第259話
荒野の只中に降り立つと、フィリップは大きく深呼吸した。
埃っぽい空気にはもう慣れたが、これからを思うと、口に入る砂塵の味も気にならないほどだ。
ぺっと砂を吐き出すと、ここまで運んでくれたディアボリカが苦笑いして、城の方へ飛び去って行った。
眼前には三十人そこらのカルトたち。
黒い服を着て、砂塵除けのフードとマスクで人相も分からない、男か女かも判然としないヒトガタだ。
彼らはいきなりやってきたフィリップに怪訝そうにしつつ警戒していたが、ややあって、一人が一団から離れて進み出た。
「何者だ。吸血鬼ではないようだが、あの城で飼われていた食料か?」
飼われていた、という表現に、フィリップは微かに口角を上げる。
警戒も露わに10メートル近く離れていて、お互いの表情は分からない。ただ声からすると、代表者は間違いなく男だった。若くは無いが、そう老いてもいないだろう。
フィリップは酷薄な笑顔のまま、軽く頷いた。
「そんなところだよ。お前たちは、見たままカルトってことでいいんだよね? 悪魔崇拝者ということは、信仰心から悪魔の軍勢に加担して、吸血鬼の城を攻めに来たのかな」
「違う、我々はカルトなどではない。祈りに対して対価を与えて下さる彼らを崇めることは、何ら異常ではない当然の──ごぼっ……!?」
男の首元がじわりと濡れ、ひどく水気を含んだ咳が漏れる。
突如として重くなった体をくの字に曲げて苦しむ男に、困り顔のフィリップが左手を指向していた。
ざわざわとカルトの一団が騒がしくなり、何が起こったのかと戸惑う声が聞こえた。
「《
あの時は、ルキアも困り顔と苦笑いが綯い交ぜになったような顔で「問題文をよく読んで」なんてフィードバックをくれたのだったか。そんなことを思い出して、けらけらと笑うフィリップ。
斃れ伏し、砂を引っ掻いて悶え苦しむ男に、軽快で明朗な笑顔のまま散歩するような調子で近付いていく。
「ま、待て、それ以上こっちへ来るな!」
「いきなり攻撃してきやがって、ブチ殺すぞ!」
地上で溺水している仲間を庇う位置に、二人のカルトが移動する。
片方は無手でこちらを押し留めるような手振りをして、もう片方は短剣を抜いて構えている。
よくよく見れば、無手の男も片手だけは背中に回していた。何か──たとえば短剣や、投擲用のナイフなどを持っている可能性は高い。
「──ははっ」
武装した大の男の恫喝に、フィリップはまた軽く笑う。
吐息には陶酔したような熱と、言い知れぬ艶のようなものがあった。
「いいね。じゃあ、僕はお前たちを嬲り殺そう。クソッタレのカルト共が、お前たち汚物の塊が、生まれてきたことを後悔して、苦しみ悶えながら死ねるように、出来る限りのことをしよう」
「粋がるな、クソガキが!」
ざっ、と砂埃を蹴立てて、短剣を構えていた男が走り出す。
それとほぼ同時に、フィリップもまたウルミを抜き放って整形していた。
短剣を胸元で構えて走る男の動きを、カウンター狙いのフィリップはじっと観察する。
初撃は速度に優れ、また回避や防御の難しい突きである可能性が、普通は高い。ウォード、マリー、ソフィー、ステラまでもが、その攻撃の優秀さを知る大抵の者が、そう選択する。
とはいえ戦闘慣れした者同士の戦いに於いて、セオリー通りの攻撃は大きな隙になる可能性があるし、実力次第では致命的だ。
どう来るか。
大振りなものが来たら躱せるけれど、突きだったら困るから早めに“拍奪”で走って……とプランを立てていると、脳裏に微かな引っ掛かりがあった。
違和感、とまでは行かない。
だが、男が小さくサイドステップを踏んだ気がするのが、妙に気にかかった。
フィリップの魔術攻撃を警戒しての回避行動? いや、それにしては動きが小さすぎる。
「んー……? あぁ、なるほど」
鞭を持ったフィリップは動かないか、牽制主体の防御をするように見えたのだろう。
確かにそれなら──
「──シッ!」
──飛び道具はクリティカルだ。
無手だった男が、鋭い呼気と共に投げナイフを投擲する。
柄が薄く鍔の無いそれは、空気を裂く音すら立てず喉笛を穿つ無音の一撃。
前衛の男の一歩は、その動作を自分の身体で覆い隠すためのものだ。
黒と白で塗り分けられた刃は、意外にも周囲の風景に溶け込んで視認性が悪いうえに、認識していても遠近感が掴みにくい。盾でもあるならともかく、剣で打ち払うのは至難の業だろう。投げる瞬間を見ていなければ、死因に気付かないまま死ぬかもしれない。
だが──狙って投げる点攻撃だ。
そんなもの、拍奪使いに当たるわけがない。
倒れ込む前傾姿勢から蛇のように動き、向かってくる男へさらに距離を詰める。
銀色の尾を靡かせて走るフィリップに、第二、第三のナイフが飛来して、全てが透けて荒野に消えた。
「すり抜けただと!?」
特殊な歩法で相対位置認識を狂わされた男が、化け物でも見るような目でフィリップの虚像を追う。その目はフィリップの意図した通り、フィリップより少し後ろに向けられている。
驚愕の声が漏れた直後、大きな苦悶の声が上がった。
「うあぁぁっ!? あ、足が!?」
全長四メートルのウルミは、その大部分がノコギリとヤスリの合いの子のように毛羽立った金属だ。その傷口は必然、刃物で切り裂くよりずっと凄惨に抉れたものになる。
両足のアキレス腱を削ぎ落された男がごろごろと転がって呻き──声の代わりに、口から夥しい量の海水を吐き出して暴れ始めた。
「──《
どっ、と鈍い音を立てて、フィリップの爪先が男の鳩尾にめり込む。
口から出る海水の勢いが一瞬だけ増して、すぐに元通りになった。
溺水は地獄の苦しみだ。
息を吸っても吐いても──いや、肺が海水で埋まった以上、もはや息を吸うことも吐くことも出来ず、重い身体を引き摺ってのたうち回ることしか出来ない。
苦悶に満ちた目が許しを請うように見上げ、充足感と嗜虐心に満ちた青い視線とかち合った。
牽制のように飛んできたナイフを避けると、それで打ち止めだったのか、男は後ろにいた仲間に怒声を飛ばす。
「クソ! おい、お前ら! ぼーっとしてないで、魔術でもナイフでも石でもなんでもいい、あいつを殺せ!」
「え、困るんだけど。流石にそれは多勢に無勢というか、そういえばお前たち、さっきは100人ぐらいいたよね? 残りは?」
指示通りに投石紐や魔術の準備をするカルトたち。その総数は2~30人といったところで、どう見ても城から見た群れの半数以下だ。
「答える義理は無い! 撃てッ!」
男の怒号に一瞬遅れて、投石や攻撃魔術が飛んでくる。
投石に使われる石は、正真正銘ただの石だ。たったいまそこで拾った、荒野のそこら辺に落ちていた、ただの石だ。しかし侮るなかれ、投石紐の回転力を用いて撃ち出された石は金属鎧を凹ませ、人間の頭蓋骨すら砕く。
──まあ、狙っている時点で無意味な攻撃なのだが。
「──っと。あ、まだ後ろにいっぱいいるじゃん。あれもお仲間のカルトだよね? ……うわ、危なっ!?」
たまたま狙いを逸れた魔術に当たりそうになり、少し慌てつつ“拍奪”の位置認識欺瞞を全開にする。
流石に細かい数は分からないものの、城から見た通り、カルトは100人以上いるようだ。ここにいるのは前衛部隊、或いは戦闘要員だけなのだろう。
「うーん……欲を言うと、もうちょっと遊びたかったんだけどな……」
フィリップは困り顔でぽりぽりと頭を掻いて、一言。
「ま、そういうことならしょうがない。鬱憤はまだまだ晴らし足りないけれど──お前たちはここで、灰に伏せるがいい」
辺りは見渡す限りの荒野で、シルヴァはまだ5キロ以上も離れている。
なら、何も。もはや何も、気にすることはない。
「同胞の仇だ、攻撃の手を緩めるな! 無知と傲慢を悔いるのは奴の方だと、このクソガキに教育してやれ!」
砂埃を蹴立てて縦横無尽に走り回るフィリップ。
動体視力を振り切る速さには全く届かないはずなのに、なぜか攻撃が当たらない。仲間の無能に苛立ちを募らせる男だが、自分の投げナイフも無為に浪費したので罵倒は出来ない。
飛んでくる魔術は初級か中級、偶にフィリップの攻撃魔術のようなへなちょこまで混ざっている。
この分ならもう少し遊んでも良さそうだが、流石に弾幕の密度が数十人分だ。走り続けなければ当たってしまうし、それでは甚振るどころではない。
仕舞いだ。
「──ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ほまるはうと うがあ ぐああ なふるたぐん」
滅びを宣告する預言者のように、いつも照準補助をしている癖で左手を突き付ける。
選択された魔術は使い勝手に優れ使い慣れたハスターの召喚ではなく、クトゥグアの召喚。
運が悪ければ制御の効かないヤマンソが出てくることも、ハスターでも100人以上のカルトを一瞬で掃討することなど容易いことも、フィリップはきちんと知っている。
その上でリスキーな魔術を選択した理由は、ナイアーラトテップが笑ってしまうほどくだらない。
──ただ、やってみたかったのだ。
たくさんのカルトを一網打尽に、意志ある恒星で焼き払う。
蒸発するのか、炭化するのか、それとも意外と焼死の苦痛を味わってくれるのか。
それに、フィリップがあれ以来初めて遭遇したカルト、黒山羊の末裔によるシュブ=ニグラス信仰のカルトは、クトゥグアで焼くつもりだったのだ。それがルキアが居て、マザーが来て、カルト狩りは出来ずじまいだった。
これはその、リベンジ代わりだ。
「いあ──くとぅぐあ」
詠唱に従い、邪悪言語と歪な記号で構成された魔法陣が展開され、手元を離れて加速度的に大きさを増しながら、蒼穹へと昇っていく。
魔法陣に繋がる魔術的召喚経路の先は、みなみのうお座α星、フォーマルハウト。
しかし──妙に覚えのある手応えに、フィリップは口元を忌々しそうに歪めた。
◇
歓喜の声が上がる。
意志を持った恒星が、その配下である炎の精が、いつぞやのゴミ掃除とは比較にならない“意志の力”に喝采しながら化身を象る。
クトゥグアはフィリップの片手にすっぽりと収まるサイズの、小さな小さな熱の塊に。炎の精はサッカーボール大の火球になる。
しかし、地球の大気圏内であれば、熱塊は周囲の空気を一瞬のうちに食い尽くし、家一棟を優に上回るサイズの特大の火球へ変貌するだろう。
星を焼かず、召喚者を焼かず、しかし使役者の命令を遂行するのには十分な能力を──焼却力を備えた化身だ。
いざ征かんと召喚経路へ進み──いつぞやのように、傲慢な意思が届く。声を持たず、ただ意志だけが直接意識へ届けられたそれは、過去に何度も聞いたもの。来るか来ないかはクトゥグアにも分からず、意思の主もまた気紛れに乱入してくるだけのはずだが、こと彼が相手ではかなりの高確率だ。
特に、圧倒的上位者としての自覚に満ちた命令を課されていたのなら。
──退け、と、再びの
戦っても100パーセント勝ち目のないクトゥグアとしては、悔しくはあるが引き下がるしかない。
クトゥグアの出力──熱量は、所詮は恒星。対してヤマンソが三次元世界で象る化身の出力は、超新星爆発にも匹敵する。──そして当然、ヤマンソは外神だ。本体は三次元世界には収まらず、真体が顕現すれば世界の方が耐えきれずに崩壊する。
戦うとか、比較するとか、そういう次元には無い両者。
言うなればクトゥグアは文字列で、ヤマンソは筆者や読者のようなものだ。
だが──嘲笑が届く。
それはクトゥグアでも、ヤマンソでもなく、召喚経路の先からのもの。
──退け、だと? 違う、退くのはお前だ。
クトゥグアが、炎の精たちが、ヤマンソが、思わず身を竦める──誰一人として“身”なんて持っていないので、擬人的な表現だが──、強靭な、そして傲慢な意思。
──僕が欲しいのはカルト狩りの手駒だ。自分の意志で勝手に動く、手駒の本懐に殉じないお前じゃあない。
以前の経験から、ヤマンソの傍若無人さ、そして過剰に過ぎる破壊能力を知る召喚者の判断は正しい。
ヤマンソの火力がちょうどいい塩梅になるとしたら、それは星か、星系を焼くときくらいだろう。
嘲笑うように、決定的な意思が告げられる。
『
外なる神に対するには、あまりにも尊大で、傲慢に過ぎる意思に、クトゥグアは歓喜しつつも慌てふためく。
それはいくら最大神格の寵愛を受けるとはいえ、ただの下等存在が露わにしていいものではないと。
ヤマンソは、クトゥグアですら手に負えない暴君だ。
これまでにも幾度となくクトゥグアの召喚に勝手に介入して、ヤマンソ出現に慌てて召喚をキャンセルした使役者を、逆恨みで星ごと焼くような場面を何度も見て来た。ガス星も、地殻を持った星も、時には一個星系すら、その甚大な熱量で焼却してきた。
道理など知らぬ、意味など知らぬ、ただ自分の感情のみを最優先する暴虐の王。そんな振る舞いが許容され、感情をこそ唯一の行動指針にするような化け物が外神だ。
確かに、盲目にして白痴、この世全てを夢見て眠りこける魔王の寵愛を受けるというのは、異常であり特別なことだ。
だが、たったそれだけを理由に外神を従えられると考えるのは、それは傲慢である以上に愚かなことだろうに。
クトゥグアはヤマンソの激発を予期して、配下の炎の精たちを下がらせる。
そして──ふっと、ヤマンソが頭を下げたような気配が伝わった。
深く、ゆっくりと、折り目正しく。胸に手を当て片足を引いた立礼のような、深い敬意と尊重の滲む所作が想起される。御意に、なんて返事まで聞こえてきそうだ。
クトゥグアは驚愕を隠しきれないが、騒ぎ立てる配下を一喝して鎮める。
──有り得ない。
盲目白痴の最大神格が寵愛を授けた人間を、確かに外神たちは害さないだろう。
旧支配者や旧神から守るというのも、理解はできる。
絶対に敵わない仇敵に一矢報いるため、鬱憤を晴らすため、彼らが大切にする脆弱なものを壊そうとする愚昧は、神格であろうと存在するだろう。
だが、そこ止まりのはずだ。
外神に対する命令権? そんなものはないはずだ。
外神が人間の命令に従う? そんなことは有り得ないはずだ。
いや、ナイアーラトテップ辺りは愉悦の為になら何でもするだろうし、魔王の寵愛だけを理由に従属するかもしれないが、ヤマンソはそういう手合いではない。現に、昨年には『僕に従え』という彼の意志を、嘲笑うかのように無視していたではないか。
有り得ない。──有り得ないものは、怖い。
怖い、恐ろしい、理解できない。なのに──どうしてか、従ってしまいたくなる。
クトゥグアは心中を埋める無数の感情を消し去って、配下を引き連れて召喚経路を通った。
今度こそは、魔王の寵児の役に立つべく。
◇
荒野の空に、極小の恒星が顕現する。
ただそこにあるだけで辺りの空気を食い潰し、身体が浮き上がるほど強烈に吸気する極大火球。地面がじりじりと溶けていく膨大な熱が絶え間なく放射され、近くにいたカルトの一部が一瞬のうちに蒸発して消えた。
虚空に浮かぶ紅蓮の球体。付き従うように浮遊する小さな火球。
外見上は、たったそれだけの異常。──フィリップからは、そう見える。だが、それを城壁上から見ていたディアボリカには、全く違うものが見えていた。
蠢きのたうち回る炎には無数の眼と口が開き、嘲笑の形に歪んでいる。
ただ木やガスが燃えるだけでは有り得ない色と熱の炎は、物理法則に逆らった動きで舌を伸ばす。
視力を魔力で強化していたことが仇になった。
普通に見ていたら、遠くに浮かぶオレンジ色の球だったのに。ぼんやりと浮かぶ、指先ほどの小さな光点だったのに。──何も知ることなく、実はフィリップが最上級魔術にも匹敵する攻撃が出来た、なんて勘違いをできたかもしれないのに。
なんだ、あれは。
そう思った時には、ディアボリカは視界のチャンネルを物理次元から魔力次元へ切り替えていた。長年の魔術師生活と積み重ねた戦闘経験で培った、自信を持って正解と言える判断。ただ見るより圧倒的に情報を集められる視界へのシフトは、しかし、それ故に致命的だった。
「──、えぁ?」
ふっと視界が傾ぎ、縦に180度回転する。
堅牢な石の壁が上から下へと流れていって──意識を失って城壁から落ちたディアボリカは、悪魔の群れの中に呑み込まれた。
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