた情報は、外神に対してのものしかない。たとえばシュブ=ニグラスが見ていた、ナイアーラトテップが住処にしていた森から焼け出されたこととか。


 しかし──アトラク=ナクアの娘は、釣れた。

 先刻、フィリップが邪悪言語でアトラク=ナクアを罵倒した時のように、明確に怒りを湛えた鈍重な動きでフィリップに正対する。ぎちぎちぎち、と鳴る牙は、疑いの余地なく威嚇音だ。


 「で、どうする? 逃げる? いいよ、逃げなよ。逃げてゴシュジンタマに泣き付くといい。この星にいるんだろ? 呼べよ、僕から、人間風情から逃げ出して、おかーさんたすけてーって──」


 ──正直、煽るのが気持ちよくなり始めていた。心の中に渦巻く嘲笑を鎮めてお行儀よくしているのは疲れるが、心のままに言葉を紡ぐのは楽でいい。特に台詞を考えることも無く、外神の視座から見下ろして、思い付いた言葉をただ羅列するだけで良かった。


 だが、やり過ぎた。

 蜘蛛は人語を解さない。だが音に乗せられた侮辱の意思は伝わった。


 再びの主神への冒涜に、アトラク=ナクアの娘の激昂は頂点に達した。


 「──っ、と!」


 フラメンコのようなハイテンポの肢捌き。貫き、押し付け、潰し、打ち払い、掴み取る。

 今までの動きを倍速か、三倍速にしたような超ハイテンポの連撃を、フィリップはギリギリのところで躱し続ける。速いだけで動きの精度や単調さに変わりがないのが救いだが、このままでは10分持たずにスタミナが切れる。


 みちみちみち、とこれまでにない音が届く。

 何か特殊な攻撃が来る、と身構えたフィリップ。その視界が灰白色に染まる。


 「糸──!」


 サソリのような動きででっぷりと太った腹を持ち上げた蜘蛛は、その先端部から白い帯のような極太の糸を、フィリップの顔面を目掛けて噴射していた。


 次元超越糸ではない。

 それはアトラク=ナクアの娘にも分からない理由で、何か特別な現象によって、フィリップが触れると千切れてしまう。何より、それは大切な、主人へ捧げる巣の材料だ。人間一匹の、劣等種一つを殺すのに使っていいものではない。


 その忠誠心故に、彼女が放ったのは、ただの粘性を持った白い帯。精々が大量の糊か餅に等しいもの。

 だからこそ、フィリップを殺すには十分だ。掌サイズの餅ですら窒息死を引き起こすのだから、その奔流ともなれば危険性は言うに及ばない。


 「うっ──!?」


 ステップなんて甘いことは言っていられず、硬い岩の地面に身を投げて直撃圏外へ逃れる。しかし、いつもの癖で身体に遅れた右手──普段はウルミを尾のようにして走るため、背中側にだらりと流している──が、糸に絡めとられた。その射出の勢いに引かれて壁まで吹っ飛ぶ。


 「が、はっ……!」


 ごつごつした岩肌に強かに背中を打ち付け、肺から空気が絞り出される。磔にされた右腕は押しても引いても取れる気配はなく、まるで鉄が接着剤になっているようだ。


 ぎちぎちぎち、と牙を鳴らしながら、アトラク=ナクアの娘がゆっくりと追ってくる。

 フィリップを捕らえたことに対する歓喜や嘲笑は最早無く、冷徹な殺意だけが八つの単眼に宿っていた。


 フィリップは少し慌てつつ、腕の拘束より自分の状態を優先して確認していく。

 特に重要なのは背骨だ。引っ張られていた右手が最初にぶつかったから、受け身もどきになって衝撃は緩和された。だが体育館の砂敷の地面より硬い岩壁だ、不安は募る。腰関節、股関節、膝、爪先と順に感覚を確認し、ほっと安堵の息を吐く。


 そして蜘蛛の動きをじっと観察して、覚悟を決めた。

 右手を肩甲骨から動かし、かなり無理な姿勢で顔を右手の前に持ってくる。まるで、なるべく被弾面積を減らして逃れようとするかのように。


 蜘蛛が止まり、前足を振り上げる。

 嘲笑も遊び心も含まない、フィリップとは違うが迸り──人間の頭蓋骨を確実に粉砕せしめる威力の一撃が振り下ろされた。


 この距離で蜘蛛の本気の攻撃を躱すには、相手の動き出しと同時に動かなければ間に合わない。だが、フィリップは動かない。

 普段とは逆に、訓練によって体に染み付かせた反射的回避を、外神の精神を以て制御する。躱さなくては大激痛に襲われるという本能の警告を、嘲笑と共に棄却する。


 「はぁ──、っ」


 深呼吸し、脳と目へ最大限に酸素を回す。


 剣のような肢先が、動体視力を振り切るギリギリの速度で襲い来る。

 フィリップはその突端をスローモーションで観察しながら、灰色に染まっていく視界を他人事のように認識していた。


 直撃まで2メートル。

 まだだ。今避けても間に合わない。今動いたら、軌道を修正されて致命傷を負う。


 直撃まで1メートル。

 まだだ。もう動くには遅すぎて、これから避けたって意味がない。今動いても、修正が間に合ってしまう。


 直撃まで50センチ。

 ここだ。このタイミング、奴の前足にスピードが付いて、自分の制御下を離れた今しかない。


 フィリップを殺した。蜘蛛がそう確信した直後の隙を突いて、その場に落ちるように膝を抜く。


 ずどん! と重い衝撃が壁を震わせ、砕かれた壁がもうもうと土煙を立てる。──アトラク=ナクアの娘が首を傾げた。

 頭蓋を砕き、脳漿をぶちまける感触は知っている。だが、今はそれが無かった。


 「……自縄自縛作戦は失敗か、まぁ蜘蛛ってそういうものだけど、あれってなんでなの?」


 蜘蛛自身の攻撃で岩壁ごとバラバラになった糸の戒めから逃れ、土煙に紛れて距離を取ったフィリップは、右手をプラプラさせながらぼやいた。

 岩壁に強く縛られていた右腕には少し痺れがあるが、脱臼や骨折はしていない。全くの無事と言っていいだろう。


 蜘蛛は八つの肢をもぞもぞと動かし、フィリップの方に向き直る。八つの目は相変わらず無機質な殺意だけを湛えていて、攻撃を躱されたことへの驚きなどは見て取れない。


 「ま、いいや。次善って感じだし」


 本当はアトラク=ナクアの娘を奴自身の糸で壁に縛り付けたかった。これが最善の結果だ。ちなみに最悪の場合は壁が壊れず二人ともが同じ糸で拘束されて、フィリップは為す術無く毒牙に刺されていた。

 それでも死なないという確信があったからこその賭けだったが、何とか無事にヨグ=ソトース頼りにはならずに済んだ。


 腕もちゃんと付いているし、フィリップが避けやすいいい感じの距離が開いた。その上、相手の弾速も把握できたとなれば、さっきよりも不利が小さくなっている。


 「全然余裕で耐えれそうだな。残り何分だか知らないけどね」


 やーい雑魚、と中指を立てたフィリップに、またアトラク=ナクアの娘が襲い掛かった。


 エレナの指定した10分間のうち、既に8分が経過していた。








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