第275話

 衛士団長にとって、龍は憧れの存在だった。

 フィリップのように、英雄譚の名悪役としてではない。彼にとっての龍とは、強大な敵であり、超えるべき壁だ。


 師であり、自分より強いと認める先代衛士団長でさえ、撃退するのがやっとだった龍。その強さへの畏怖は、乗り越えたいという渇望を生み、自己研鑽へのモチベーションになった。

 退職したらどこかの龍を殺しに行こうと密かに計画しているほど、憧れは強い。それは兵士を辞めたら死にに行くということなのだから。


 「……っ」

 

 衛士団長は真っ暗な森を、鍛えた夜目を頼りに疾駆する。

 ちらりと横に一瞥を呉れると、一撃の威力に於いては自分にも並ぶと信頼する部下の姿が見えた。


 「行くぞ──龍を、堕とす!」


 速力を全開に。動きの流れに淀みを作らず、助走の勢いと体重の全てを、剣の物打ちへ収束させる。

 腕には最低限の力だけ。剣を握る手指にさえ、把握に必要な分だけを込める。剣を振り下ろすのは腕力ではなく、全身の骨と筋肉の連動によって。


 刃を立て、翼の付け根に狙いを合わせる。

 肩甲骨を回し、体の軸と体重の移動を以て剣を振り下ろした。


 ──直後。

 ぎち、と。未だかつてない、不可思議な手応えを覚える。


 「何ッ!?」

 「──!?」


 驚愕の声を漏らし、咄嗟に龍の翼を踏みつけて後ろ向きに跳躍する。視界の端で、全く同じ感触を得た衛士が、全く同じ判断をしているのが見えた。


 それはいい。

 問題は足元。衛士団長たちと同じように、驚愕に目を見開いている古龍だ。


 彼にしてみれば、自分を傷付けることはできないにしろ、掌大の虫が跳びかかってきたに等しい状況だ。怯えはしないだろうが、戸惑いは大きいだろう。──斯様に脆弱な生き物が、何故態々襲い掛かってきたのか、と。


 そして、龍は往々にして気性の荒い生き物だ。外敵に対して情けをかけることは滅多にないし──そもそも、眠りを妨げられた動物がどういう反応をするかなんて、龍に限ったことではない。


 「──!!!!」


 耳を劈く咆哮が上がる。

 木々を、大地を、大気を震わせる大音響に、フィリップと衛士たちは思わず耳を塞いで身体を固くする。


 単なる音ばかりではなく、巨大獣の咆哮は本能に強く働きかけて恐怖を煽る。身体が強張り、手足が震え、目が逃げ場を求めて焦点を彷徨わせる。


 しかし、本能に叫ばれるままに恐怖に浸る者は一人もいない。

 この場に居るのは一名を除き歴戦の兵士だ。本能を噛み砕き、恐怖心を飲み下し、身体を思いのままに制御する訓練を積んでいる。残り一名であるフィリップについては、もう語る必要はないだろう。


 「うわ、うるさ……。もしかして失敗?」

 「そのようだ。鱗をけなかったのか?」


 フィリップの独り言に、ヨハンが律儀に返してくれる。

 拾ってきた鱗は抜け落ちて古くなったもので、いま生えているものはそれより頑丈かもしれない。その可能性は、衛士たちも考えていた。だが、或いは──鱗だけでなく、翼膜や、目でさえも傷付けられない、物理的ではない防御かもしれない。


 「……もしかしたら、鱗以外にも通らないかもしれません」


 ぱちん、と小さな音を聞き、ジェイコブが振り返る。

 それはフィリップがウルミの留め具を外した、ボタンの鳴った音だった。


 「フィリップく──っ!?」

 「な──ッ!? 拍奪だと!?」


 制止しようと伸ばしたジェイコブの手がフィリップをすり抜け、ヨハンが驚愕の声を漏らす。

 今ここに居る衛士は、龍狩りに選出された精鋭たちだ。その中でさえ、使える者は五指で足りるような希少な技術。物理型のジェイコブとヨハンは、魔力照準法という完全な対策を取ることが出来ないうえ、鍛え上げ体に染み付かせた間合いの感覚が仇になる。

 

 ウルミを抜いて尾のように引きながら走り出したフィリップの動きは、衛士たちにとって完全に予想の外にあった。

 加えて、龍の咆哮によって意識を塗り潰され、戦意によって意識喪失に抵抗した直後とあっては、その意表を突いた動きを止められる者は──フィリップを傷付けないという条件下では、居なかった。


 極端な前傾姿勢では地形に関わらず走りづらいが、森の中は格別だった。転ばないように細心の注意を払いながらも、木立の間を駆け抜け、一気に龍へと肉薄する。


 錆色の龍は飛び掛かってきた虫たちが明確な敵意を持っていることを理解して、矮小な愚物に向けるに相応しい侮蔑の籠った目をしていた。


 「少年!? 何をやって──総員、カーター少年を援護しろ!」

 「違う! 撤退の準備をしてください!」


 走るのにも考えるのにも必要な、貴重な酸素を使って叫ぶ。


 龍は虫の群れの中でも一際小さな個体が鳴いているのに気を取られ、衛士団長を狙って振り下ろした腕が微妙に逸れた。

 それだけでも一息を無駄にした価値があるというものだが、龍に意識を向けられたのは不味かった。


 すん、と龍の鼻が動き、フィリップの臭いを嗅ぐ。

 動物にとっては耐え難い悪臭だが、吸血鬼にとっては身近でありながら強烈に惹かれる匂い。これは人間が太陽の温かさを好むようなものだろう。


 では、龍にとってはどうなのか。

 月と星々の匂い、夜の香りは、この時間帯であれば夜空の下に満ちている。


 龍の瞳孔がすっと細められ、虫の群れの中から明確にフィリップを捉える。黄金色の視線に射抜かれて、フィリップは即座に直感した。


 ──これは、不味い。


 龍の双眸には、好意的な感情が何一つ見受けられない。

 爬虫類の目から人間的な情動を感じ取れというのがそもそも無理難題だが、フィリップは感性が豊かな方だと自分では思っている。なんせ、触手の集合体が人型を編んだだけのハスターや、ナイ神父の星空の顔からもなんとなくの感情を読み取れるのだから。


 そのフィリップの直感によると、龍の瞳に込められた感情は、分かり易いまでの嫌悪だった。しかも厄介なことに、嫌悪感以上のものは見て取れない──つまり、嫌悪感に理由がないようだった。

 

 それは困る。とても困る。

 「臭いから嫌い。嫌いだから死ね」という単純で直情的な行動を、フィリップは責められない。というか、責めるつもりもない。フィリップだって、「カルトは嫌い。嫌いだから死ね」と感情論で人を殺す。


 だから、まぁ、龍の行動は仕方のないものだ。なのだが──それはつまり、説得の余地がないということで。


 「──!!!!」


 再びの咆哮と共に、臥せっていた龍が身体を起こす。

 四足歩行の巨大なトカゲに翼が生えた程度で星の覇者とは片腹痛い。そう嘲笑う外神の視座を、頬を叩いて黙らせる。


 地面を踏み締める四肢と剣のような爪は森の柔らかな土にめり込んでいて、下敷きになったらそこで終わりだろう。高価な素材故に多少の防刃性能を持つ魔術学院の制服だが、あの大剣じみた爪の一閃をも防いでくれるとは思えない。牙を剥き出しにする強靭な顎は、人間の骨など容易に噛み砕く。


 目の前に居るのは、全身凶器の怪物だ。

 教皇領で遭遇した下級ショゴスなんかとは比べ物にならない、打ち倒せば英雄と称えられるもの──英雄ならざる身では抗えないもの。


 「──ッ!!」


 鋭い呼気で力みを散らし、龍の視線を掻い潜るように動きながらウルミを振るう。

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と火花を飛ばしながら腕に返ってくるのは、やはり覚えのある感覚だった。


 鱗に当たって硬度負けしているわけではない。ウルミを削り衛士団長の一撃を止めたのは、鉄と錬金金属の合金よりも硬いドラゴンスケイルではなく、だ。


 彼我の存在の格に大きく差がある場合、下位は上位を傷付けられない。魔術は掻き消され、武器は滑り、衝撃は打ち消される。

 たとえばフィリップと座天使長ラジエル。たとえばフィリップとディアボリカの本体──ストックの無い状態の、純粋なディアボリカ。たとえば座天使長ラジエルと旧支配者ハスター。


 上位と下位、優等と劣等を分け隔てる絶対の隔絶。このルールがある限り、下剋上は起こり得ない。いや、ジャイアントキリングを許さないものこそが、本物の上位種なのだ。


 「ミナ──いや」


 古龍の存在格がどの程度なのか分からない以上、ミナを呼ぶのは迂闊だ。犠牲者が一人増えるだけかもしれない。

 かと言って、周りに何人もの衛士が居る状況で邪神を召喚するなんて選択肢は、フィリップは端から放棄している。


 「何をやってるんだ、死にたいのか!?」


 龍が前足を振り上げる。その落下地点からフィリップを担ぎ出した衛士団長が怒声を上げた。

 直後、鉤爪が大地を打ち据え、地響きと共に土煙を立てる。


 「団長、撤退しましょう! あれは人間ではどうにもならない!」

 「いや、それは違う!」

 「──っ、は!?」

 

 即答で否定され、頭の中が真っ白になる。

 違う? 違うってなんだ? 今の防御は存在格ガードではないということか? 確かに、フィリップの魔術感知力では防御系の魔術を使われても察知することはできないが、魔力障壁なら叩き慣れているし、存在格の隔絶に攻撃を防がれた経験も、そこいらの冒険者よりはずっと豊富なはずだ。今のは間違いなく、存在格の隔絶による攻撃無効化現象の手応えだ。


 困惑するフィリップに、衛士団長は反駁を叫ぶ。


 「龍を倒した人間は存在する! その前例がある以上、戦って勝てないのは人間だからではなく、武具の性能や、技の研鑽が足りていないだけだ!」

 「それは……え? いや、確かにそうか……」

 

 龍殺しは、一応、物語の中だけの空想というわけではない。

 大陸には点々と龍を殺した英雄の伝説が存在するし、龍殺しに使われたオーパーツや魔剣の類も有名なものがある。何より、吸血鬼の始祖は王龍を殺し、その呪いを受けて吸血鬼になったという話だ。


 龍の中で最上位の存在歴を持ち、最も格の高い王龍を殺せるのだ。存在歴の蓄積がその半分程度の古龍が倒せないわけがない。


 知識と思考の上では、そう納得できる。

 だが明確に、この目と手が、これまでの経験が、どうにもならないと語っている。


 「だが撤退の案には賛成だ! 確かに、この装備ではどうにもならん! ──総員、一時撤退!」

 「──っ! 団長、後ろ!」


 衛士の誰かが発した警告に、フィリップと団長は揃って振り返り──夜空を遮る、錆色の天蓋を見た。

 直後、脇腹に鈍い衝撃を受け、右半身に鈍痛が走る。フィリップを抱えて走っていた衛士団長が余分な重りを投げ捨てたのだと、すぐには理解できなかった。


 「うっ!? 団長──、は?」


 痛みに呻いたフィリップは、信じられないものを見る目で自分を投げた男を見つめる。

 言うまでもなく、衛士団長はフィリップを見捨てて自分だけ逃げたわけではない。フィリップが投げられたのは、龍の一撃──或いは、ただの一歩──の外だった。


 その一手の所為で逃げ遅れた衛士団長に、数十トンの体重を誇る龍の四肢、その一本が襲い掛かる。全体重ではないとはいえ、巨大な落石、家屋の倒壊にも匹敵する威力だろう。それを。


 「う、おォォァァ──ッ!!」


 雄叫びと共に振り抜かれた剣が、淡い残光を曳いて受け流した。


 衛士たちも引くとか、フィリップが呆然とするとか、そんな程度の話ではない。重機のアームを止めるような馬鹿げた力と技がある。


 単純な腕力だけでは不可能。かといって、身体操術だけでもどうにもならない。その二つを高度に併せ持ち、何より「できる」と信じて実行したことが凄まじい。


 しかし、龍は止まらない。手を置こうとしたら滑ったくらいで、攻撃の意思が萎えることは無い。今は、妙に悪臭を放つ虫けらを駆除する方が優先だった。


 「少年、今のうちに──何ッ!?」

 「僕狙い!? 勘弁──」

 

 龍はもう一度腕を振り上げ、勢いのままに振り下ろす。

 その宛先は自分がヘイトを買ったと思っていた衛士団長ではなく、慌てて立ち上がったフィリップだった。一応は目と脳で対象の位置を認識しているらしく、“拍奪”の相対位置認識欺瞞は効いているようだが、それ以上に狙いが大雑把だ。虫を払うような動作では、攻撃をしっかりと見ながら走り回るフィリップを捉え切れない。


 「……ほう、怯えが無いか。素晴らしい──あ、いや、そんな場合ではなかった!」


 顎に手を遣ってうんうんと頷く衛士団長だが、フィリップの歳不相応な胆力に感心している場合ではない。


 龍がフィリップを執拗に狙っている以上、撤退は極めて困難だ。何か、大きな隙を作る必要がある。たとえば──目くらましのような。


 『──助けが必要かな? じゃ、爺、よろしくね!』

 『……ご命令とあらば。では──《フリッカーフラッシュ》』


 衛士たちも龍も見下ろす、高い梢のすぐ下で言葉が交わされる。その言語は大陸共通語ではなく、たとえフィリップや衛士たちの耳に届いていたとしても、意味を理解できる者はいなかった。


 直後、行使された魔術によって、目を閉じていても目蓋の裏が白く染まるほどの眩い光が森を埋める。


 それは特に熱や破壊を伴ってはいなかったが、それでも高速で明滅する閃光は強烈な幻惑を齎す。人によっては失神さえ有り得るだろう、嫌な刺激だ。フィリップは特筆して目や脳が弱いわけではないのだが──タイミングが悪かった。


 「うわぁっ……!? 待っ──」


 フィリップらしからぬ、頼りなく弱々しい声が漏れる。


 目蓋を閉じていても強烈な光の明滅は、どこか一点を光源としたものではなく、空間そのものを光で埋め尽くしているらしい。

 下を向いても、全く光が衰えない。腕で顔を隠して、漸く少しだけマシになった──そう思ったのは、意識を失いかけているからだった。


 「少年!? どうした!?」

 「団長、彼の目を守ってください! 暗視の眼薬が!」

 「なに、そうか!」

 

 通常時よりも光の受容能力が高まっている今、目晦ましの魔術は普段を数倍して効果的だった。


 ゆっくりと身体が傾いでいく感覚はあったが、視界は相変わらず真っ白だ。瞼を閉じている感覚はあるのに、目を開けても変わらない白さで脳が混乱する。そして──意識が真っ黒に塗り潰された。






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