第279話

 結局、フィリップはアトラク=ナクアの娘に関する情報を開示した。といっても、その発生源であるアトラク=ナクアや旧支配者については触れず、「巨大な巣を張るために行動している」と誤魔化したが。


 習性や戦闘能力については、出来る限り詳細に話した。

 とは言っても、情報ソースが外神の智慧だ。あんな程度の劣等種と「戦い」をしたことがないから、攻撃方法や防御強度なんかは全くの未知数だし、フィリップが夕暮れまで長々と語った内容の殆どは憶測だった。


 大量の無意味な情報と、確度の低い推測。脳を埋め尽くすとまでは行かずとも、思考のノイズにはなる膨大なゴミ。

 衛士団長をただ見捨てるなんてできない。絶対に何か役立つ情報を提供する! そんな懸命な顔をして、何時間も同じ内容を繰り返したり、延々と推測を語ったり、無能な働き者のように情報を垂れ流した。その中には、一片の嘘を混ぜてある。


 ──あの蜘蛛は夜行性です。昼間であれば動きが鈍るかも。


 衛士団長はそれを聞いて、当然のように翌日早朝の襲撃案を立てた。

 仕方がない。明日が龍殺しに使える最終日だ、明後日には帰路につかなくては二週間のタイムリミットを超過してしまう。


 だから……フィリップが行くなら、今夜しかない。

 天井に吊られていたランタンを外して光源を確保し、右腰にウルミを吊って準備はほぼ完了だ。あとは──腰にくっついて泣きべそをかいているシルヴァを剥がすか、異空間へ送還すれば完璧と言える。


 「……ふぃりっぷ、ほんとにおこってない?」

 「怒ってないよ。そういうものだっていうなら、それは仕方のないことだし、怒らないって」


 一時間ほど前、衛士団への情報開示を終えたあとから、シルヴァはずっとこの調子だった。

 この森には「余計なものは棲んでいない」と言ったのに、アトラク=ナクアの娘が巣まで作っていたのだ。あれも森に住まうものなのかとフィリップは呆れ交じりに思っていたのだが、シルヴァは違うと言った。


 曰く、洞窟や地下空間は森の範疇外で、把握できなかったのだという。分かっていたら警告していたとも。


 ……正直、「どうして教えてくれなかったんだ」とは思った。だがそれは、衛士たちにあんなものを見せてしまったこと──あの異形の蜘蛛を一人で、彼らに何も見せないようスマートに殺すことが出来ない、自分の無力さの八つ当たりだ。

 勿論、あれが人間以上の存在であることは分かっている。智慧も、あれは人間を殺すに能う存在だと警告している。


 だが、心の内には確かな嘲笑があるのだ。旧支配者の手先などという下等種への嘲笑もそうだが、何より、自分への嘲笑が。

 あんな程度の劣等種さえ殺せない、いや、「殺す」「戦う」というステージにすら上がれないこの身は、何と脆弱なのかと。外神なら、あんなのとは「戦闘」をしない。指の一弾きや一瞥どころか、認知することすら必要とせず、ただ同じ空間に居るだけで相手は勝手に死ぬというのに。


 そうなりたいわけではない。いや、死んでもなりたくないが、比較と嘲笑は止まらなかった。


 その苛立ちをシルヴァへの八つ当たりで発散するのは、絶対にあってはならないことだ。そう自制するだけの理性は、まだきちんと残っている。


 「前に言ったでしょ? シルヴァにはあれしろこれしろって命令するつもりはないって。シルヴァは僕と、いたいだけ一緒にいてくれたらそれでいいんだ」

 「ん……」


 若葉色の髪を撫でると、シルヴァは心地よさそうに目を細めた。もう一度上目遣いでフィリップの窺うが、その表情に怒りの色を認められず、安心したように自分から異空間へ還って行った。


 「さて……僕も行くか」


 なんとなく準備運動をしつつ、ランタンとウルミと、水筒も持ってツリーハウスを出る。朝方の洞窟行では持って行かず、衛士たちの水を分けて貰うことになった経験からの学習だ。


 それなりに深い森の中ということもあり、日が沈むと一気に暗くなる。ツリーハウス同士を結ぶ丸太を組んだ回廊には炬火があるが、洞窟方面の森は黒々とした闇間を覗かせている。ランタンの明かりは集落から見えないよう、自分の身体で隠して歩かないといけないだろう。でないと、一瞬でバレて連れ戻される。


 ──と、フィリップが珍しく賢い推察をした時だった。


 「一人で行くの?」

 「──、っ!?」


 不意に背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。

 ぎぎぎ、と軋むような動きで振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべたエレナが金色の髪を揺らして立っていた。


 「今から洞窟に行くんでしょ? 一人で」

 「え? い、いや、何のこと……あれ? いま、共通語で喋りましたか?」


 エレナはエルフ語しか話せなかったはずなのに、フィリップは今、彼女の言葉が難なく理解できた。

 フィリップが突如としてバイリンガルになった──邪悪言語を含めるとトライリンガルだが──のだとしたら、帰ってルキアとステラに自慢するところだが、残念ながらそうではなく、エレナが大陸共通語で話しているだけだった。


 「うん。あの洞窟から出てから、頭が凄く冴えてるの。人間の言葉も、爺やに読み書きとか文法は教わってたけど、いつ使うんだーって授業を適当に聞いてたのに。……気が付いたら、衛士たちが何を言っているのか理解できてた。……なんでかな?」

 「え? な、なんででしょうね……?」


 フィリップは韜晦ではなく、心の底からの疑問を込めて返す。


 あの洞窟が知性を上げるパワースポットだった、とかなら、フィリップや衛士たちにも同様の症状が表れていなければおかしい。或いはエルフだけに効果があるのかもしれないが、ダンジョンならともかくただの洞窟にそんなギミックは無いだろう。アトラク=ナクアの巣網にも、そんな効果はない。


 となると、やはり狂気の類か。

 多言語理解とは、何とも便利な狂気で羨ましい。まぁ、狂えるというだけで羨ましいのだが……なんて、フィリップは見当はずれな羨望を抱く。


 人間は基本的に、肉体と精神が互いに影響するように出来ている。身体の状態が不健康であれば精神も不健康になり、精神が不安定になると体にも影響が出る。前者は風邪の時に妙に人恋しくなる現象、後者は狂気による記憶障害や言語障害などが代表的な例だろう。


 エレナが発症した狂気は脳活動の過剰化だ。

 甚大な恐怖と危機感が脳の働きを限界まで活発化させ、超集中ゾーンに近い身体作用を引き起こすことは、狂気ではなくとも稀にある。つまり彼女の狂気は、珍しく本能にやや近い働きをしている。


 今までは読み書きが多少できる程度だった言語が、少なくとも日常会話レベルで使いこなせるようになるほどの過回転。聞き流していた授業の記憶を忘却の彼方から引き摺り出し、強制的に定着させているようだ。


 それだけなら、フィリップがそれを知っても羨ましがるだけなのだが──狂気が、そう便利なものであるはずがない。

 人間の脳は一日の消費エネルギーの3割近くを占める超重要臓器だ。睡眠中にも記憶の整理や定着などの活動をしており、脳が働いていない時は殆ど無いとまで言える。


 そんな脳が過剰活動するとどうなるか。

 他言語理解や完全記憶は素晴らしい才能だし、それを疑似的に再現しているのは凄いことだ。だが、決してそれだけではない。


 この状態でもう一度アトラク=ナクアの娘に遭遇すれば、脳が認識し理解する情報の量は前回とは比較にならないほど多くなる。今度こそ、精神が完全に破壊されるかもしれない。

 それに、この状態が続くのも良くない。頭痛、眼痛、熱発などの副反応に始まり、長く続けば脳細胞の破壊や血管破裂などを引き起こす可能性もある。その結果は昏睡か、植物状態か、死かだ。


 そんなことは露知らず、フィリップは「なんか分かんないけど言葉が通じてラッキー」くらいの認識で、能天気に話を続ける。──尤も、能天気なのはエレナの状態に関しては、だ。もしかして引き留めようとか、衛士団にチクろうとか考えてないよね? 殺さなきゃダメかな? とか、内心では戦々恐々としているし、何ならちょっと身構えている。


 「鞭を右に吊ってるから右利きだよね? でも、ボクを排除するのには左手を使おうとしてる。あなた、魔術師だったんだ?」

 「……排除だなんて、僕はそんな──僕?」

 「ん? 何か変だった? これでも一応、人語で書かれた本を読めるくらいには……あぁ、人称変化が変なのかな。ボク、あの範囲は苦手でさ。ワタシ、オレ、ジブン、ワタクシ、コチラとか、なんでこんなに多いの? エルフ語なんて『私』の一種類だけだよ?」

 「いや、僕に聞かれても困るんですけど……変ってことはないですよ。ちょっと……珍しくはありますけど」


 フィリップが初対面で男性だと思ったフレデリカでも、一人称は「私」だった。エレナの顔立ちはフレデリカ以上に整っているが、かと言って取り立てて中性的というわけでもない。むしろ、どこかミナに似ているとすら思う女性的な魅力に富んだ顔の造りなのだが……流石に、人間以上の美貌を前にすると、脳が不具合を起こす。エレナを初めて見た時も、美しいという情報だけが先走って、性別にまで目が回らなかった。


 じゃあどうやって性別を判断するんだと言われると、じっくり見るか、身体を見るかなのだが──失礼な話、エレナの身体はミナとはだいぶ違った。フィリップが知る女性の中でも一、二を争うグラマラスな肢体の持ち主であるミナとは比べるべくもなく、胸が薄い。何ならフィリップと同じぐらいの起伏の無さである。

 すらりと長い手足や嫋やかな手指、健康的に引き締まった腰のくびれなどは、勿論魅力的なのだが──異性の身体の何処が魅力かなんて、フィリップは知らない。性差についても、概ね「胸があってモノが無いんでしょ?」ぐらいの認識だった。


 かといって、「それは変だよ! でも男っぽいから似合うね!」なんて馬鹿正直に言うほど愚かでもないフィリップは、曖昧に笑って話を流す。頭の片隅には、ディアボリカに言われた「女性を女性扱いしないなんて論外よ!」という叱責が引っ掛かっていた。


 「そ、それで……エレナさん……様?」

 「どっちでもいいよ。敬称の種類も、王様に使う『陛下』が区別されてるぐらいで、基本的には一種類だし」

 「そうですか。じゃあエレナさんはその……僕を止めに来たんですよね?」


 それは困るなぁ、なんて、フィリップは自分の手札の少なさを恨む。

 衛士団と、それに一応、エルフたちも助けるために行こうというのだ。邪魔をされたからと言って、まさか殺してしまうわけにもいかない。


 しかし、エレナは軽く首を傾げて疑問を露わにすると、軽く頭を振って否定した。


 「ううん、違うよ? ボクはこれでもお姫様だからね。居住区の近くにあんな化け物がいるなら、もっと多くの被害が出る前に対処しなくっちゃ! というわけで、あなたについて行こうかなーって」


 楽し気に言うエレナに、フィリップは沈黙を返す。意識して黙ったわけではなく、絶句しただけだ。


 余りにも──面倒くさい。

 便利な症状とはいえ狂気を発症するほどの恐怖に直面して、それでも臣下の民のため戦いに赴くというのは、何とも美しい在り方だ。


 だが、率直に言って邪魔だ。

 アトラク=ナクアの娘に単騎で勝てるならそれでいいのだが、それなら先の邂逅で片を付けているだろう。となると「フィリップを手伝う」みたいなスタンスのはずだが、当のフィリップ本人は賭けに出るつもりだ。即ち、本能の警告と外神の視座による嘲笑に浸り、眼前敵への集中を以て邪神を召喚する。できなければ、その時はヨグ=ソトース頼りだ。


 何の関係もない他人でも、善人であるのなら殺したくはないし、無知であるのならそのままでいるべきだと思う。

 その想いがあるからこそ、賭けに出るのに──賭けの場にすら、重石が来る? それは邪魔以外の何物でもない。


 「……お勧めはしません。まず、どうして僕に? 明日の早朝に、衛士団と一緒に行けばいいじゃないですか」

 「え? だって、あなたが一番弱そうだし。あの人たちはボクより強いけど、あなたは……一人だと死んじゃいそうだもん」


 揶揄の気配もなく無邪気にそう言われ、フィリップは胡乱な目を向ける。

 エレナだって、手や足に筋肉が付いているようには見えないし、簡素なシャツとズボン姿では防御も薄いだろう。少なくとも近接戦闘型には見えないが、フィリップのことを魔術師だと勘違いした時点で、もう確実に魔術師ではない。なんせフィリップの魔術適性は一般人並みと、世界最強から太鼓判を押されているのだから。


 「そういうエレナさんは戦えるんですか?」

 「ん? うーん……、えいっ!」


 可愛らしい掛け声と共に、エレナの右腕が霞む。

 直後、ほんの僅かな破砕音と共に、近くにあった木の幹が巨獣に食いつかれたように抉れ飛んだ。


 人間の頭部も、或いは岩でさえ砕きそうな一撃に、フィリップは絶句を通り越して苦笑する。ミナも大概化け物というか、彼女は正真正銘の化け物なのだが、エレナの出鱈目ぶりも中々だと。


 「見ての通り、パンチとキックには自信あるよ!」


 むん、と腕を曲げて上腕二頭筋を誇示するエレナだが、力こぶは出来ていない。

 エルフと人間では筋繊維一本ごとの出力が違うのだろうが、それにしても冗談みたいな威力のパンチだ。衛士でも強化系の魔術無しであんなのは打てない。


 「……ちなみに、運動神経に自信のほどは?」

 「そっちはまぁまぁかな。この木ぐらいの高さなら、ギリギリ一回のジャンプで届くかも?」


 フィリップたちがいる回廊の高さは、およそ地上二十メートル。むしろどこかの枝を経由しての二段ジャンプの方が難易度が高そうだが、それ以前の問題だ。


 素晴らしい運動性能だ。

 戦闘能力はさておき、これなら、やれることが増えたかもしれない。


 「よし、完璧です。僕の捨て身アタックよりいいプランを思い付きました」

 「ホント? じゃあ、ついて行っても──捨て身アタック!? 駄目だよ!?」


 冗談だとでも思ったのだろうが、笑顔も混ぜつつ突っ込んでくれるエレナ。その妙な居心地の良さに、フィリップは軽く笑った。







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