第269話
翌朝。
宿屋タベールナで一夜を明かしたフィリップは、学院に戻ると真っ先に図書館へ向かった。
何か調べ物があるというわけではない。彼女がそこに居ると、分かっていたからだ。
「おはよう、ミナ。ちょっと話があるんだけど、いい?」
「おはよう、フィル。勿論構わないわよ、おいで」
読書用のソファに掛けて何かの本を読んでいたミナは、本をサイドテーブルに置いてぽんぽんと自分の膝を示す。フィリップはちょっとだけ悩んでから従った。
膝上に座ったフィリップを抱き締めたミナは、片手で器用にフィリップのシャツを開けさせると、露出した首筋に顔を埋めた。繰り返される深呼吸がくすぐったくてびくりと震えた身体を、人外の膂力と卓越した身体操作技術で痛みも無く押さえつける。
「……いい?」
「ん? うん、いいよ」
「ありがとう、フィル」
蕩けるような熱を帯びた吐息が首筋に触れ、直後に一瞬の鋭い痛みが走る。その後は、傷口から侵入して神経を犯し、脳を侵す酩酊感と多幸感が感覚の全てを支配した。
二日に一回。こく、こく、と、透けるように白い喉が二回動くだけの、僅かな時間の食事。
ミナが空腹を感じないような頻度で、フィリップの健康に影響がない量の血を与える。これはミナの飢餓状態への配慮や食事を摂るという当然の権利の確保ばかりではなく、フィリップが衛士団との間に交わした契約によるものでもあった。
◇
フィリップが暗黒領から王都に戻って来たのは、拉致されてから一月近く経過した日の夜だった。
王都の城壁に掲げられた炬火を頼りに、最後の数キロを夜闇の中で走り切ってしまおう。そうしたらもう、二等地の宿でも取って寝ればいい。それくらい、ミナを抜いた全員が疲弊していた。
その時はまだ分からなかったことだが、ルキアとステラは旅疲れだけでなく“眠り病”の初期症状もあった。
疲労感、倦怠感、重い眠気。そういうものを振り切るように馬を歩かせていると、興味本位で御者をやっていたミナが馬車を止めた。輓馬の扱いに不慣れなミナの制動はお世辞にも静かとは言えず、馬車の中で眠っていたフィリップは盛大に転がって御者席に衝突した。
「うっ!? な、なんですか、事故ですか!?」
寝惚け眼で馬車を出ると、一行は王都へ続く街道のど真ん中で停まっている。
月は出ていなかったが、星と、遠くに輝く王都の明かりでぼんやりと照らされた平原には、フィリップたちの他には誰もいない。まぁ、既に日没から2時間以上経っているので、まともな旅人なら野営の準備を終えている頃合いなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
「包囲されかかっている……いま、完全に包囲されたわ。こういうときは殺してもいいのよね?」
「ど、どこの、どれ、誰……?」
正面遠くに王都、左右遠くには小さな森、後ろはずっと平原を抜ける街道で、その先は小高い丘になっている。どこにも人影なんて見当たらないし、隠れる場所だってありはしない。
だから──隠れてなんて、いない。
「魔力を視るか、人間以上に夜目が効くかでないと見破れないほどの隠形。夜限定でしょうけれど、それは私には無い技術ね……研鑽に敬意を」
乾いた小気味の良い音が夜闇を裂く。
たった数回の拍手は、しかし、化け物が人間に向けるには十分なものだった。
フィリップも懸命に目を凝らすと、黒塗りの鎧を着た人影が見つかった。何のことは無い、ちょうどミナの背中で見えない位置に居ただけだ。……尤も、フィリップに見えたのはその一人だけで、ミナの言う『包囲』は全く分からないのだが。
「衛士団長か。出迎えご苦労」
「お帰りなさいませ、王女殿下。サークリス聖下も。攫われた少年も無事のようで何よりです」
馬を降りることなく声をかけるステラに、全身鎧を着た騎士が無骨な立礼を返す。ナイ神父やフレデリカのような洗練された所作ではなく、どちらかといえば不器用そうな動きだ。
彼は頭を上げると、腰に佩いていた直剣を鞘から抜き放った。
剣は金属光沢ではない怪しい輝きを纏っており、明らかに通常の武器ではないことが窺えた。
「……では、
「……馬車から出ないで、フィル。アレ、50年前の私と同じくらいには強いわ。包囲している兵士も、アレの5割か6割くらいには精強ね」
それに、少々不味い武器を持っている。ミナは内心で感心したように笑っていた。
素材段階で一度、加工直後に一度、実戦投入されてから二度くらいだろうか。多重に聖別儀式をかけられた錬金金属製の武器に、更に多重の付与魔術が掛けられている。あれではまるで、人造の魔剣だ。それも対アンデッドに特化している。
あれで腕でも落とされたら、失う
そこいらのAクラス冒険者なんかの比ではない。かつて対峙した熾天使ほどではないが、その配下くらいには苦戦しそうな相手だ。
万全を期すなら、『契約の魔眼』で直接攻撃を縛り、魔術戦で一方的に殺してしまうのがいいだろう。
──だが、まぁ、そこまでするほどの相手ではない。
ミナは右手に黒い長剣を、左手に白銀の断頭剣を何処からともなく取り出すと、御者席を華麗に飛び降りた。
血だまりを歩くためのハイヒールでふらつきもせず着地し、愉快と不快がちょうど半々で混ざったような笑顔を浮かべる。
「そちらは三十人と一人。全員同時で、私が魔術を縛って、魔眼を縛って……そうね、ここから一歩も動かないという条件なら、眠気覚ましにはなりそうね」
「上等だ。聖下と一緒なら易々と王都に入れるとでも、愚かにも思ったのだろうが……残念だったな。人質を奪還すれば聖下も自由に戦える。お前の負けは、すぐ側にあるぞ!」
人質と聞いて、フィリップは漸く状況を理解した。
状況を知らない衛士団には、ミナが人質を使ってルキアとステラを脅し、今度は二人を利用して王都に入ろうとしているように見えるのだろう。
「ミナこそ、馬車に戻ってください」
フィリップは慌ててミナの後を追うと、その脇をすり抜けて二人の間を遮る。
衛士団長はフィリップの顔を覚えていたのか、かちゃりと鎧を鳴らして驚いていた。
「……む? カーター少年か? ……また、君か」
「えぇ、まぁ。一先ず、二人とも落ち着いてください。衛士団長、彼女は王都を攻めに来たわけじゃありません。剣を降ろして……そう、どうも。ミナも、魔剣を仕舞って。衛士団は僕にとって、ルキアや殿下と同じくらい大切だ。もし自衛以上のことをしたり、彼らを“喰う”ようなことがあれば……僕は、自分がどういう反応をするのか、僕自身でさえ分からない。ミナを殺したくないし、嫌いになりたくもないんだ。だから……うん、そう、それでいい、ありがとう」
説得の甲斐あってか、二人は戦闘態勢を解く。
しかしフィリップには見えないものの衛士団長の目には色濃い警戒の光が宿り、ミナは彼の立ち方や手足の置き方からそれを見抜いて薄ら笑いを浮かべている。未だ一触即発の空気は晴れていない。
フィリップはそれを衛士団長が剣を鞘に納めず、ミナが魔剣を霧にして消さないことから感じ取っていた。
「……君の言葉は信じたいが、根拠が薄い。人質に取られて、無理矢理言わされているという感じではないが……吸血鬼に町が乗っ取られたり、滅ぼされたりした話は幾つもある。君が魅了されて──」
「それは無い」
「それは無いわ」
「……そうですか。お二人がそう仰るのであれば、魅了の魔術は使われていないのでありましょうな」
二人同時に食い気味に否定するルキアとステラに面食らって気圧されつつ、衛士団長は続ける。
「あとは彼がソドミストであるとか、或いはカルト──いや、それは無いか。失礼、王都を守るためあらゆる可能性を考えろと、方々から言われているのですが……私はどうにも無学非才でして。考えついた可能性も、よく考えると破綻していたりするのです」
衛士団長は笑いながらヘルムを叩く。
こんこん、と小気味の良い音が鳴って、フィリップは思わずくすりと笑ってしまった。その小さな笑みで安堵の息を溢した三人に、彼は全く気付いていない。
「うーむ……カーター少年。君の言葉は信じたいし、聖下のお言葉も信じるべきなのでしょうが……それは紛れもなく吸血鬼であり、それも見たところ相当に高位で、相当に喰っている。化け物であること、人を食うことに疑う余地はなく、それ自身もまた、その在り方に疑いを持っていない。人間とは絶対に相容れないモノです」
ルキアとステラ、ミナとフィリップが顔を見合わせ、「そりゃそうだ」と肩を竦めた。
フィリップも含めて、誰もミナが「化け物ではない」なんて主張する気はない。
上位者は劣等種とは交われないし、交わる気が無いものをこそ化け物というのだ。化け物は化け物でしか在れないし、その在り方を否定することも無い。
その上で。
「衛士団長。貴方の懸念は、ミナ──彼女が王都を支配しないか、人間を喰わないか、という二つですよね。一つ目については……彼女の気質を知る僕からすると杞憂なんですけど、一応対策のようなものはありますよ」
自分の感情を、自分のやりたいことを最優先にする。
勿論、フィリップは衛士団が好きだ。だから彼らがどうしても、それこそ命を懸けてミナを排除するというのであれば、彼らを殺して我を通すような真似はしない。
だが説得は試みる。
衛士団の任務は、優先度がその身命や人間性には一段劣る。
「二つ目は、僕が血液を提供するってことになってて──」
「……カーター、下がれ。私が話す」
このままフィリップに話を続けさせていても埒が明かないと思ったのだろう、ステラが馬を操って衛士団長の下へ進む。
二人は二言、三言だけ交わすと、衛士団長が一歩、道の端へ避けた。
「一先ず、中へ。詳しい話は詰所でしようか、少年」
と、まあ多少の邪魔はありつつも、無事に王都へ辿り着いた。ちなみに最後まで、包囲しているという三十人の衛士たちは見つけられなかった。
しかし詰所へ入った後も、すぐには警戒を解かれなかった。
ルキアとステラがいたからだろう、通されたのはいつぞやと同じ応接室だったが、部屋の外には武装し抜剣した衛士たちが待機しており、唯一代表として応接室に入った衛士団長も、決して剣を手放しはしなかった。
とはいえ、交渉に当たったのはルキアとステラ、そして以前は吸血鬼陣営の統括者だったミナだ。三人の弁舌によって衛士団長を説き伏せ、幾つかの条件付きでミナの王都滞在が許可された。
まず一つ目。
大前提として、王都の人間を殺さないこと。ただし、自衛する場合と、フィリップを守る場合を除いて。フィリップが前者の例外指定を、ミナが後者を要求したことで、衛士団長はある程度は緊張を解いてくれた。
二つ目は、フィリップがミナの吸血衝動を制御すること。
初めは「人の血を吸わせないこと」と言われたのだが、何かの冗談だと思って笑い飛ばしてしまった。それでは二週間程度で王都が滅ぶか、ミナと聖痕者たちが殺し合った余波で崩壊する。それはフィリップが血を提供すれば避けられる悲劇だ。
そして最後に、三つ目の条件。
ミナに怪しい動きがあった場合、すぐに衛士団に知らせること。フィリップが魅了されていなくても、単純に欺かれているだけかもしれないし、ミナが心変わりするかもしれない。そういう時に自分一人で対処しようとせず、戦える者を、悪意を見破ることに長けた者を頼ることだ。
この三つの条件を呑むことと、ミナがルキアとステラの手を借りて組み上げた例の魔術の存在を以て、衛士団はミナが王都で暮らすことを許容した。
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