第253話

 ──夜が来た。

 太陽が地平線に消え、朱暮れの空が藍に染まる。


 未だ月の昇らない闇夜。

 しかし、それでも吸血鬼にとってはホームフィールドだ。


 吸血鬼の能力は陽光下で半減し、月光下では倍増する。つまり、日が沈み、月が無い今この状態こそがフラットなもの。


 “もっとも正統な吸血鬼”ミナの配下、彼女が血を吸い吸血鬼化させた下位吸血鬼は、100年を生き1000人の血を吸った上位吸血鬼ほんものにすら匹敵する。陽光さえ消えれば、魔物の一万や十万、たとえ不死身でも恐れるに足りない。


 「──私の配下なら、夜の間に死ぬことはないでしょう」


 玉座に腰掛け、膝の上にフィリップを乗せたミナは、片手で頬杖を突き、片手でフィリップを軽く抱擁しながら呟く。

 いつも通りのダウナーな声に込められた感情は、信頼ではなく倦怠だった。


 「私の目算が正しければ、メイドの消耗が始まるまで11時間。城壁が突破されて、城内に悪魔が侵入するまで6時間。私のところに悪魔が雪崩れ込んでくるまで3時間。夜の間はメイドの消耗が止まることを考えると、プラス10時間だから……30時間くらいは退屈ね」

 「……今夜を抜いて一日と一夜越せば、援軍が来るはずです。なんとか持ち堪えられそうですね」


 ミナの胸に背中を預けたフィリップが言うと、彼女はフィリップを抱きすくめて、首筋に顔を埋めた。

 

 「持ち堪える、ね。私が出れば、殲滅だって可能なのよ? 私が出るのも援軍に頼るのも、そう変わらないと思うのだけれど……」

 「“戦の作法”なんでしょう? 僕には分かりませんけど、そういうものだって聞きましたよ」

 「メイドの矜持というのもあるでしょうね。雑兵風情と主人を戦わせるわけにはいかない、って張り切っているのよ」


 ミナは面倒くさそうに嘆息する。

 溜息にしては妙に冷たい吐息が首筋にかかり、フィリップは思わず身じろぎした。


 「じゃあ、ミナは敵の総大将……誰でしたっけ、あの……マルバスって悪魔が出てくるまでは戦わないってことですね。ディアボリカは……邪悪特攻が無いなら、あんまり意味は無いですか?」

 「……さぁ? 跡形も残さず消し飛ばせば再生しないのなら、アレでも十分に悪魔の軍勢を殲滅できるでしょうけど」


 そうだとしてもアレの手は借りない、と、ミナはフィリップを抱く手に力を籠めることで答えた。


 「ミナは……やっぱり、ディアボリカのことが許せませんか?」


 もしそうなら、フィリップは出来る限り仲直りに尽力するつもりだ。

 ディアボリカのことはどうでもいいが、ミナも怒りに囚われ続けるのは辛いだろうし、家族は仲良くすべきだという場違いな道徳心もある。人間と吸血鬼で「家族」の在り方は全く違うかもしれないなんてことは、全く考慮していなかった。


 神妙に問いかけるフィリップだが、ミナは何故か不思議そうに小首を傾げた。


 「……何の話? アレに何かされたの?」

 「え? いや、ミナが五歳の時に封印されて、100年ぶりに帰ってきたかと思えば、いきなり人間を連れて来て結婚相手だと言い張ってる……から、怒ってるんじゃ?」


 問いに対して、ミナはほんの少しだけ黙考してから口を開く。

 一瞬の沈黙は怒りを鎮めるためのものではなく、単純に、フィリップの抱いている大きな誤解を、どうやって解きほぐすかと考えていた時間だ。


 「きみは100年前に会ったきり、声も顔も覚えていない相手のことを親だと思える? 大切にできる?」

 「いや、僕はまだ11歳なので……。比較になるかは分かりませんけど、僕もお父さ──父と長く会っていないんです。父は貴族の森番に召し抱えられて家に居なくて、僕自身も田舎を出ちゃったので。でも、ちゃんと家族のことは愛していますよ」


 ──多分。


 最後にそう付け加えるのが正解なのだが、それはしない。

 自分で自分の心を抉ったって何の得にもならないし、ミナだってそんなことを言われても困るだろう。そもそも何が愛で何が恋なのかも分からないのだし、家族に対する「死ぬなら正常しあわせに死んでくれ」という思いを“愛”と表現しても差し支えないはずだ。


 「それは親だという認識があるからだと思うけれど……。顔も声も知らない、男か女かもはっきりしないようなモノが、ある日突然「アタシはアナタのお父さんなの」なんて言って家に棲み付いたらどう思う? 古参のメイドはそれを肯定して、魔力や血の質感からすると真実だけれど、主観の記憶に於いては赤の他人。そんな相手を、親だと認められる?」

 「……無理ですね」


 認識は意外と、主観と感情に影響される。

 フィリップが抱いているカルトへの憎悪も、フィリップの──外神の価値観からすると、本来は有り得ないものだ。


 善良な誰かを自らの目的の為に贄とする行為も、人類領域を汚染する邪神に祈ることも、外神の視座からするとどうでもいいこと。

 人間は死ぬものなのだから、そこには正常も異常も、幸福も不幸もない。ただの「死」だ。だから誰が誰を殺そうが、誰が何を信じようが、遍く全ては泡に同じ。特別な対応を取るべき相手では無い。


 ──それはそれとして、僕が嫌いなのでカルトは絶滅しろ。

 

 主観なんてそんなものだ。

 そこに貫徹した論理や道理がある方が稀で、普通は「自分がどう思うか」が最上の判断基準になる。


 ミナの場合は、「ディアボリカは因果上の発生源であり、血の繋がった親である」という事実が、「いきなり現れた不愉快な他人」という主観に負けたのだろう。


 「でしょう? 私はアレを信用していないし、父親面をされるのも不愉快だけれど……それだけよ。別に、アレに対して怒っているわけではないわ。ただ、古参のメイドたちに義理立てしただけ」

 「あー……なるほど」


 これはもう、親子喧嘩とか仲直りとか、そういう次元には無い話だ。

 そう確信したフィリップは、心の中で十字を切った。


 ミナは怒っていない。怒っていないから、許しようが無い。

 二人の関係性は喧嘩した親子ではなく、唐突に現れた親を名乗る他人。修復するような関係性が端から存在せず、ゼロから作り直すしかないのだ。


 そして、ミナは興味のない他人に労力を費やすことを嫌う。可愛いペットと仲良くなるためなら魔剣も使うが、親を名乗る不審者──一応、因果関係的には発生源である──と仲良くなるために使うエネルギーはない。


 詰んでいる。

 二人の関係性は、これ以上先に進みようが無い。


 色々と諦めたフィリップが黙ると、ミナが「そういえば」と何かを思い出した。


 「メイドで思い出したのだけれど、きみ、私やメイドに敬語で話すでしょう? あれは止めましょう。メイドに心労を負わせているみたいだし、私ときみは家族なんだから、もっと砕けた話し方でいいのよ?」

 「……正直、そのうち言われるかなとは思ってました」

 

 サークリス公爵家のメグにも言われたことだが、関係性が主人に紐づく相手──例えば主人の友人や客人などに遜られるのは、使用人としてはよろしくないことらしい。

 フィリップなんかは一般人であり元宿屋の丁稚ということで「丁寧で悪いことは無いだろ」と思ってしまうのだが、それ以上に相手のプロフェッショナルを邪魔することが心苦しい。メグに対しては言われた通りに砕けた対応をしているのだが、やはり、ここでもそうなのか。


 「気を付けます──じゃなくて、気を付けるよ、ミナ」

 「やりにくいなら無理はしないで? きみが自然体で、楽にしていられるのが一番だから」

 「メイドはともかく、ミナは……」


 フィリップが他人に遜るのは癖みたいなものだが、家族や年下相手には普通に話す。モニカも年上なのだが、あのお転婆娘は例外ということで。モニカのサボりが原因で仕事が増えたことや、顔も見たくない相手のいる投石教会まで引っ張られたことや、ナイ神父と出かけるからという理由で──ナイ神父の監視の為に──休日を潰されたことを恨んでいるとか、そういうわけではない。


 まぁモニカのことはさておき、ミナは気配においがマザーと被るのだ。ミナ個人がどうこうではなく、マザーの存在を感じて、勝手に敬語が出る可能性はある。


 ──思えば、初めはマザーに対しても「癖だから」「人前で嫌悪感が出ないように」という理由で遜っていたのに、もう完全に心を許してしまっている。そう考えると、なんだか遠くまで来たなあと意識が遠退く気分だ。


 だって、相手はシュブ=ニグラスだ。

 外神の中でもトップクラスの存在格を誇る、ナイアーラトテップ以上の怪物。自らの感情のみを行動指針として憚らず、それを貫き通すことが出来る超常存在。フィリップへの愛玩の念だけで、三次元世界すら壊すような化け物である。


 ……全然まったく、これっぽちも嬉しくない適応だ。早急にどうにかしたい。

 ミナとマザーを同一視するのも良くないのかもしれないが、逆に、ミナにはフランクに、マザーには丁寧に接することで、シュブ=ニグラスに対して本来持っているべき隔意を取り戻せるかもしれない。


 そんな打算も頭の片隅に浮かんだが、フィリップは最終的に「いや」と首を振って余計な思考を振り払った。


 「いや、なんでもない。ミナがそうして欲しいなら、そうするよ」

 「──ありがとう、フィル」


 強く抱きしめながらの言葉に、思わず息が詰まった。

 蕩けそうに柔らかな声色もそうだが、家族以外が使うことのない愛称で呼ばれて、恥ずかしいやらこそばゆいやらで、照れ笑いが抑えられない。


 何か反撃したいところだが、フィリップはもう「ミナ」と愛称で呼んでいるし、そもそも彼女は名前を呼ばれた程度で照れるような初心さは持ち合わせていないだろう。


 それに──まぁ、なんだ。

 この、上位者に愛玩される下等種という立ち位置は、存外に心地好い。相手が化け物だから──明確に人間に優越する存在だからだろう。


 それもまたマザーによる悪影響なのだが、フィリップはそこには思い至らず、夕食までの時間を穏やかな雑談に費やした。






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