第281話

 パルクールのような動きで無数の蜘蛛糸を掻い潜り、踏み、跳び越えて走りながら、エレナは懸命に目の前の障害物に集中する。

 背後から僅かに聞こえる剣戟の音と、見えなくなってしまった目的地──地下湖の小島に安置された龍殺しの魔剣──は、どうしようもなく集中力を削ぐ。


 だが、今は一歩でも早く、一秒でも早く、この無数の帯が複雑に絡まり合った灰白色の迷路を抜けなくてはならない。


 その現状で、脳の過回転はむしろ邪魔だった。

 目の前の地形に集中したい、身体を動かすことに集中したいのに、余分な思考が混ざってしまう。予め見繕ったルートを、予め想定した動きで通り抜ける、それだけでいいのに──フィリップが心配だ。魔剣が気になる。もしも失敗したらと不安になってしまう。


 直線距離では150か160メートルくらいだろうが、流石に何重にも重なった蜘蛛の巣に遮られていては、真っ直ぐに向かうことなど出来ない。行きに三分、帰りに七分。どう頑張っても、これ以上にタイムを縮めるのは不可能だった。


 跳んで、走って、潜り抜けて、また走って。考え得る限り、出来る限りの最短経路を、最速で駆け抜けて。最後の最後には50メートル下の水面に飛び降りて、少し泳ぐ。


 「う、あー……結構響いたなぁ……」


 人間なら即死も有り得る衝撃だが、エレナは腰を擦るくらいで、どこか折った様子も無い。フィリップが見ていれば冗談だろと瞠目するところだが、今はとても忙しいし、そもそも蜘蛛の巣でフィリップがいる高台の様子は見えない。


 ぷるぷると頭を振って髪の水気を雑に飛ばし、エレナは岩の台座に突き立てられた魔剣に向き直る。


 魔剣──その名に相応しく、どこか禍々しい気配を放つ、濃紺色のロングソード。

 鉄や銀などの金属ではなく宝石を思わせる透明感のある素材で作られたそれは、長い闘争の歴史の中で傷付き、所々刃毀れしている。だというのに、その存在感、威圧感には一片の曇りもない。


 「……これが、魔剣──」


 形状自体はオーソドックスな長剣だが、一目で通常の存在でないことは分かる。これなら、きっとあの蜘蛛にも、フィリップたちが倒そうとしている龍にも届くだろう。そう思わせる、神秘的な気配を纏っている。


 見惚れかけていたエレナは、ぱんと自分の両頬を張って気を引き締め直す。

 そして、静かに輝きを放つ宝石のような柄へと手を伸ばし──指先が触れた瞬間、物凄い力で後ろ向きに引っ張られて水に落ちた。


 「わぷっ!? ──、っ!?」


 蜘蛛がもう一匹いたのか、フィリップが陽動として機能しなかったか、或いは──。

 幾つもの想像したくもない可能性がぐるぐると脳内を駆け回るが、それも一瞬だ。水面から顔を出して下手人を認めるまでの、ほんの一瞬。


 そして、エレナの目に映ったのは、異形ならざる──つまり、ごく平凡なヒトガタだった。

 二足二腕で、胴体と顔がある。革鎧を身に付けた戦士然とした出で立ちで、細く長い耳の形が特徴的だ。


 『エルフ……なの?』

 『そうだ。これでもかつては英雄と呼ばれた。或いは勇者とも』

 

 剣の傍らに立つ人影は悠然としている。

 敵意も害意も感じられない──どころか、生気さえ感じられない。よくよく目を凝らしてみれば、薄く向こう側が透けて見えた。


 『わお。もしかして、幽霊ってやつ? ゴースト系の魔物じゃない、本物の残留思念体?』

 『似たようなものだ。魔剣を取ろうとする者を見極めるため、俺はここに残った。その意思や在り方を見て、魔剣を託すに相応しいかどうかを』


 人影の顔立ちは靄が掛かったように判然としないが、声で分かる。彼は今、とても仏頂面で──苛立っている。


 『そして貴公は、失格だ。故に、この剣は取らせん』

 『なんで!? ボクはこれでも、皆の為に剣を取りに来たんだ! この森に誓って、私利私欲の為じゃない!』


 今もあの足場の悪い高台で戦い続けているフィリップを思うと一分一秒が惜しいのに、どうして邪魔をするのか。エレナは人影以上の苛立ちを孕んだ声をぶつける。


 『知っている。だが、そこには人間も含まれるだろう。人間は……敵だ。我らの首都を焼き、同胞を討ち、王女を拐かした!』


 びり、と首筋が震える。

 人影は幻で、その声はエレナにだけ聞こえる幻聴なのに、総毛立つような威圧感が迸る。


 それは声に含まれた憎悪や慚愧、恐怖や悲哀によるものだけではない。


 ──そんなこと、知らない。

 苛立ち混じりに「早く退いてよ!」なんて言おうとしていたエレナは、自分の知らない情報の提示に口籠った。


 『……え?』

 『遷都のきっかけになった出来事だ。遷都以降に生まれた貴公や、首都から遠いこの森の民が知る由もない。いや……或いは、貴公の笑顔を曇らせぬよう、敢えて教えていないのかもしれんが』


 そんなはずはない、とは言えなかった。

 だって、心当たりがある。父も母も、人間との交流なんて全く無いはずなのに、妙に人間について詳しい。しかし人間について教えてと言っても「本を読め」と言われるばかりで、その本には生物的なことが多少書かれているだけ。ではこの目で確かめようとすれば、今度は血相を変えて止められて、理不尽に怒られたこともある。


 その理由が、まさか、人間の蛮行によるものだとは思いもしなかったが。


 『先の首都は滅ぼされ、王女は攫われた。他ならぬ人間の手によってだ。故に私は、人間を助けようとする貴公を嘲り、諫め、そして認めん。立ち去れ』


 人影は言い切り、かつての相棒である魔剣を撫でる。言うべきことは言い切ったとでも示すように、その顔はもはやエレナのことを見ていなかった。


 しかし、エレナも「はいわかりました」と従うほど素直な性格をしていない。

 人間との間にある確執については、正直、知らなかった。祖父である先王や叔母に当たる先王女とは会ったこともないが、同族として、その死を悼む心はある。その死の理由を、どうしてエルフの首都が焼かれたのかを知りたいと思う心はある。


 だが、そんなのは全部後回しでいい。

 いま重要なのは、魔剣を手に入れてあの蜘蛛を倒すこと。それ以外は、すべて些事だ。


 『あなたの言っていることは分かった。嘘って感じもしないし、きっとホントのことなんだろうね』


 エレナはもう一度小島に上がると、髪の水気を振り落として拳を構えた。

 顎と頸動脈付近を守る、少し広めのファイティングポーズ。片足を引いて半身になった立ち姿は、やけに様になっている。


 応じるように、半透明の人影は安置された魔剣の柄へと手を伸ばす。


 『……止せ。押し通るというのなら、斬り伏せる。自分で言うのは照れ臭いが、俺はこれでもエルフ随一の使い手だった』


 そうだろうな、とエレナは心の内で頷いた。

 こうして相対しているだけでも、首筋がちりちりと焦げ付くような威圧感が伝わってくる。これまでにも狼の群れや身の丈を越すような大蛇、或いはもっと敵意に満ちた魔物とも戦った経験のあるエレナだが、彼女史上最強の敵だという確信がある。


 それでも──そんなのは、洞窟に入る前から覚悟していたことだ。

 自分より強い敵。魔剣に頼らなくては倒せない敵。そんな相手と戦うために、そんな相手から民を守るために、この暗くてじめじめした、エルフの夜目が無ければ殆ど何も見えないような洞窟を死地とする覚悟を決めたのだ。


 『あっそ。自分で言うのもなんだけど、ボクはこれでも──素手で熊だって倒せるんだよ』

 『……エルフの王女というのは、お転婆娘に育つ宿命でもあるのか?』


 相変わらず人影の顔は靄がかかって判然としないが、過去を懐かしむような呆れ笑いを浮かべている気がした。


 しかし、空気は全く弛緩しない。

 人影は無造作に手を伸ばし、突き立っていた宝石の如き長剣を抜き放つ。りぃん、という澄んだ音が、ドームを埋め尽くすような蜘蛛糸に吸われて半端に消えた。


 『魔剣ヴォイドキャリア。触れれば斬れる、無刃の剣。如何なる防御、如何なる隔絶も無に帰す』

 『カッコいい名前だね。なんとなくだけど、フィリップが好きそうだ──!!』


 相手は長剣。こちらは徒手。

 間合いで劣る以上、後手に回るのは絶対的に不利と考えて愚直に距離を詰める。


 動くのは後足から。初動を悟らせないため顔の位置を変えずに間合いを詰める技術は、フィリップの『拍奪』と通じる点のあるもの。相手が目と脳で相対位置を認識しているのなら、初見ではほぼ確実に見破れない“近付かない接近法”。


 だが。


 『──っ!』

 『それは、以前に見た』

 

 咄嗟に膝を抜いて身体を倒すと、一瞬前まで頭のあった位置を魔剣が突き抜ける。

 動きに遅れた髪が一房、はらりと切れ散った。髪が引っ張られる感覚が全く無い、完全な無抵抗の切断。


 『触れれば斬れるだって? 冗談──!』


 抜いた足を無理矢理に回し、バックステップで距離を取る。


 達人が鍛ち、達人が研いだ剣なら、触れただけで肌を裂く鋭さを実現することはできる。勿論、素材にも左右されるが。

 だが、今のはそんな次元の話ではなかった。触れた部分が綺麗に無くなって、その結果として切れたように見えるだけの──刃物による切断、薄い一点に圧力を集中することで圧し裂く一般的な斬撃とは、まるで違うものだ。


 エレナは両手を軽く振って、構えを正した。

 適当にボコって奪い取る。そんな気概では、跡形遺さず斬り伏せられる。いや──死力を尽くして戦っても、きっと五分にも満たない。


 『悪いけど、ボクも本気でここに来た。あなたの信念、殴り倒させて貰うよ』

 『……上等。戦意の鈍りは刃の鈍り。冴えぬ刃はガラクタよ』


 言って、消し斬る魔剣が正眼に構えられる。

 霞の向こうにある顔が、獰猛な笑顔の形に歪んだ気がした。






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