第254話
夜が明ける。
月が没すれば吸血鬼が無敵の時間は終わり、日が昇れば不死身の軍勢を前にじりじりと押され始めた。
吸血鬼メイドたちの戦い方は、徹底した遅滞戦闘だ。城壁の上と下で、雲梯や攻城塔を使って登ってこようとする悪魔を片端から撃墜して、ついでに下に居る大勢の悪魔も殺しておく。
一応、魔力を大きく消費する最上級魔術を使えば、悪魔を塵一つ残さず焼却し、再生させないことはできる。だが十数万の──前線部隊総数で見れば三十万もの大軍勢のうち、一匹や二匹を消滅させたところで焼け石に水だ。それでいてメイドの方は継戦能力を5パーセント近く失うのだから、割に合わない。
ついでに言うと、中位悪魔は儀式魔術によって何体でも召喚できるので、後衛部隊から補充されることも十分に有り得る。
故に、眼前敵一体の完全消滅ではなく、敵複数体の足止めを優先する。
血の大矢を撃ち出す上級魔術は吸血鬼にとってパンチのようなもので、最もオーソドックスで、それなりに魔力の消耗が少ない。それでいて十分な火力と攻撃範囲を誇り、直線上の悪魔を纏めて吹き飛ばすことが可能だ。
これによる足止めは、概ね30秒といったところ。
半身を吹き飛ばして再生完了まで30秒とはとんでもないことだが、吸血鬼は3秒以下で完治することを考えると、相対的には遅い。だが、相手は遅い分、無尽蔵だ。これは
魔術一発で20の悪魔を殺せるとして、一発当たりで稼げる時間が30秒。20体の悪魔を殺したからと言って、単純に600秒を稼いだことにはならないのが残念なところだ。
さておき、魔術一発分の魔力を回復するのに、フラットな状態で15秒ほど。月光下では10秒以下にまで短縮されるが、日光下では30秒以上になる。勿論、魔力総量自体は百発以上の連射に耐えられるが、それでも目減りが始まってしまう以上、日光下ではジリ貧だった。
フィリップは朝から城壁の上をちょろちょろと走り回り、一進一退と言えなくもない戦局を観察していた。
城壁の下、20メートル以上の眼下では、無数にも思える悪魔が犇めき合い、城壁と同族に挟まれて潰れる悪魔すら見える。
城壁の上には、80人もの吸血鬼メイドがほぼ等間隔で並び、血の大矢をはじめとした多種多様な魔術で防衛を続けている。
中でも効果が高いのは、燃焼温度の高い錬金油を撒いたあと魔術で火を着けるという、かなり原始的で物理的な攻撃だ。錬金油のストックは少ないが、そこそこ長時間燃え続けるうえ、魔力消費が少ない。魔力回復までの時間稼ぎには丁度いい攻撃になっていた。
逆に「これは駄目だ」となったのは、魔術で生成した溶岩を垂れ流すという攻撃だ。これは相手の魔術で冷やされると岩になり、その分だけ相手が登りやすくなってしまった。
フィリップも「壁の前に穴を掘ってから溶岩を流すのはどうですか?」と、そこそこ真面目に提案してみたのだが、一瞬で却下された。
堀を作ることを想定していない城壁に後付けすると、地盤が緩んで自重を支えきれなくなった城壁が倒壊する危険があるらしい。かといって堀を浅くすると、それはそれで効果が薄いのだとか。
「旦那様! 城壁はもはや安全ではありません! どうか、城内へお戻りください!」
「大丈夫! タレットからバリスタを撃つだけだから!」
鋸壁のついた回廊を這うように移動している──激戦区のタレットに向かっているフィリップを、ルーシェが懸命に制止する。
だが、フィリップの足は止まらない。
見る限り、吸血鬼メイドはみんな城壁上からの攻撃で手一杯で、タレットが機能している様子はない。
城壁に取り付く攻城塔や雲梯を横方向から攻撃できるのがタレットの強みなのに、これでは宝の持ち腐れである。──吸血鬼に言わせれば、バリスタより魔術を撃った方が速いし、視界の狭まるタレットに入ることこそ無駄なのだが。
「──ん?」
城壁の上を攻撃に注意しながら這っていたフィリップはふと地上を見下ろして、それに気が付いた。
「──、っ」
眼下──見渡せる範囲の全ての悪魔が、フィリップの方を見上げていた。
幾体かの悪魔と目が合い、飢餓と狂気に濁った瞳に嫌悪感を抱く。それと同時に、無数の肉食獣に囲まれていることを認識した肉体が、ぴりぴりと悲し気な警告を発した。
少し離れたところでは悪魔が雲梯から飛び降り、下に居た同胞と一緒に潰れ落ちた。
少し近くでは、攻城塔の中に居た悪魔が壁を突き破って飛び出し、また落ちて潰れた。
気色悪い、と表情を歪めたフィリップが動くと、それに合わせて悪魔の群れも一斉に動く。以前に授業で見た、磁石に引かれる砂鉄を彷彿とさせる、雑然としているはずなのに規則的な動きだ。
硬直した手指や脚をぷらぷらと振って解しながら、フィリップは良い事を思い付いたぞと口元を歪める。
「──んふっ」
「え? あ、ちょっと、旦那様!?」
顔を上げたまま走ってみるとあら不思議、悪魔の群れが波のように動き、どんくさい個体を踏み潰し、雲梯が倒れ、攻城塔が崩壊するのにも構わずフィリップを追った。
これで検証は終了だ。
病によって理性を失った悪魔は、脳を焼く飢餓感に突き動かされてフィリップを追う。
フィリップが城の中に居るのなら、城壁を登り、或いは壊し、城の何処かに居るフィリップを探し出そうとする。城門には初めからその方角に居た悪魔しかおらず、城壁の脆弱な部分を狙うという基本的な考えさえしない。
そしてフィリップが城壁の上に──目に見える場所にいるのなら、当然のように手を伸ばす。魔術を撃ってこないのは、殺すためではなく食うためにフィリップを求めているからだろう。
悪魔はみな一様にフィリップへ手を伸ばし、跳びかかる。その先に同族が居れば踏み台にして、その先にメイドの魔術が待ち受けていようと気にすることなく。
では、フィリップが城壁の上を走り回るとどうなるか。
当然、フィリップを目にした悪魔は一斉にその姿を追いかけ──戦線は崩壊する。雲梯は倒れ、攻城塔は崩れ、同胞を踏み潰し、同族に踏み潰される。死から蘇る頃には、フィリップは視界の外まで走り抜けているだろう。
「──あははは! 狂気なんてそう都合のいいものじゃないんだよバーカ!」
眼下、理性無き飢餓の徒を嘲笑いながら、哄笑と共に疾走する。
『拍奪』の不安定な姿勢でもそれなりの速度を出せるよう訓練を続けているから、今や短距離走ならクラスメイトにも引けを取らない健脚である。
ざわざわざわ、とさざめく悪魔の群れ。
ぶちぶちぐちゃ、と鳴る愚かしさの証。
狂気は、そう便利なものではない。
理性を失った相手は何度死のうと、死の恐怖も致死の苦痛も蘇生の悍ましさにも気付くことなく、ただ愚直に前に進む。
だが、それだけだ。
マトモな思考を失った軍勢は、軍と呼ぶには稚拙に過ぎる獣の群れ。
肉食獣を恐れる本能が身体を止めるが、愚者を嘲笑う
全周400メートルを超える長大な城壁の上をぐるりと一周して元居た場所に戻ってくる頃には、後ろを走っていたルーシェも、この馬鹿げた作戦の有用性に気が付いたようだ。とはいえ制止は続き、「馬鹿なことは止めろ」という内容が「危険なことは止めろ」という趣旨に変わっただけだったが。
「いやはや……ペットちゃんが走り回るだけで、こんなに攪乱できるとは。もう一周してくんない?」
「へへへ。いいよ、任せて」
一部始終を見ていたメイドの言葉に、フィリップはニヤリと笑い返す。
あまりのんびり走ると一点に悪魔が集中してしまい、積み重なった死体を踏んで登ってくるかもしれないということで、そこそこのペースで走り抜ける。
フィリップを見失った悪魔はまた愚直な城壁攻めに戻るようで、殆どデメリットが無いのが素晴らしい。
ただ──流石に一周400メートルを何度も繰り返すのは体力的に厳しく、マラソンペースをやや上回る速度を出し続けなければいけないこともあって、4周と半分くらいで力尽きて膝を突いた。
「ふぅ……はぁ、はぁ……ふぅ……もう無理……」
鋸壁に全身を隠せば悪魔の追尾が切れることを利用して、壁にもたれかかって肩で息をするフィリップ。
ルーシェはそんな情けない姿に「そろそろお止めになっては……?」と相変わらず制止の言葉を投げる。フィリップと同じペースで走りながら、時折飛んでくる悪魔の攻撃を防いだり弾いたりしていた彼女はというと、フィリップとは違って汗一つかいていないし、息も全く乱れていない。
吸血鬼は便利だなぁ、なんてつい羨んでしまうところだが、それならそれでやりようはあるというもの。
「ルーシェ、僕を背負って走ってくれない?」
「ダメです! これ以上、旦那様を危険に晒すわけにはいきません!」
にこやかに、しかし大真面目なフィリップの提案を、吸血鬼の侍従長は即座に却下する。
そりゃあ、まぁ、主人の夫であるのなら、こんな最前線に出てくるのを許しただけでも大失態だろう。本当は殴ってでも連れ帰りたいところだろうが、それはそれでメイドの矜持に反するらしい。
しかしルーシェにとっては「ご主人様の旦那様」であっても、他のメイドたちにとっては「ペットちゃん」なので、城壁の上を哄笑しながら駆け回る子供に向けられる視線は「困った子だなぁ」という生温かいものが多かった。一応、戦線維持に一役買っているので、ルーシェ以外に止めようとするメイドはいない。
はひはひと息を荒げて這っていると、先程のメイドがいた辺りまで戻ってきた。
「──あれ? ペットちゃん、もしかして限界?」
「うん、疲れた……。ねぇ、僕を背負って走ってくれない?」
「え? ははは! 面白いコト考えるな! オッケー!」
あっ、とルーシェが声を漏らした時には、フィリップはひょいと肩車されていた。
「よーし、出発! ドラゴンライダーならぬ、ヴァンプライダーって感じだな!」
「うーん、言葉の上ではカッコ良さそう! よし、出発!」
二十代そこそこのメイド服を着たお姉さんに肩車され、城壁の上をぐるぐるぐるぐると駆け回るカッコ悪さからは目を背けて、フィリップは無理矢理にテンションを上げる。せめておんぶだったら搬送状態と言えなくもないのだが、肩車になると完全に子供が遊んでいる絵面だ。
フィリップは普段の倍は高い視点から、全力疾走より少し早いくらいの速度を体感する。
「うわー、馬鹿、爆釣じゃん! このまま夜まで時間稼ごうぜ!」
「いいね! 夜はみんな最強だし、これで無敵だ!」
フィリップはカウボーイ気取りの若者よろしく腕を振りながら、メイドはこの馬鹿げた作戦の意外な有用性に笑いながら。二人ともノリノリで走り始め──
「──はい、ストップ」
目の前に現れた靄がヒトガタを象り、不機嫌そうな顔のミナになった。
衝突にはまだ余裕があったものの、メイドは慌てて急ブレーキをかける。当然ながら肩車という不安定な状態だったフィリップは慣性に従って前方向に振られるのだが、そのままカッ飛んでいくことはない。流石にそれは、メイドが足をしっかりと掴んでくれて阻止された。
──だが、それはフィリップの無事を意味しない。
あわあわとバランスを取ったときに、メイドの後頭部で股間を強打していた。
「うっ……」
声というか、もう断末魔と言っても過言ではないぐらい鈍い声。
ルーシェもミナも肩車してくれていたメイドも女性だからか、肩車から降りるや否や蹲ってしまったフィリップには、同情ではなく懐疑的な視線が向けられた。まぁ向けられる視線に籠った感情が「何やってるんだろう」でも「うわ、今のは痛いよね」でも、痛みが軽減されることはないので、どちらでもいいのだが。
「……大丈夫かー?」
「だ、だいじょうぶれす……」
ぷるぷる震えながらも立ち上がったフィリップだが、向けられる視線は「何やってんだこいつ」という無情なものだ。ミナは多分、男は股間に急所があることを知らないのではないだろうか。金的攻撃をする隙があるなら、普通に首を斬って殺しそうだし。
「何をしていたの? ──私の目には、その子を餌にして悪魔を釣っていたように見えたのだけれど」
「流石ご主人様、慧眼──ひぃっ!?」
ずどん、とメイドの足元に血の大槍が突き刺さった。
冷徹な怒気を孕んだ赤い瞳に睨まれて、フィリップとメイドは抱き合ってあわあわと震える。そんなことはされないと分かっているのだが、下手なことを言えば、石と錬金素材で作られた頑健な城壁に突き立つそれが、今度は頭に突き刺さるような気がする。
「……ねぇルーシェ。私は貴様に、全てのメイドに、「ペットを餌にしてでも時間を稼げ」なんて命じたかしら?」
「い、いいえ、ご主人様。ご命令は「身命を賭してでも彼を守れ」でした……」
ルーシェは震え声ながら返答できていたが、片割れのメイドはぶんぶんと首を振って首肯することしかできていない。
「そうよね。それなのに
「い、いえ、その──」
二人のメイドは主人の怒気に当てられて、まともな応答もままならない。
だが誰が悪いのかというと、間違いなくフィリップが悪い。
言い出しっぺがフィリップというのもそうだが、彼女たちは全員、吸血鬼──不死身の化け物だ。どこまでが「人間にとっても安全」で、どこからが「人間には危険」なのか、その判断基準を体感として持っていない。
フィリップがタレットに籠もって震えながらバリスタを撃っていたならいざ知らず、楽しげに城壁を駆け回っていたら「あ、大丈夫なのかな?」と思ってしまうのも無理はない。
ミナの怒りも、フィリップが危険に晒されたことではなく、フィリップを餌にしていたこと、時間稼ぎに利用していたことによるものだ。
「あ、ご、ごめん、ミナ。二人じゃなくて、僕の発案なんだ。二人は僕が巻き込んだだけで──」
「そうなの? だとしても、きみを餌にしていたことに変わりはないんじゃなくて?」
「それは……その通りなんだけど」
なんとか言い逃れ出来ないかと試みるも虚しい。
まぁそもそも、大真面目に戦争しているメイドたちの傍を物見遊山気分でウロチョロしているべきではないので、叱られて城内に連れ戻されるのは仕方のないことだ。
だが──たとえ遊び気分でも、自分の存在が有用であるのなら、ここにいたい。
不機嫌そうなミナを説き伏せる言葉を無言のうちに模索するが、何も見つからない。
そもそも彼女は、フィリップ同様ペットの戦力化と実戦投入を拒むタイプの飼い主。「ミナの役に立ちたいから」とか「メイドを助けようと思って」とか、そういう論旨ならまず受け入れてはくれないだろう。
「それでも、二人を怒らないで欲しいんだ。悪いのは僕だし──」
ミナの柳眉がぴくりと震える。
怒られの気配には敏感なフィリップはつい口を噤み、一瞬の沈黙が戦場の騒音の中に現れた。
「──悪いのは僕だし、僕のせいで二人が怒られるのは気分が良くないし」
それでも言い切る辺り、フィリップも大概である。
「……ペットちゃん、将来は大物になるな」
「……。」
ぽつりと呟いたメイドの脛に、ルーシェの爪先がめり込んだ。
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