第270話

 食事を終えたミナは、フィリップを膝上に抱いて首筋に顔を埋めたままだった。

 静かな吐息と、普段より少しだけ温かいが病的に低い体温、背中で押し潰れた柔らかな双丘の感触がくすぐったい。吸血による酩酊感もあって、まだ朝だというのに微睡に落ちてしまいそうだ。


 フィリップは固く目を瞑って頭を振り、なんとか眠気を遠ざける。


 「……それで、ミナ、本題なんだけど」

 「……なあに、フィル? 剣の訓練? それとも一緒に本を読む?」


 囁くような二つの誘いは、フィリップが暇なときにせがんだことだ。

 どちらも魅力的だと揺らぎそうになる意識に我が事ながら苦笑して、頭を振って否定する。


 吸血後の酩酊感には、まだまだ慣れそうにない。

 ルキアやステラは吸血行為だけでなく、この状態のフィリップにもあまり近付きたがらない。へろへろの状態が無様で見るに堪えないのか、或いは記憶がないだけで粗相をしたことがあるのかは定かではないが、ちょっと寂しいので早めに慣れたいところだ。


 さておき、今は本題だ。 

 フィリップは落ち着こうと深呼吸して──ミナの匂いで鼻腔を満たされて、思わず意識が吹っ飛びかけた。結局、いつものようにぺちぺちと自分の頬を叩いて、真面目な意識を呼び戻す。


 咳払いを挟んで真面目な空気を作り、しかつめらしく本題を口にする。


 「龍を殺したいんだけど、手伝ってくれない?」

 「……龍を? 何故?」

 

 流石のミナも、いや、龍の強さをその身で知っているミナは絶対に聞き流せず、抱き締める腕の力を強めて故を問う。

 

 フィリップはかくかくしかじかと、昨日王城で行われた話し合いの内容と、大前提となる呪詛への対策、魔力浄化装置の根幹を成すものが古龍の心臓と血であることを説明した。


 「え……? あ、いえ、何でもないわ」


 解呪法はともかく、まさか呪詛が原因だということも分からなかったのかと、ミナはフィリップに見えない位置で顔を顰める。

 とはいえ今更そんなことを言っても意味がないし、ミナが呆れているのはフィリップに対してではなく──フィリップの魔術適性が皆無なのは見ただけで分かるから──ルキアやステラ、国の中枢だという魔術師たちに対してだ。


 所詮は人類と納得することも出来るが、如何せん、王都の暮らしは荒野の古城より幾らか快適だ。

 これほどの文明を築き上げた魔術師たちに、戦闘魔術特化のミナは敬意さえ抱いている。だが……感染性呪詛という、呪詛が持つステルス性を捨てた代物に気付けないとなると、評価を下方修正せざるを得ない。


 「古龍……。まぁ、600歳くらいの個体なら、何とかなるかもしれないわね」


 ミナの声から少しだけ落胆を感じたのが気になったフィリップだが、それ以上に訊いておくべきことがあった。


 「古龍って、結構強いの? ドラゴンの区分については概ね分かってるんだけど……」


 龍は100歳以下の仔龍、500歳以下の成龍、1000歳以下の古龍、それ以上の王龍に区別される。

 龍という種が老化せず、成長しかしないということは、年を経るごとに強くなっていくのだろうが……先代衛士団長は単独で成龍を撃退したらしい。


 と、なると、成龍までは人間がどうこうできる次元のようだ。

 まぁフィリップ個人は戦闘能力で言えば人間の中では真ん中辺りかちょっと下くらいなので、上澄みであろう衛士団長とでは、あまり意味の無い比較だが。そもそも相手が空を飛んでいるだけで勝ち目が無くなる。


 そんな安穏としたことを考えているフィリップを諫めるように、ミナは一瞬の思考も挟まず即答する。

 

 「強いわね。フィル、自分より大きくて、出力が高くて、硬い相手と戦ったことはある?」 

 「出力……筋力とか魔力とか速度とか、そういうの全部ってことだよね? ディアボリカとミナを抜いて……あ、座天使長ラジエル! 戦ったのはほんの数分で、本人は「武器が悪い」みたいなことを言ってくれたけど、手も足も出なかったよ」

 

 フィリップは自嘲の笑みを浮かべながら、何でもないことのように語る。


 しかし座天使といえば、九つある天使の階級の中でも上から三番目だ。

 その長と戦ったとなれば、並の人間なら人生最大の武勇伝になるだろう。勝てなくても、子供のごっこ遊びのようにいなされたとしても。


 とはいえ、ここに居るのは外神の価値観を持ち、死が遥か遠くにあるフィリップと、かつて熾天使を斬り伏せたミナだけだ。返って来た反応は「ふぅん」という微妙に興味無さげなものだった。


 「……座天使なら、ちょうどいいわね。戦闘技術を無視して出力だけで語るなら、古龍もそのくらいよ」


 歳によって誤差はあるけれど、と補足するミナだが、本当に“誤差”だろう。

 なんせ座天使相手でも、フィリップに勝ち目はないのだから。それより多少弱かろうが、それより強かろうが、差異の多寡に大きな意味は無い。


 ……というか、座天使と同等の出力ということは、最上級攻撃魔術をポンポン連射してくるかもしれないということか?

 普段なら「だから何?」程度の攻撃だし、邪神にとっては小雨にも満たない抵抗だが、フィリップ相手では十分な壁になる。死ぬことは無いとしても、血を奪い心臓を抉るには邪魔だろう。


 「とはいえ、変化しないものである天使とは違って、龍は成長するものだし……何より、龍は天使よりも大きくて、硬いのよ。それに、神聖でもなければ邪悪でもないの。だから業腹だけど、私の魔剣も龍に対してはただの刃物ね」

 「あー……そういえば、そもそも鱗があるから剣が通らないのか」


 龍の鱗は、この世のどんな金属よりも硬いという。


 ウルミでは解体できないから何処かで剣を買わなくちゃ。なんて思っていたが、それどころではない。

 存在格ガード──と、フィリップが勝手に呼んでいる、彼我の存在格差による干渉無効化現象──を持っているかどうかは定かではないが、それもあるなら防御は二重だ。ウルミ一本と『深淵の息』だけではどうしようもない。


 ちなみに『萎縮』はまだ部位指定照準を修得していないので、心臓を壊す可能性があるから使えない。そもそも効かないとは思うが、念の為だ。


 「やっぱり僕一人だけじゃ厳しそうだし、手伝ってくれない?」


 厳しいというか、ほぼ不可能だ。

 死ぬことは無いと分かっていても、攻撃手段がないのではどうしようもない。


 ヨグ=ソトースの守りが「相手の首を刎ねて心臓を抉り出す」ような都合の良い攻性防御であると、無邪気に信じることはできない。いや、むしろ相手を跡形もなく吹き飛ばすとか、何なら世界が丸ごと吹っ飛んでフィリップは外神として新生するとか、加減を知らない可能性の方が高そうだ。


 となると、フィリップは死なないが、致死級攻撃を受けてはいけないということになる。目的は龍殺しではなく、あくまでその素材回収なのだから。


 フィリップには無理だ。

 誰か、少なくともフィリップ以上には強力な、欲を言うならミナくらいに強い助っ人が要る。


 ルキアとステラは論外だ。

 今はまだ一日に3~6時間ほど起きていられるが、いつ昏睡状態に陥るかも分からない二人を連れて行って、守り切れる自信は無い。


 衛士団も駄目だ。

 彼らを死なせないために、フィリップは今こうして知恵を絞っているのだから。


 冒険者に依頼を出すというのは、流石にちょっと現実的ではない。

 フィリップとて龍殺しが英雄譚に描かれるほどの難行であることは知っているし、依頼を出したところで「じゃあ俺が」と達成されることはないだろうと予想もつく。


 あと思い当たるのは、聖国の騎士王レイアール・バルドル。或いは魂喰らいの邪神マイノグーラ。

 彼女なら龍殺しくらい容易いだろうが、あれもナイ神父同様、フィリップの命令に唯々諾々と従うタイプではない。マザーが居てくれればと思う心はあるが、フィリップの前に姿を見せない時点で、彼女もナイ神父らと同じ考えなのだろう。


 「そうね……駄目」

 「……それは、どうして?」


 やはり龍と戦うのはミナでも怖いのだろうか。

 だとしたら無理強いは出来ないが、移動だけでもお願いできないだろうか。そんな甘いことを考えるフィリップだが、ミナの考えていることはそれ以上に甘かった。


 ミナは肩を竦めると、サイドテーブルに置かれた本を取り、フィリップの膝上であるページを開いた。

 彼女が先程まで読んでいた本のタイトルは、『ペットのしつけ』。彼女が開いた頁には『おねだりに応えすぎるのは良くありません。我慢を覚えさせるのも飼い主の務めです』と書いてあった。


 「……な、なるほど?」


 ──つまり、ミナの拒否に大きな意味は無い。


 「……危なくなったら、私をもいいけれど、まずは自分でやってみて?」 

 「はーい……。……あ、ミナ、本を読むならお勧めが山ほどあるよ!」


 フィリップはぴょんとミナの膝から降り、手を引いて本棚の間を歩き始めた。あれとかこれとか、と、次々と冒険譚や児童書をミナの手に乗せていく様子からは、怒りや落胆は全く感じ取れなかった。むしろミナに好きな本を勧めることを楽しんでさえいるようだ。


 本で読んだからやってみる。ミナの拒絶はそれだけの理由だし、それ以上の何もない。


 そして、フィリップにもまた、それを厭う理由は無い。

 フィリップだって、自分の感情で動いている。「ルキアとステラを助けたい」という理由は、字面だけ見ると利他的で献身的な、聖人のような動機に思えるが──フィリップは自分が二人を助ける理由は、フィリップ自身の人間性のためであると自覚している。


 ミナが好奇心を理由に協力を拒否したからと言って、それを殊更に不道徳だとか、非情だとか詰ることは無かった。


 そもそも、フィリップは自分が死なないという確証を持った上で龍殺しに挑もうとしている。ルキアとステラは、もっと大勢の罹患者たちは、いつ昏睡して目覚めなくなり、いつ衰弱死するかも分からないというのに。


 覚悟も無ければ、恐怖も無い。

 ただ自分の感情に従って動き、その結果として誰かを生かし、殺すことがあったとしても、他人の命には興味を持たない。


 フィリップとミナは、結局のところそういう類の破綻者で、同類だった。












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