第276話
目が覚めると、翠玉色の瞳と目が合った。
むすっとした顔のシルヴァは、どうやらのんびりと眠っていたらしいフィリップにご立腹のようだ。枕代わりに膝を貸してくれているが、叩き落とされる前に起きた方が良いだろう。
「おはよう、シルヴァ。今──んっ?」
いま何時ぐらい? と、いつもは枕元に置いている懐中時計を探しつつ窓の外を見て、漸く気が付いた。
──知らない場所だ。
少し硬めのベッドに、木が剥き出しの床や壁。天井に吊るされた明かりは見たことがないタイプのランタンで、中に石が入っている。窓に硝子は嵌っておらず、フィリップの故郷と同じ木の雨戸が付いただけのものだ。雨戸は開いていて、朝日が部屋の中を照らしている。
少し遠くには二人用のダイニングテーブルがあり、その奥には扉が見える。足元にマットが敷いてあるから、玄関だろう。
「え? どこここ……?」
野営用のテントという感じではないが、ティーファバルト大森林の近くに集落は無かったはずだ。かといって、学院の寮ではない。フィリップの実家でも無ければ、タベールナの一室でもない。
ログハウスのようだし、狩人が使う山小屋だろうか。玄関扉の近くに父が持っていたのと同じ弓置きがあるが、弓も矢筒も置かれていない。家の主は出掛けているらしい。
もぞもぞとベッドから這い出ると、木を張っただけの床が、きい、と微かに軋んだ。一先ず現在位置を確認しようと窓の外を覗いて、強烈な違和感に襲われた。
窓のすぐそばに、太い木の幹がある。……そういうこともあるだろう。山小屋なのだとしたら、近くに木があったってなにも不思議はない。
見上げるとすぐ梢があって、その向こうには見渡す限りの青空がある。……まぁ、低木が一本だけ生えているのだとしたら、そういう景色になるだろう。
見下ろしても、地面が無い。……そういうことも、あるのか? 確かに鳥や龍、天使や吸血鬼は重力の軛から解放されているから、家が飛んでいてもおかしくはない……のか?
いや、この際だ。存在可能性の是非はさておいて、脱出方法を考えるべきだろう。
家が宙に浮いているとして、高さはちょうど森の梢ぐらい。飛び降りるのは危険でも、木の幹を伝って降りられるかもしれない。
「いや、待てよ? これが噂のツリーハウスという奴では?」
眠気を払って冷静に考えてみれば、家が浮いているのではなく、木の上部に引っ掛かっている可能性の方が高い。
ツリーハウス。実物を見たことは無いが、本で読んだとき「秘密基地っぽくてかっこいいじゃん」と思った記憶がある。
思い切って窓から身を乗り出してみると、何のことは無い。二十メートルくらい下には草本や苔で鮮やかに色づいた地面があるし、家は二本の太い枝の根元で支えられていた。
「えるふのしゅうらく。てぃーふぁばるとのひがしがわ。どらごんのはんたいがわ。ふぃりっぷ、おぼえてない?」
「覚え……てないなぁ。えっと、確か……そうだ、龍狩りの途中で、凄い光が……エルフ?」
記憶の走査が、冒険譚で馴染み深い、しかし実生活に於いては早々聞くことのない名前で中断される。
「そ、えるふ。ふぃりっぷがたおれたからって、ちりょうしてくれた」
「え? なんで? ……確かエルフって、凄く排他的な種族じゃなかった?」
「ん? んー……そんなかんじ。あのこたいがとくしゅなだけ、たぶん」
誰の事だろうと首を傾げたのも束の間、フィリップはとても重要なことに気が付いた。──尿意だ。そして、この部屋には玄関らしきもの以外に扉がない。
「シルヴァ、トイレがどこか知らない?」
「わかんない」
「う、それは困った……」
とりあえず玄関を開けてみると、想像以上に開放的な光景が広がっていた。
並び聳える木々の半分ほどに、梢のすぐ下の辺りにツリーハウスが立てられている。ツリーハウス同士は丸太を組んだ回廊で繋がり、木漏れ日を浴びた朝露で輝いていた。吹き抜けていく涼し気な森の風は、少しだけ葉っぱの匂いがする。
そよ風は肌に涼しく、木漏れ日は温かい。眼下の下草や苔も朝露で煌めいていて、ただ見慣れないばかりではなく、率直に美しい。
心なしか、木漏れ日も緑に色づいて見えた。
「す、すっごーい! なにこれ! え、すごいすごい! すごいねシルヴァ!」
「ん? べつにふつう」
シルヴァの気の無い返事は、興奮しきったフィリップには聞こえていなかった。
何ならシルヴァのいた裏層樹界の方が、地面が色とりどりの花畑だっただけに幻想的で美しかった。まぁシルヴァも美しいから素晴らしいという評価はしないし、フィリップも「なんかアスレチックみたいで楽しそう。後で走り回ろう」とか考えているのだが。
いやむしろ今走ろう。そんな衝動に呑み込まれる前に、足元からどこか嬉しそうな声がした。
「おーい、フィリップくーん! もう大丈夫なのかー!」
「ヨハンさん、おはようございます! もう大丈夫ですー!」
丸太の回廊に手を突いて地面を覗き込みながら、二十メートルの眼下に向かって大きく叫ぶ。腹に力を入れたからか、尿意がちょっと増した。
「……トイレ何処ですかー!」
「あっちの木蔭だー! その木の裏に梯子があるー!」
「ありがとうございまーす!」
用を足して戻ってくると、ヨハンは衛士団長と、見たことのない二人のエルフと一緒だった。見たことのあるエルフなんて居ないので、エルフである時点で確実に初対面……のはずが、長身の美青年と痩身の老人の二人組は、フィリップを見るや嬉しそうに笑って話しかけてきた。
ただ──残念ながら、大陸共通語ではない全く別の言葉だったので、何を言っているのか全く分からなかった。
「あー……えっと?」
にこにこと笑う、長い金髪をポニーテールに括ったエルフ。シルエット自体は二腕二足のヒトガタだが、細長い耳が特徴的で、何より
外見年齢はルキアやステラと同じくらいだが、エルフは長命で有名な種族だ。外見通りの年齢ではないだろう。その寿命は1000とも2000とも言われているが、如何せん人間との交流がゼロに近く、詳しいことが全く分かっていない。
どちら様ですか? と明記された顔で愛想笑いを浮かべるフィリップに、ヨハンが紹介をくれる。
「こちらが我々をお招き下さった、エレナ様だ。こちらのご老人は御付きのリックさん。……彼女はエルフのお姫様らしいから、粗相のないようにね」
「へぇ、お姫様」
言われてみれば女性に見える……というのは、流石に失礼な感想か。
いやしかし、人外の美貌はどうにも人間の目と脳では完璧に理解しきれないのだ。なんというか、美しいことは分かるが、そこに性的魅力を感じない。「美人」ではなく「綺麗」という評価がしっくりくる。尤も、それはフィリップだけかもしれないが。
「フィリップ・カーターです……って、通じないのか。えっと、皆さんはどうやって意思疎通を?」
「私は人語を話せます。貴方」
「あ、そうなんですね。えっと……リックさん」
彼の言葉には多少の違和感があるが、ちょっと聞いただけのエルフ語と大陸共通語では全く違うようだし仕方ない。
発音から文法まで、理屈も論理整合性も、何から何まで違う全くの別言語である邪悪言語を知る身だ。異言語話者に対する驚きは無かった。
「私達の魔術が貴方を攻撃してしまった。ごめんなさい」
リック翁は言葉を切り、エレナに対してエルフ語で何事か話す。恐らく、自分の会話を要約したのだろう。
エレナは呆れと揶揄いの混ざった悪戯っぽい笑みを浮かべて、フィリップと視線を合わせるように腰を折る。彼女はその笑顔が似合う楽しそうな口調で何事か話しかけてくれたが、残念ながら何を言っているのかさっぱりだ。
フィリップが困ったように曖昧な笑顔を浮かべて佇んでいると、服の裾がちょいちょいと引かれる。
「……ほかのえるふはみんなをいれるのにはんたいした。でもえれなとりっくがむりやりつれてきた。……って」
「……シルヴァ、エルフ語が分かるの?」
「もりでつかわれることばなら。むしのこえも、けもののこえも。……このほしのものじゃないことばも」
この星のものではない言語──人外の種族、地球圏外の生命が邪神と交信するために作り出した、邪悪言語のことだろう。神話生物には人間の発生と繁栄以前からこの星に棲んでいるものもいるし、そういったものが森の中で生活していたのなら、その言葉を森が聞き覚えることもあるかもしれない。
まぁ、森の中にいる場合に限って知性が跳ね上がるこの幼女は、森という概念の化身だ。その事実を前に、「そんなことあるか?」なんて考える方が無駄。そういうものと受け入れるのが賢い行いだ。
「……すごいね」
シルヴァに正気と狂気が無くて良かったと心の底から安堵しつつ、なんとかそう絞り出す。
リック翁はにこにこしながら、うんうんと頷いていた。
「その子はドライアドですか? エルフの住む森のドライアドは、私達の言葉を話せます」
「このもりのどらいあどは……んーん、なんでもない」
この森のドライアドは、既に全滅している。
森に一歩踏み入っただけでその森の全情報を把握できるシルヴァには、この森に住む一つの種が消えたことが、手に取るように分かっていた。今頃は裏層樹界とこの表層を繋ぐ水鏡も濁り、沼のようになっていることだろう。
ただ、まぁ、だからどうしたという話だ。
ヴィカリウス・シルヴァとドライアドは全くの別種だし、特に思い入れも無い相手だ。狂死か、発狂して仲間内で殺し合ったか、はたまた液状化したのかは知らないが、シルヴァにとってもフィリップにとってもどうでもいいことだ。特に教える必要もないだろう。
「それで……えっと、どうして僕たちを連れて来たんですか? 反対っていうのは……エルフは人間を嫌うって話は聞いたことありますけど」
「きらってはいない。ひととさるがちがうように、えるふとひともちがうだけ」
フィリップの問いに答えたエレナの言葉を、シルヴァが訳してくれる。
エレナに対してはリックが訳し、フィリップ達に対してはシルヴァが訳すという構図が出来ていた。
「りゅうはきけん、とてもつよい。ちかづいていくばかがいたからみにいった。やっぱりまけそうだったからたすけた」
「そうなんですね。ご親切にありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるフィリップに、二人のエルフはまたにっこりと笑う。短く何事か言ったのは、「気にしないで」とかだろう。
会話がひと段落したのを見計らって、衛士団長がフィリップの首に腕を回して肩を組んだ。
「それだけではないぞ、少年。ここにはなんと、龍殺しの魔剣があるらしい!」
「魔剣! ホントですか!?」
「しかも、場合によっては譲ってくれるそうだ! 希望が見えて来たな!」
ミナの魔剣のような変則的な性能の魔剣を渡されても困るところだが、龍殺しの逸話があるなら、少なくとも存在格ガードを貫通するのは間違いないだろう。光明が見えた。その魔剣があれば、今度こそ龍を倒せるかもしれない。
勿論、成龍を殺したから「龍殺し」と謂われているだけで、古龍相手には通じない可能性もあるが……その場合はフィリップの単騎駆けが始まる。
しかしそれ以前に、聞き流せない言葉が混じっていた。
「ですね! ……場合によっては?」
妙な条件を付けられるくらいなら、エルフを皆殺しにして魔剣を奪うというのも一つの手になるのだが。
龍の討伐がワントライで終わるなんて甘い予想はしていないし、旅程上はまだあと二日の猶予がある。その範囲で済む条件だといいなぁ、なんて、フィリップがその双眸に悪意無き殺意を宿す前に、衛士団長が重々しく頷いた。
「うむ……。どうやら魔剣はいま、封印状態にあるらしい。それを手にすることが出来れば、という条件だ」
封印。なるほど、それはなんとも「らしい」話だ。
エルフ側が何かしらの交渉のつもりで提示した条件ではなく、魔剣入手に係る物理的な制約なら、駄々をこねたってどうにもならない。
しかし……そうなると、今度は太っ腹すぎるような気もする。
龍殺しの魔剣なんて、大陸全土にあるもの全てが両手の指で数えられるような希少極まる品だ。恐らくは
それほどに、封印とやらが強固なのだろう。
選ばれた者しか抜けない台座に嵌っているとか、自らに打ち克つ試練が課せられるとか、それこそ龍が守っているとか。
「なるほど。もう見ましたか? 試しましたか? 見に行きましょう! すぐ行きましょう!」
それはとても──心躍る。
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