第278話

 ちりちりと首筋を焦がすような焦燥感は、脳内でけたたましく鳴らされる警鐘によるものだ。


 アトラク=ナクアの娘。

 旧支配者アトラク=ナクアに連なる非神格の神話生物であり、特筆すべき戦闘能力は持っていない。だが、それは彼女が戦闘用に作られた眷属ではないからだ。


 彼女の目的、延いては彼女を作ったアトラク=ナクアの目的は、多次元に亘る巨大な──距離の概念を超越しているので、大きいという表現は不適切かもしれないが──巣を作ること。大目標、「どうして巣を作るのか」までは分からないが、アトラク=ナクアの娘が作られたのが巣作りのためであることは間違いない。


 要は、彼女は戦闘員ではなく作業員なのだ。……尤も、だから人間を殺すに足りないとか、そういうわけではないのだが。 


 「な……なんだ、この魔物……?」

 「分からん……見たことがない。……少年、早く二人を洞窟の外へ!」


 フィリップたちが通って来た洞穴は人間一人か二人分くらいの幅で、高さは衛士たちが屈まなければ通れないくらいだ。蜘蛛の巨体が通れるはずはないので、このドームから出れば安全だろう。


 ぎちぎちぎち、と牙が鳴る。

 自身の爪先のような剣を構え、子供を逃がそうとする劣等種に、異形の蜘蛛が嘲笑を向ける。フィリップの纏う外神の気配には気付いていないのか、気付いた上で、彼らが滅多に干渉しないことを知っているのか。


 けたけたけた、と牙が鳴る。

 威嚇とは間違えようのない明確な嘲笑に衛士たちが困惑し、フィリップの中にある外神の視座が蜘蛛と全く同じ感情を励起させる。即ち、自らを過信する劣等種への軽蔑と嘲笑を。


 衛士たちは怯えながらも剣を握り締め、フィリップたちの前に立っている。

 中には手や足が震えてカタカタと鎧が擦れ合う音を立てたり、松明を取り落としてしまう者もいる。身体に染み付かせた戦闘姿勢だけは思考が吹っ飛んでも維持しているが、不要な力が加わっていたり、必要な力が抜けていたりして、とても強そうには見えない。


 だが──フィリップの心を、強烈に打つ。

 まただ。また、彼らに守られてしまう。また、彼らに無為な危険を背負わせてしまう。フィリップを守る意味なんて、これっぽちも無いというのに。


 邪神を呼ぶか? 一瞬だけ、そう考える。

 だが駄目だ。それでは意味がない。彼らの正気を守るためにフィリップが召喚術を使うのは、虫歯治療のために首を刎ねるようなものだ。


 だからこそ、もたもたしてはいられない。

 フィリップは邪魔だ。ここに残っている限り、彼らもまた撤退できない。


 「……僕はあれを知っています! 今の武装では勝てない! 皆も撤退を!」

 「了解だ! 総員撤退戦用意! 少年たちの後に続け!」


 フィリップは衛士たちから視線を切り、エレナとリックの様子を窺う。

 エレナは大丈夫そうだ。翠玉色の双眸は恐怖に見開かれ、手足は無様に震えているが、子供フィリップに気遣って笑顔を取り繕うくらいの余裕はある。


 問題はリック翁だ。

 彼はフィリップには分からないエルフ語をぶつぶつと呟きながら、何かの儀式のように両手で印を結んだり、十字を切ったりしている。これが狂気なのか、或いはエルフが恐怖に直面した時のルーティンようなものなのか判断がつかない。


 「リックさん、早く逃げましょう! リックさん……重っ!?」


 フィリップの呼びかけに答えないリックは、杭でも打ち込んだようにその場に直立して、ずっと何か儀式めいたことをしている。異変に気付いた衛士たちが「何してるんだ!」と急かすが、フィリップが押せども引けども一歩も動いてくれない。


 『どいて、私が運ぶ!』

 「エルフ語は──んっ!?」


 エレナが焦れったそうにフィリップの前に割って入る。何と言われたのかは分からなかったフィリップだが、聞き返すまでも無かった。


 ずどん! と重い音がして、リックの身体がくの字に折れ曲がる。

 音源はリックの腹を打ち据えた、エレナの真っ白な拳だ。一撃で意識を刈り取ったパンチは、たぶん純粋な腕力ではなく何かの魔術を併用しているのだろうが、それでもおよそ人体から聞こえて良いものではない重低音を伴っていた。


 エレナはだらりと脱力したリックの身体を軽々と肩に担ぎ、洞穴の方を指して何事か言う。まぁこの場面で言うことなんて、「急ごう!」とか「行くよ!」のどちらかだろう。フィリップはエレナを押して先に行かせ、その後に続く。


 「団長、撤退します!」

 「行け! お前たちもだ! 殿の俺を早く逃げさせろ! 行け、行け、行け!」


 団長が吼え、衛士たちが焦りつつも規律の取れた動きで洞穴へ向かう。

 最後尾に残って蜘蛛から目を離さない団長を、けたけたけた、と嘲笑うアトラク=ナクアの娘。

 

 その剣のような肢の一本が振り上げられ、衛士団長の頭蓋へ振り下ろされる。

 鈍重そうな巨体だが、蜘蛛の巣から出て来た時の異様な俊敏さを覚えていた団長は、巨木すら一刀の下に両断する居合で以て応じた。


 近くで見ると、不規則に並んだ単眼やぬめりで光った毒牙は心底気持ち悪いが、その「生っぽさ」がむしろ、衛士団長には救いだ。生体組織の複合体である生物なら、絶対に急所がある。生命を司る部分に繋がる、損なえば致命傷となる部分が。


 なら、そこを突いて殺せばいい。いつもの通りに。


 「──、っ!?」


 驚愕の声を呑み込む。

 

 ぎゃり、と、蜘蛛の外骨格が火花を散らしながら剣の上を滑っていく。

 手応えは想像以上に軽いが、外皮の硬さは想定を上回った。手に返る感覚は、龍を斬りつけた時と殆ど同じだった。


 衛士団長は驚愕の表情に好戦的で獰猛な笑みを混ぜるが、どんな攻撃なら通用するのか確かめようとするような馬鹿野郎には、得てしてストッパーが付いているものだ。


 「団長! 撤退してください!」

 「おっと、そうだった! ここで死ぬのは不味いな!」


 衛士団長はすっぱりと諦めて踵を返し、洞穴へ駆け込む。


 蜘蛛は追う素振りを見せず、ぎちぎちと毒牙を鳴らして嘲笑い、幾重にも重なったベッドシーツの中へ帰っていく。狭い穴の中へは追って行けないことを理解しているのか、或いは、そもそも追い返すことが目的なのか。どちらにしても、衛士たちの敗走という構図だった。



 ◇



 往路より幾らかスタミナ消費の激しい洞窟の中を通り、森へ出ると、衛士たちはどっかりと緑の地面に座り込んでしまった。緊張の糸が途切れたか、四つん這いになって吐き戻している者もいる。


 昏倒させたリックを担いだエレナを先頭に、手ぶらのフィリップと鎧姿の衛士たちが続くという順番で洞窟を進んでいたのだが、フィリップのせいで全体的に最高速の半分ぐらいのペースだった。フィリップも必死に足を動かして悪路を進み続け、今は芝生の上でぶっ倒れて荒い息を溢している。


 「参ったな……あれでは魔剣を譲ってもらうどころじゃないぞ」

 「だな……。そういや、リックさんは大丈夫……まだぶっ倒れてるのか」


 リック翁はぐったりと地面に寝かされていて、困り顔のエレナが隣に座って揺り起こそうと試みている。どれだけいいパンチだったのか、彼はうんうんと寝苦しそうに唸っていた。


 芝生が冷たくて気持ちいいなぁ、と、現実逃避気味に眠気を覚えていたフィリップだが、流石に睡魔に身を任せてはいられない。衛士団長とヨハンが寄ってきて、両サイドにどっかりと座り込んだ。


 「フィリップ君、大丈夫か?」

 「あぁ……はい……ぜんぜんだいじょぶれす……」


 流石にこのまま喋るのは失礼かな、と身体を起こすと、ヨハンに顔を覗き込まれた。

 特に顔にコンプレックスはないものの、まじまじと見つめられるとなんだか照れてしまう。が、照れている場合ではなかった。


 「少年、さっきの魔物を知ってると言ったな? あれについて教えてくれないか?」

 「団長、流石に急ぎ過ぎです。俺たちがビビるような奴ですよ? 中には森にいた、こーんな小さなクモにビビっちまう奴まで出た。いくらフィリップ君が事前にあれを知っていたとしても、落ち着く時間が必要です」


 ヨハンは小指を立てて蜘蛛の小ささを示しているが、本職の戦士の利き手で、鎧手甲まで付いている。まぁ不意に出てきたらビックリするよね、ぐらいのサイズ感だった。


 「大丈夫です、ヨハンさん。心配してくれてありがとうございます。……えっと、あれは──」


 つい「僕は知ってます」なんて口走ってしまったが、流石にちょっと焦り過ぎたかもしれない。

 人間では勝てないとか言ったが、フィリップが同じ空間に居て神威を感じなかった程度の弱い相手だ。もしかしたら人間でも勝てるかもしれないが……衛士のように心身を鍛えていても恐怖症を引き起こすようだ。「じゃあもうワントライしてみよう」と再突入されては堪ったものではない。


 しかし、衛士団長は多少なりとも剣を交わしてしまった。これでは大袈裟なことを言って遠ざけようとしても、すぐにバレてしまうだろう。さて、どう説明したものか。


 「……僕も詳しいことは分からないんですけど、ああいうモノがいるってマザーに教わったんです。人間では勝てないから、見かけたらすぐに逃げなさい、って」

 「む、そうなのか……。弱点などは聞いていないか?」

 「勝てない相手に弱点も何も無いでしょう? 巣に近付かなければ、積極的に襲ってくることは無いと思いますし──」


 フィリップは我知らず、言い淀む。


 ──襲ってくることは無いから、なんだ?

 魔剣を諦めて、何か別の方法を探すのか? 龍殺しに使えるのはあと二日、今日を抜けば明日一日しかない。それでどんな妙案が出るというのか。

 

 それ以前に……エルフの森の地下にアレがいることを知って、それを無視して立ち去るのか? 龍から撤退するのを手伝って貰って、宿を借りて、朝食を頂いて、剰え龍殺しの魔剣などという特級の宝物を譲ってくれると言った彼らを、危険に晒し続けるのか?


 アトラク=ナクアの娘は、自然発生するものではない。

 人間やその他の動物がアトラク=ナクアによって洗脳されて、変容したものだ。あの個体も、この辺りの森に住んでいる動物か──或いは、エルフが変異させられたものだろう。


 そして、あれは戦闘員ではなく作業員だ。多次元に亘る巨大な巣を、延々と作り続けている。その作業効率を高めたいときにどうするかなんて、人間でも神話生物でも変わらないだろう。即ち、人員の補充だ。


 あの個体は地下空洞から出られない。

 だが、アトラク=ナクアがテレパシーか何かでエルフに交信を試みて洗脳し、自らそちらへ向かうよう誘導することは可能だ。彼らは今この時も、その危険に晒されている。


 「……っ」


 ──どうでもいいとは、吐き捨てられない。

 だって、衛士たちならそうするはずだ。至上命令である龍殺しの達成に、一宿一飯と、命一回分の恩義を返すという個人的な義理まで果たせる最高の機会。それを前に、どんな理由で背を向けられる?


 「カーター少年。君は……善人だな」


 眩しいものを見たように目を細めた衛士団長が、いつもの豪快さが鳴りを潜めた優し気な口調で呟く。

 

 彼にも、ヨハンにも、フィリップの心が衛士たちとエルフの間で揺れている──どちらも守りたいが、どちらか守ればどちらかを危険に晒すという、トロッコ問題的なジレンマに陥っていることが分かった。

 それは誰かを守りたいという、優しい欲が無ければ起こり得ない葛藤だ。衛士たちも余程の新参でなければ、どこかで一度は経験したことのある苦痛だ。


 「分かるぞ、少年。俺も昔、魔物に襲われた村を助けに行って、そうなった。何処の誰とも知らない子供か、当時一兵卒だった俺の指導役の上官か、どちらかしか助けられない。そんな状況だった──」


 遠くを見るような目で虚空を見つめる衛士団長に、特別な意図は全く無かった。ただ過去の情景を脳裏に描いて追憶しているだけなのだが、演出としても十分に機能していて、フィリップとヨハンが顔を上げる。

 二人が意識を向けた直後だった。ぱん! と破裂音が鳴り、フィリップの両頬に乾いた痛みが走った。衛士団長がフィリップの頬を両手で挟むように張り、意識と視線を強制的に自分へ向けさせた音だ。


 「むぎゅ!?」と、間抜けな声が意図せず漏れた。


 「──だから、あの時の彼と同じことをしよう」

 

 衛士団長は柔らかに目を細めて笑うと、すぐに表情を引き締め、軍人としての規律と威厳に満ちた顔を作る。


 「君は今、俺の指揮下にある! だから俺の命令には、絶対に従わなくてはならない! 分かるな!」

 「は、はい!」


 至近距離の会話には不適切なほどの大声と張りに、フィリップは思わず背筋を正して返してしまう。

 威圧感に呑まれたとか、大声に怯えたわけではない。ただ、怒られの気配に反応してしまうのは癖のようなものだ。


 衛士団長は威勢のいい返事に、その意気や善しと口角を吊り上げる。


 「よし! ならば、持てる情報の全てをくれ!」

 「は……え? そ、それは──」


 勢い、「はい!」なんて答えそうになって、慌てて口を噤む。


 それは駄目だ。

 それはつまり、衛士団があの蜘蛛と戦うということ──一度見ただけで蜘蛛恐怖症を発症してしまうような悍ましき化け物に、もう一度対面させるということだ。衛士団長は一度目は無事だったが、二度目もそうとは限らない。今度こそ致命的な狂気を発現させる可能性もある。


 それは駄目だ。それは、フィリップの憧れる美しい人間性を曇らせる行為だ。延いては、フィリップ自身の人間性の喪失にも繋がる。

 彼らのようになりたいと憧れてこそ、フィリップは未だに人間で在れているのだから。

 

 言い淀んだフィリップの、動揺で揺れた青い瞳を、衛士団長の強い意志の籠った双眸が縫い留める。


 「そうだ! 俺が行く! 俺を見捨てろ!」

 「……っ」


 びりびりと肌が痺れるような、強靭な意思が迸る。

 フィリップはその決意を前に、勇気を前に、何も言えない。


 黙ってうつむいたフィリップをフォローするように、ヨハンが衛士団長の手をフィリップの頬から退かす。


 「団長、龍を殺すには団長がいないと──」

 「ヨハン、お前は妙に頭の回らん時があるな。分からんか? 、必要なのはこれだけだ。そうだろ?」


 その論理で「確かに」と頷くのは、衛士団長と、以前にその役職に就いていた者の、二人の脳筋たちだけだろう。或いは平常時のフィリップも、「殺せばいいのだろう?」と乗っかるかもしれないが。


 「カーター少年、君に決定権はない。君は命令に従わなくてはならないんだ。分かるな?」


 フィリップに罪悪感を与えまいとする意図がはっきりと分かる、言葉を選んでいることが丸わかりの不器用な優しさ。それが今のフィリップには、とても痛かった。


 「ぅ、あ……、っ!」

 「泣くな、少年。君に選択肢は無いんだ。君は何も選んでいない。君は何も悪くないんだ」


 涙は止まらない。嗚咽もだ。

 否定のしようもなく、他人の前で無様に泣いている。


 だがそれは、衛士団長を死なせてしまうことに対してではない。


 これほどの決意を見せる、これほどの善人を──欺くことの罪悪感で、泣いているのだ。




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