第255話

 城内に戻れ、嫌だ、戻れ、嫌だと、不毛な応酬が続く。

 ミナとルーシェと、追加でメイドが数人ばかり、呆れ声で説得を続けている。しかし、フィリップはじりじりと動いて包囲網を抜けようと、あわよくばもうあと二、三周してやろうと目論んでいた。


 「あのね、フィル──、っ!」


 ペットの浅はかな考えを見透かして嘆息するミナが、吐いた息をそのまま吸うような勢いで息を呑む。ミナだけでなく、メイドたちも一斉に同じ方を──壁の外を見て、遥か遠くを睨み付けた。


 虚空? 否。地平線を煙らせる悪魔の後衛部隊。その最奥でふんぞり返った、獅子顔の大悪魔。

 空間を埋め尽くすように到達したその権能が、それを使うタイミングが、心の底から鬱陶しい。


 「──え?」


 戦場がしん、と静まり返った。


 雨音と錯覚する断続的な投石と破砕の音が、ちょうど聞こえないタイミングだった。聴覚が「それが普通だ」と慣れてしまうほど絶え間なく聞こえていた、悪魔の哄笑が止んでいる。城壁を登ろうとする足音が、攻城塔の装甲が擦れる音が、十数万の軍勢が踏み鳴らす地鳴りが、消えている。


 「──、あ」


 覗き込んだ眼下、20メートルの下界と目が合う。目が合う。目が、合う。

 何十、何百、何千? 視界に映る悪魔の総数は不明だが、その全ての悪魔がフィリップを見つめて、飢餓に濁った双眸のまま、口を哄笑の形に引き裂いた。


 「──ミツケタ!」

 「肉、人ノ肉ダ!」

 「血ダ、骨ダ、内臓ダ!」

 「喰エ、喰ラエ、貪リツクセ!」


 高らかな哄笑が、食欲と、蹂躙の意思を強烈に伝える。

 悪魔が喰うのは魂なのに、物質的な肉体を欲しがっているのは“食人”の病による飢餓が原因だ。


 それは、分かる。

 だが、どうしたことだ。奴らはいやに、そして唐突に、理性的だ。食欲に満ちた低俗な光だが、無数の双眸には一つの欠けも無く理性の輝きが見て取れる。


 「そう……対策というわけ」

 「はい。旦那様の策──いえ、旦那様の存在が効果的すぎるあまり、“狂乱”の病を解かざるを得なくなったのでしょう」


 通じ合う主人と侍従長。

 その会話が発端となり、城壁上には苦々しい空気が蔓延していく。


 理性の無い獣の群れでも数十万となれば脅威だし、不死身となれば、ミナやディアボリカのような特級の存在でなければ絶望して膝を屈するほどの代物だ。

 それが今や、理性を取り戻し、「軍」として統率を取り戻しつつある。


 フィリップが暴走していた時でさえ困ったように笑っていたルーシェが苦々しく表情を歪め、ミナが眉根を寄せるほどの、状況の悪化だった。




 だが、これはマルバスにとっても苦渋の決断だ。


 そもそも悪魔は、前言を翻すことに大きな代償を伴う。

 種族的に嘘を吐けない悪魔が、自らの意思に関係なく、行動の結果として場合でさえ、自動的なペナルティが課せられる。それは小さなものでも各種身体・魔術能力の低下やデバフを引き起こし、大きなものになると地獄への強制送還や、魂の消滅さえあり得る。


 この「大きなもの」とは大言や、或いは他者への影響が大きなものという意味ではない。

 約束、契約、約定、言葉は何でもいいが、ただの言葉とは違う大きな意味を持つ言葉だ。たとえば「お前を殺す」と息巻いて失敗してもペナルティは軽いが、魔術師と「敵対者を殺す」という契約を結んで失敗した場合、ペナルティは甚大なものになる。


 マルバスにとって、三日前のあれは大きな意思を込めた“宣言”だった。それを逆用されたことによる戦術的判断とはいえ、自らの意思で翻したことで、マルバスの戦闘能力は筋力・魔力・耐久力などが1割ほど衰えてしまう。


 後衛陣地の最奥、玉座に掛けたマルバスは苦悶の表情を浮かべ──しかし、すぐに喜悦を混ぜ獰猛に牙を剥く。


 「チェック──」


 城主キングを取るまであと一手。その確信の込められた呟きが、中位悪魔の軍勢に伝播する。


 歓喜の哄笑、祝勝の雄叫びが後衛陣地に蔓延し──誰かが、一歩を踏み出した。

 それを見た誰かが、またそれにつられて、やがては後衛陣地の全体が、波のように進軍する。


 歩兵が、砲兵が、戦車兵が、戦車を牽く四足歩行の悪鬼が、地滑りのような勢いで城を目指して突貫する。


 今だ──今しかない。今こそが好機と、全体が叫ぶ。

 日は未だ頂点に向かう途中。吸血鬼の能力が倍増するまで6時間、吸血鬼の能力がさらに倍になるまで2時間。そこまで耐久されてしまえば、些か冗長だ。また11時間ほど、日が昇るまで死に続けなくてはならない。


 なればこそ、今だ。今、奴らを殺し尽くしてしまえばいい。


 軍勢の主は命令も無く動き始めた手勢に顔を顰めたが、すぐに上機嫌に口元を緩める。


 あんな雑兵、ミナの前では木っ端に等しい。

 だが、あれだけの数だ。配下の下級吸血鬼と、あのよく分からないペットくらいなら殺し尽くせるだろう。


 そうなればようやく、本気のミナと戦える。


 「あと一日といったところか。思えば、束の間であったな」 


 三十年もの恥と研鑽。

 それが、こうもあっさりと雪がれることになろうとは。


 ならばせめて、その終幕くらいは楽しみたいものだ。


 「あぁ、まこと、待ち遠しい」




 不穏に煙りはじめた地平線を、城壁上の吸血鬼たちは忌々しそうに睨み付ける。

 それが“正解”だと──吸血鬼メイドと脆弱なペットを殺し尽くすための最適解であると、誰もが言われるまでもなく理解できた。

 

 本来なら、攻城戦は一朝一夕ではない。

 戦力の追加投入はもっと後期、それこそ籠城戦にまで発展し、防衛側の備蓄食料が底をつく辺りで取るべき戦略だ。


 だが、不死身の軍隊と、リソースが枯渇すれば死ぬ疑似的な不死身の軍隊との戦争であれば、このタイミングでも拙速ではない。ここから──吸血鬼の消耗が始まる瞬間から、圧倒的大多数によって押し潰すというのは、ミナの目から見ても良い一手だった。


 「城壁、中庭、城内の三段階に防衛線を布陣します。……ご主人様は玉座の間へお戻りください」


 ルーシェの進言に、ミナだけでなくフィリップも頷く。

 狂人を煽るだけならまだしも、本気の戦闘になればフィリップは足手纏いだ。状況が変わった今、まだ遊びたいとゴネるのは、我儘の域を出たただの“邪魔”。それはフィリップとて望むことではない。


 大人しく従う二人に背を向けて、メイドたちは漸くまともに動き始めたを睥睨する。


 見下ろせば必ず誰かと目が合う数の、よく統率された武装集団。

 荒野にいるのなら血の大矢の弾幕で一掃もできるが、城壁の真下に陣取られてしまうと難しい。そして、これまでには見せなかった動きを──痛みを嫌い、魔術による防壁や魔力障壁といった小賢しい防御を始めている。


 勿論、魔力総量も魔術出力も、中位悪魔と下位吸血鬼では大きく差がある。名前からすると悪魔の方が強そうだが、吸血鬼の魔術は悪魔の障壁など紙のように貫くだろう。


 だが、紙も十枚、百枚と重なれば、いずれは槍の一突きさえ防ぎ得る。

 これまでは一発で百の悪魔を殺せていたものが、99か、98か、或いはもっと少なくなり、継戦能力が間接的に低下するということだ。

 

 「──少し、計算が狂いますね」


 ルーシェは他のメイドに悟られぬよう、ひっそりと嘆息する。

 この物量でこの動きをする相手なら、一日持つかどうか。──率直に言って、心許ない猶予だ。


 聖痕者が来るまでの正確な時間は不明だし、来るかどうかも怪しいところ。来たとしても、吸血鬼と悪魔が潰し合うのをじっくりと見物して、残った方を美味しく頂く算段だって立てられるだろう。


 「それでも、自らが死する前に主人を戦場に立たせるなどメイドの名折れ。この身に流れる血液いのちが尽きるまで、戦うのみです」


 がんばるぞ、とばかり両手を握り締める、明朗快活な侍従長。


 どこか場違いな安穏とした空気を纏うことができるのは、彼女もやはり化け物だということなのだろう。




 ◇




 千夜城滞在七日目、昼。

 フィリップ・カーター拉致から、約144時間。


 ルキアたち救助隊一行は深い森を抜け、峻険な渓谷を川の流れに沿って駆けていた。


 周囲に魔物の気配がなく、そのうえ清らかな流れと耳触りの良いせせらぎを感じながらの道程とは、まるでピクニックにでも来たようだ。

 谷風は冷たく、吸い込む息が肺をすっとクリアにしてくれるような感覚がある。顔を上げれば、山の頂上を飾る万年雪が陽光に煌めいた。


 「昔を思い出すな、ルキフェリア」

 「……そうね。正直、かなり心が落ち着いたわ」


 幼少期に王家直轄領の別荘へ遊びに行ったときのことを、二人は同時に回想していた。

 あの時はまだ、二人とも聖痕を発現させていなくて、殺した人数も片手で足りるくらいで、世界の美しさを前に素直に感動できたのだったか。


 雄大な自然の景色。それらを形作った数百年、或いは数千年もの長大な歴史の結果を、腕の一振りで台無しに出来るような存在になるとは思っていなかった。そして、何より──当時の二人は、無邪気にも神と魔王がこの世の頂点存在だと信じていた。ルキアはともかく、ステラでさえ、信仰心は無くとも“信じて”いたのだ。

 

 それが今や……いや、その価値観が崩れ去ったのは、つい最近のことだ。

 まだほんの、一年かそこらしか経っていない。

 

 「──思えば、遠くまで来たな」

 「……そうね。貴女が一人の友人の為に暗黒領に踏み入るなんて、当時の貴女に聞かせたら鼻で笑うでしょうね」

 「お前がそれを言うのか?」


 ステラもそうだが、ルキアだって当時から他人との関わりが薄かった。友人だってステラくらいのものだったし、アリアとメグという信頼の置ける腹心にも出会っていなかった頃だ。


 「変わったと言えば、ルキア。例の神官様を頼らなかったのは何故だ? カーターの知り合いで、回復魔術に長けた才媛と聞いているが」


 出発直前のことだ。

 ルキアは最後の最後まで、マザーに付いて来て貰うかどうかで悩んでいた。


 王宮から王都外へ出る途中に投石教会に寄り、事情を話すのは大した手間ではない。女性一人くらいなら馬車に乗せれば追加の馬も要らないし、アリアかメグかどちらかを置いていくだけの価値があるとも思っている。


 マザーはおそらく、強い。

 彼女に対して魔力視を使ったことは無いし、フィリップが嫌そうな顔をするから、彼の目がないところで会ったことさえ無いくらいだ。だが、高い戦闘センスを持つルキアには、正面に立っただけで分かる。


 ──彼女は化け物だ。


 人を殺したことなど一度もない。いや、人間を殺そうと考えたことさえ、一度もない。

 そんな温和な空気を纏っているくせに、目に宿る光はフィリップやルキア自身と同じもの。人の命に何の価値も見出さず、目の前の他人が泡にでも見えているような、冷徹で、何の感情も持っていないフラットな心が透けて見える。


 ルキアのように「殺し慣れた」結果ではない。

 あれはフィリップと同じ、「殺す」という意識を持ち合わせていない破綻者の目だ。


 あんな目ができるモノが、弱いはずがない。

 フィリップが一定以上の信頼を置くという点からも、それは間違いないだろう。


 神官であるのなら、対邪悪に特化した秘蹟の類を修得しているはず。吸血鬼と事を構えるなら、戦力としても、治療要員としても優れた存在になってくれることは間違いない。


 だが、そういう理屈を抜きにして、ルキアは心情の部分でマザーの力を借りることを善しとしなかった。


 「神官様に泣きつくということは、シュ──私の信じる神に、我が身の無力を懺悔するに等しいわ。……勿論、フィリップの生死が懸かっていて、私ではどうにもできないのなら、この身を賭してでも助力を乞うつもりだけれど」

 「そこまでの危機ではない、か。確かに、“娘婿”だからな。一週間経ってまだ生きている辺り、あながち嘘ではないのかもしれない」


 フィリップの生存はシルヴァが保証してくれている。

 殺すことが目的なら学院に侵入した時点で達成できただろうし、一週間もの間生かしていたということは、少なくとも殺すために拉致したわけではない。その身柄に価値がある状態だと考えて間違いないだろう。


 血液サーバーや、最悪、人肉サーバー代わりにされている可能性も全く無いわけではないが、そんな状態をフィリップが許容するとは思えない。何の躊躇いも無く邪神を召喚し、天地万物を薙ぎ払ってでも脱出するはずだ。


 「……案外、本当に結婚して──ルキフェリア、冗談なんだから笑ってくれないと困るぞ?」

 「笑えない冗談だもの」


 次言ったらひっぱたくわよ、と、口ではなく目で語るルキア。

 平手打ちぐらいなら許容できる程度にはちょっとした嗜虐心を催すステラだったが、ルキアの右手にある騎馬鞭が怖い。

 

 ステラは手綱を操ってルキアの一閃圏内から逸れつつ、話を戻す。


 「まぁ確かに、永住するつもりなら、シルヴァを戻しているだろうしな。何より、あいつは人類領域外に長くいると、それだけで……なんというか、“正常性”のようなものを失う。それはあいつが最も忌避していることだし、放っておいても勝手に帰ってくるとは思うが」

 「帰ってこようとはするでしょうね。けれど、成功するかは別よ」


 フィリップには甘いが、戦闘能力評価に関しては訓練中でもシビアなルキアらしく、冷たく断言する。

 まさか想定外の好待遇に絆されて、脱出するという考えを──首輪や魔眼で完璧に封じられているとはいえ──端から持っていないとは、誰も想像できなかった。







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