第261話

 荒野の片隅、森との境界線にほど近い場所に、激しい剣戟の音が鳴り響く。

 大柄な二人の鎧騎士が切り結ぶ情景を思わせる音響だが、実際の光景は、女が一人素振りをしているだけだ。尤も、その動きは人間の動体視力を軽く振り切る速度なのだが。


 無造作に剣を振るうミナと相対する、双剣を交差して防御姿勢を取るマルバス。彼我の距離は依然として10メートル近く開いたままで、二人が踏み込んで突かなければ剣同士が触れ合うことも無い間合いだ。


 それなのに、剣戟の音が高らかに響く。

 剣を振るミナが、マルバスの遠距離攻撃を撃ち落としている……というわけではない。防御しているのは、見ての通りマルバスの方だ。


 「ぐぅ……ッ!」


 マルバスが苦し気に呻く。

 交差した剣を持つ腕が痺れるような衝撃が、ミナの素振りに一瞬遅れで襲ってくる。


 ミナの「今は魔術が使えない」という言葉を信じるなら、これは付与魔術すら介在しない純粋な技術ということになる。或いは魔剣に備わった能力かもしれないが、魔剣が起動している様子は無い。

 

 剣が速すぎて衝撃波が飛んでいるという手応えでもない。

 空気の壁がぶつかってくるような鈍い衝撃ではなく、一本の線のような──まさしく“斬撃”が飛んでくるような、そんな感覚だ。


 「先の一撃の正体はこれか! 飛ぶ斬撃……! 何と言う技だ?」


 興奮も露わに尋ねるマルバスに、ミナは不思議そうに首を傾げる。

 キャッチボールでもするような調子で動かしたままの腕に遅れて、相も変わらず衝撃が続く。


 「技なんて使っていないわ。斬撃を飛ばすなんて、基本的な技術でしょうに」


 誇るでもなく、嘲るでもなく、面倒そうに淡々と答えるミナ。

 倦怠感すら感じる表情に、マルバスは獰猛な笑みを浮かべる。


 斬撃が飛ぶ。

 魔術も無しに、そんなことは有り得ない。


 だが──


 「足に力を籠めれば立ち上がれるけれど、力の籠め方を変えれば跳べるし、走れるでしょう。それと同じで、ただ振るんじゃなくて、飛ばすように振ればいいだけよ」


 これは技ならぬ、単なる技術だと謂う。


 何とも素晴らしい。

 吸血鬼の腕力、速度、そして何よりミナの研鑽あっての技巧だろう。並の剣士なら絶対に修得できないか、秘奥義に属するような技。


 それがあくまで、跳ぶ、走る、投げる、振る。そんな、ただの身体操作の枠にある。


 「ただの一閃、ただ腕を揮うだけで秘奥に至るか! 凄まじいな!」


 マルバスが吼え、攻勢に転じる。

 この距離を保ったままでは、疲労のない吸血鬼は無限に斬撃を飛ばし続けるだろう。魔剣の鋭さであれば悪魔の鍛造したマルバスの双剣でさえいつかは削り斬られるだろうし、月が昇れば勝ち目が消える。


 であれば、ここは距離を詰めるしかない。

 至近距離では小回りの利くミナの方が有利だ。だがリーチ差による有利不利は飛ぶ斬撃によって相殺される以上、距離を取れば嬲り殺しにされるだけ。せめて戦いを成立させたいのなら、マルバスはミナに近付くしかない。


 東を背にして回り込む隙なんて、何処にもない。

 だからこそ自分の弱点を、不利どころではない条件を開示したのだろう。ミナにはそれだけの実力があると、マルバスの方が技量に於いて下であると、認めざるを得ない。


 だが──それがどうした。


 交差していた剣を揃えるように持ち替え、盾にして突撃する。

 同じだけ下がるという選択も出来たミナだが、斬撃飛ばしを止めて左手のロングソードを構え、迎え撃つ姿勢を見せた。


 身長180センチを超えるミナは、それ相応に体重もある。スタイルが良いから尚更だ。

 それでも、マルバスの突撃を受け切れる重さではない。なんせ二本の大刀だけで一トンを超えるのだから。常識的に考えて、剣同士が衝突した瞬間に吹っ飛ぶはずだ。


 しかし、ミナは先の一撃を受け止めている。

 これもまた、ミナの身体操作精度の高さを窺わせる現象だ。


 ぎゃりぎゃりぎゃり! と目を焼くような火花を散らしながら、二本の大刀とロングソードが激突する。

 片足を下げたミナのドレスが、風圧で華やかに翻った。


 血溜まりを歩くための高いヒール。その下で削れる岩盤へと、激突の衝撃がほぼ完全に受け流されている。


 マルバスの助走10メートルの突撃に対して、ミナが動いたのは20センチほど。

 ヒールと剣から散る火花こそ派手だが、ミナの表情は涼し気なものだ。


 「まだだ──ッ!」


 マルバスは両手に殆ど反動が無かったことに薄ら寒さを感じつつ、剣を引き戻す勢いを利用して一回転する。そして勢いのままに、バックブローのように斬撃を繰り出した。


 ミナの姿勢は防御によって左側に傾いでいる。対してマルバスの攻撃は右側から。

 防御は難しいだろう。回避するとしたら左側に抜けるしかないが、それならそのまま追えばいい。


 この連撃であれば、致命傷ではないにしても、傷の一つくらいは負わせられるはず。マルバスはそう、自分の動きに確かな手応えを感じる。

 

 しかし──瞠目する。

 バックブローの動きで振り返ったマルバスの眼前には、白銀に煌めくエクスキューショナーソードの刃があった。


 「──ッ!!」


 咄嗟に片足を脱力し、無理矢理に姿勢を崩して断頭の一撃を躱す。

 無理矢理に振り抜いた二本の大刀だが、崩れた姿勢で碌に威力の出なかった攻撃はロングソード一本で簡単に防ぎ止められた。


 「く、ッ!」


 脱力した足をそのまま振り上げ、身体を横倒しにして空中で回転する。2メートル近い位置から振り下ろすように、甲冑に包まれた太い脚がミナの頭蓋へ叩き込まれた。


 姿勢を戻す隙を作るための回転蹴り。

 マルバス自身が笑ってしまうほど苦し紛れのそれは、羽虫を払うような手軽さで振られたロングソードでいなされた。


 しかし、ミナの攻撃──防御からのカウンターに空隙が生まれただけで十分だ。

 跳躍した勢いのままに距離を取り、しっかりと両の足を地面に付ける。当然のように飛んできた斬撃は、交差した双剣で受け止めた。


 びりびりと腕が痺れるような衝撃に、歯を食いしばって耐え忍ぶ。業腹でもあり、称賛の念に堪えなくもあることだが、マルバス自身の蹴りよりミナの飛ぶ斬撃の方が重い。


 「オォ──ッ!!」


 獅子頭の悪魔は雄叫びと共に、再びの突撃を敢行する。

 至近戦闘でも技量に於いて負けていることは、マルバスとて先の一瞬で分かっている。だが、離れた状態では何もできないのだ。


 踏み込む力のあまり、硬い岩盤が砕けて陥没し、突撃の勢いで四方へ飛散する。

 巻き上がった砂煙をも拭き散らす突撃に対して、ミナは半身を切り、カウンターを狙うように左手のロングソードを正眼に構えた。


 人間の動体視力など一瞬で振り切る速度で移動しながら、マルバスはミナの攻撃を予測する。

 マルバス自身の構えからして、ミナの選択肢はそう多くない。交差した双剣は、その一本だけでミナの体躯を上回る壁だ。足元と両脇、あとは視界確保のために開けた頭部。この四つにしか隙は無い。


 いや、敢えてこの四つの隙を作り、攻撃を誘導しているのだ。当然、カウンターに対するカウンターも用意している。


 ミナが選んだのは──オーソドックスな右から左への切り払いだ。剣を振る前から、左手を胸に寄せて構えた時点で分かる。

 ならば、とマルバスは左手の大刀を逆手に持ち替えて左半身の防御を固めながら、右手でミナの無防備な背中を狙う。


 手首を返して突きが飛んでくる可能性はあるが、それも意識していれば右手の剣で打ち払える。最も警戒すべきはエクスキューショナーソードによる頸への攻撃だが、あの構えから繰り出すのは無理があるだろう。


 果たして、ミナは素直にマルバスの左半身を狙って剣を振る。腕の力ではなく足と腰の回転を利用した一閃は、マルバスの左手へ強烈な衝撃を齎し──


 「ごッ──!?」


 鎧の腹が陥没する。

 厚さ五センチの特殊金属の鎧が、鋭い一点に膨大な圧力が加えられたようにべコリと凹み、その下にある分厚い腹筋を通して内臓へ衝撃が伝わる。


 なんだ? と、マルバスは思わずミナの動きへの集中を切らし、思考に耽ってしまう。

 ミナの左手は横一文字の斬撃を繰り出し、大刀によって防ぎ止められている。右手は半身の向こうで、突きを繰り出せるはずがない。


 なのに──肉を千切り骨を砕くような、腹を殴られたのに背骨が軋む威力が押し付けられている。


 思わずと言った風情で踏鞴を踏んで下がるマルバスに、ミナの追撃が襲い掛かる。

 わざわざ構え直してから、腕を開いて左から右への横薙ぎだ。


 左手のロングソードを胸の前で立てる仕草は、騎士の礼にも似ている。しかし、そこに込められた意志──挑発が露わになっていれば、礼儀や忠節を見て取ることは不可能だった。


 左腕を左から右に振るという人体の構造上力が加えにくい動きをしているのも、明らかな挑発だろう。そんなことをしなくても、先程のように腕を開く動きで切りつけるか、突きを繰り返した方が速いし、強い。


 だが、そのぬるい動きのお陰で防御が間に合った。

 ──間に合った、はずだった。


 「くッ──ぐおっ!? なんだ!?」


 マルバスは防御とは反対側の脇腹を切り裂かれ、つい先ほど突かれた部分と全く同じ場所を突かれ、鮮やかな血を噴きこぼす。


 魔術ではない。剣による攻撃の味だ。

 だが、そんなことは有り得ない。


 ミナの動きは、人間の動体視力では追えない速度。だがマルバスの目にはしっかりと見えている。それは確実だ。ミナは確実に、剣を一度しか振っていない。

 ならば、これは?


 「な、なんだ、これは……!!」


 動揺も露わに吼えるマルバス。

 苦し紛れに剣を振ると、ミナは口元を歪めて後退した。


 ──今の笑みは、おそらく。


 「殺せた、か……!」


 今の隙は決定的なものだったのだろう。

 マルバスが自分の動きを意識できなかったほんの一瞬は、ミナにとってはマルバスの首を落とすのに十分な時間だった。だが、何かの理由で見逃した。そういう意味の、嘲笑なのだろう。


 それを受けて──マルバスは笑う。呵々と、牙を剥き出しに大口を開けて大笑する。


 「凄まじい、素晴らしいぞ! 貴様の技量、貴様の剣筋、貴様の戦闘能力は、全てに於いて我を超えている!」

 「あら、今更気付いたの? もしそうなら、貴様の目はとんでもない節穴ね」


 眠そうなミナの言葉を待たず、マルバスは三度、突撃する。

 迎え撃つミナは正面から切り結ぶのを嫌い、暴風を巻き起こすような大刀の連撃を後退しながら受け流した。


 力でも速さでも、ミナはマルバスに勝っている。

 だが、単純な重さで大きく──十倍以上も負けている。きちんと構えていれば受け止めるのは造作もない重さだが、何かの拍子で吹っ飛ばされることもある重さの差。


 そんなものと正面衝突するのは、時間と労力の無駄だ。

 別に吹っ飛ばされても死にはしないが、吹っ飛ばされた分、戻ってくる手間がかかる。


 壁のような大刀と比較すると、ミナの魔剣は針のように頼りない。

 しかし一撃ごとに撓んで揺れ、銅鑼のような音を鳴らしているのはマルバスの双剣だ。


 「流石は“人の手にあらざるものクリエイテッド”の魔剣。岩をも砕く我が剣が折れてしまいそうだ。確か、熾天使殺しの逸品だったな」


 言葉と共に、五十を超える連撃が叩き込まれる。

 その全てを少しずつ後退しながら防ぎ、受け流し、時にはカウンターを叩き込んで鎧を砕くミナ。彼女はマルバスの言葉に応じることは無く、音速を超える攻撃を退屈そうに見るだけだった。


 フィリップがここにいたとして、聞こえる剣戟の音は精々が十合程度だろう。

 音を置き去りにした打ち合いは、常人の介入はおろか、ただ見ることさえ許されない領域にあった。


 数秒の攻防の後にひときわ大きな銅鑼のような音が鳴り響き、マルバスが鎧の右胸を大きく陥没させて下がる。突きを食らったような瑕だが、ミナは両手の剣を振り抜いた姿勢であり、マルバスにも両の切り払いを防ぎ切った確信があった。


 「先の攻撃と同じ……これは、魔術ではないな。だが常識の範疇にあるものでもない。貴様は確かに、


 ミナは森の奥に一瞬だけ一瞥を呉れ、肩を竦めて頷いた。 


 「そうよ。これが私の奥義、剣師龍ヘラクレスの編み出した、剣術の──いえ、物理現象の極致。剣技」


 マルバスは言葉の意味を測りかね、攻撃の手が止まる。

 普段ならそんな隙を見逃すはずがないミナだが、彼女は斬りかかることなく、眠たそうに言葉を続けた。


 「師曰く──起こり得ることは、起こそうと思えば実現できる。これはその理屈の実行。“振ろうと思えば振れた、けれど振らなかった剣”を“振ったことにして斬撃を実現する”」


 咄嗟に理解できなかったマルバスは、つい無言のままに聞き入ってしまった。

 ミナはそのに口元を歪めつつ、言葉を続ける。


 「できることはできる。できないことはできない。これはその、1=1という道理の極点にして特異点」


 “振っていない”から“斬れない”と言う道理を、“振れた”のだから“斬れる”と言う理屈で塗り潰す。術理の上では、そういう剣技。


 それが事実なのか、現実を歪めるほどのイメージ力による代物なのか、はたまたその想像力が剣速を自分の認知すら振り切るレベルに押し上げているのか。それは誰にも、ミナにも分からない。


 ただ厳然たる事実けっかとして、ミナは一刀の下に三つの斬撃を繰り出すことが出来た。


 「過去の改変だと!? それは、神でさえ禁忌とする最悪の──」

 「何も変えてなんていないわ。過去も、現在も。だって、事実として“剣は振られている”のだもの。貴様が斬られることに、因果の狂いは何一つとしてないでしょう?」


 フィリップがここにいれば、理解不能のあまり無我の笑顔になる理屈だ。


 それは、余りに強すぎる。

 剣同士での立ち会いに限らず、戦闘は常に選択肢の取捨が連続する。


 相手の構え、相手の行動、こちらの構え、互いの立ち位置、一手前の動きと一手先の予測、事前情報。そういった様々な要因を加味して複雑に思考し、お互いに選び出された行動選択肢の中から、更に相手の行動を読んで採択する。


 その戦闘に於いて、「選ばなかった選択肢」の結果を具現化させるというのは、反則と言ってもいい。

 それがたとえ「剣をどう振るか」という選択肢にのみ適用可能な術理で、「防御しながら攻撃する」ことはできないとしても。


 ミナはまた、ちらりと森に一瞥を呉れて──残念そうに頭を振る。


 「あら、止まったわね。なら……はぁ、仕方ない。私が止めを刺しましょう。チェックメイトよ」

 「何を言っている? 我はまだまだ──」


 不愉快そうに構えるマルバスだが、ミナはもう魔剣を構えてさえいなかった。

 両腕をだらりと垂らして、心底面倒くさいと言いたげに深々と嘆息する。


 「こちらに近付いてくるアレに、まさか気が付かないの? なら、やはり貴様の目は節穴ね」


 ミナの視界、物理ではなく魔力にチャンネルを合わせたそこには、こちらに向かってくる強大な魔力の塊が見えていた。


 しかもミナ自身にも匹敵する特大にして特上の質をも持ち合わせたそれは、一つではなく、二つ。

 タイミングから言って、まず間違いなくフィリップの言っていた聖痕者だろう。ミナとて戦えば無事では済まない、対邪悪性能に於いてはミナの持つ魔剣さえ上回る怪物だ。


 先ほどまで馬を走らせて近付いていたのに、今は何故か立ち止まっているが。再び進み始めれば、ものの数分でミナのところに到着するだろう。そうなればミナも危ういが、それより弱いマルバスは確実に死ぬ。


 「技を語るなんて、信の置ける弟子か、これから死に逝く相手にだけよ。この意味は──分かるでしょう?」


 血よりも艶やかな赤の唇が嘲笑の形に裂け、異常に発達した犬歯が覗く。

 マルバスはまだ戦えるつもりでいるようだが、ミナがその気になった時点で、このマッチアップは成立しなくなる。


 肉体性能は互角でも、技量と、武器の性能が段違いなのだから。


 「フィルがカルト狩りをしている間の暇潰しにはなったし、褒美をやりましょう」


 マルバスは武器に頼らない戦いをしたいと望んでいるようだが、ミナにとって、これはあくまで暇潰し。

 その幕引きに魔剣の力を使うことに、何ら心理的抵抗は無い。


 白銀のエクスキューショナーソードを眼前に立て、規定量の魔力を流して起動する。


 「血を啜りて輝くは魔の理。無傷無血こそ聖の理。なれど邪なるものに救いは無く、父の御名において断罪するのみ」


 刀身が輝く。

 放つ光は夏の日差しのように苛烈で、右手を保護するガントレットが微かに軋んだ。


 マルバスは三十年前の死因である以上に、知識として知っているその光に怯える。


 「その剣──まさか、熾天使ミカエルの断罪か!? なるほど、それ故の断頭能力、それ故の邪悪特攻! 熾天使を殺して奪い取ったな!」


 光が収束し、更に伸びる。

 天を突く光の柱は、ルキアの『粛清の光』より幾らか細く、しかしよく似た神々しさを纏っていた。


 しかし、温かみは感じない。

 氷の煌めき、刃の輝き。鏡の反射より無機質で、背筋の寒くなるような気配の光は、その全てが断頭の刃。


 「垂頸落とせ──魔剣「美徳」」


 詠唱が終わり、魔剣が真の姿を取り戻す。


 それは最早エクスキューショナーソードではなく、天を突く一筋の光だ。

 ミナの邪悪属性に寄った魔力で編まれたガントレットが、炉に突っ込んだようにきいきいと軋む。


 超長射程の処刑剣。

 邪悪なるものに一切の防御を許さない聖なる刃を、回避をも許さない長さへ延長する。


 その規模ゆえに扱いも難しいが、一刀にて三つの斬線を刻むミナの技量であれば何ら障害にはならない。


 マルバスは屹立する“死”を前に声を震わせ、自分でも知らぬ間に一歩下がる。よろめくように──逃げるように。


 「な、何故だ? なぜ今になって、この力を解放した? 我との闘争に飽いたとでも──」

 「そうよ。ペットと遊んでいた方が、まだ幾らか楽しめたわ」


 冷たく突き放すミナに、マルバスは聞こえるほど強く奥歯を噛み締める。

 

 「今度は──」

 「今度なんて無いわ。完全開放した『美徳』は、死しても地獄に還るだけの悪魔をも消滅させる。は、ここで終わり」


 貴様との、とは言わない。

 これはミナとマルバスの関係性ではなく、マルバスが一方的に絡んできただけなのだから。メイドを殺され、城を穢されたが、そんなことはどうでもいい。


 「……無念」


 肉食獣の双眸が悔し気に閉ざされ──ミナの右手が霞む。そしてマルバスの首を、乱立した血の槍諸共に斬り飛ばした。


 無数の彼岸花が花を落とし、耳障りに喧しい音を立てる。

 何体かの悪魔が悶えながら戒めを逃れるが、次の瞬間には新たに生えた血の槍に貫かれて磔にされた。


 吹き荒れた風が夜闇のような黒髪とドレスを荒らして、ミナは不愉快そうに眉根を寄せる。


 最後の最後に呪詛を撒いたマルバスの往生際の悪さは、この数日の無駄な時間を思い返させる無為なもの。或いはマルバス自身の意志とは関係ないものだったのかもしれないが、どちらにせよ、病気に罹らない吸血鬼には無意味なものだった。

 

 「さて……ここからが本番ね。少しは言葉を交わせるだけの、知性と品格のある人間だと良いのだけれど」


 フィリップを助けに来たのか、はたまたディアボリカを討伐しに来たのか。

 後者であってくれないかなぁ、と、ミナは億劫そうな溜息を溢した。







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