第249話

 フィリップの首元で、ぱき、と小枝の折れるような音がした。

 首の骨を折られたのかと錯覚しそうな小さな音は、骨ではなく、剣の折れた音だ。


 「──、ッ!」


 音が聞こえた──拘束の魔眼が解けたことを認識した瞬間、フィリップは大きくバックステップを踏む。いや、踏もうとした。


 「っ、ぁ……」


 気付いた時には、フィリップはミナの胸に抱かれていた。

 普段より強い力が込められた抱擁を、豊かな胸が柔らかに潰れて受け容れる。心臓を跳ね上げるような感触を味わいながら、逆に鼓動が落ち着くような匂いに鼻腔を侵され、脳がぐちゃぐちゃに掻き回されたように混乱した。


 「──大丈夫」


 落ち着いたを通り越してダウナーな声が耳朶を打ち、意識が揺らぐ。

 一呼吸ごとに脳が痺れ、全身が蕩けるように重くなって、落ちるような、沈むような、むしろ浮いているような不思議な感覚に包まれる。ふと気づくと、フィリップもミナを抱き返していた。


 からん、と、手から零れ落ちた剣の柄が、床の上で硬い音を鳴らした。


 「──大丈夫よ。メイドは大事な家財だけれど、キミはもっと大切な家族ペットだもの。キミを犠牲にしたりなんて、絶対にしないわ」

 「ぅあ……」


 慈愛に満ちた囁き声が、耳孔を浸して脳を犯す。

 膝から力が抜けて、腹の奥がぐっと熱くなった。


 ミナの体温は病的に低いのに、撫でられたところが熱を持って、身体の奥へ染み込んでいくようだ。血管を焼き、骨髄を溶かし、奥へ、奥へ、脳を、脊髄を、心臓を、身体の全部を溶かすように。


 息を吸うだけで悪影響なのに、加速した心臓の鼓動が息を荒げてしまう。


 膝から完全に力が抜けて、ミナの抱擁に全ての体重を預けていることに、フィリップは最早気が付いていない。


 「ぁ──」


 首筋に熱い吐息がかかる。

 ミナの艶めかしく赤い唇が裂け、異常に発達した犬歯が覗いていた。


 血管を貫くための白い牙が、ゆっくりと首筋に突き立てられる。鋭利な先端が薄い皮膚を裂き、柔らかな肉を貫き、芳しい血の流れる血管を破る。


 その寸前で、フィリップはどうにか


 ──それは、それだけは、不味い。


 「──、っ!」

 

 どん、とミナを突き飛ばすように押しのける。

 体幹が違い過ぎてフィリップの方が反発で押されていたが、抱擁から逃れることは出来た。


 ふらふらと距離を取るフィリップに、ミナは不思議そうに首を傾げた。


 「……嫌だった?」

 「……はい。吸血鬼になるのは嫌です」

 

 フィリップは僅かに逡巡して、結局、素直に答えた。

 吸血鬼──化け物を相手に「「お前にはなりたくない」って言うのは酷いかな……」なんて気を遣えるのは、どちらかと言えば美徳だろう。尤も、吸血鬼の側にとっては、無用な気遣いなのだが。


 「吸血鬼にするつもりは無かったのだけれど……。吸血には種類がある、って、前に話したでしょう?」

 「あ、はい。そうだったんですね……ごめんなさい」

 

 吸血鬼の吸血行為は、三種類あるらしい。

 一つは命の吸収。一つは繁殖。この二つは文字通りの生命か、或いは人間としての生を奪う行為だ。


 もう一つ、失血が致命的なものになる前に吸血を止めると、命は増えず、相手が吸血鬼にもならないらしい。人間でいうところの駄菓子を食べるようなもので、栄養意味度外視の嗜好品的な楽しみ方だそうだ。


 「構わないわ。とろとろで眠そうな顔、可愛かったわよ」


 ミナはフィリップを抱き締めて頭頂部にキスを落とし、今度はすぐに離れた。


 「さて……少し、真面目な話をしましょう。今の状況は理解しているのよね?」

 「……はい、勿論」


 普段通り気怠そうな声色のミナと、未だ微妙に平静ではないものの、特に怯えた様子のないフィリップ。

 一部始終を黙って見ていたルーシェが、本当に分かっているのかと聞きたくなるほど平然としている二人だが、状況はかなり不味い。


 城の全周を包囲し、埋め尽くす数十万の軍勢。

 前線部隊であるそれらの後方、城からの狙撃が届かない地平線の向こうには、更に倍以上の後衛兵站部隊が控えている。


 こちらは完全に包囲されており、戦闘員は100名。ミナとディアボリカを足しても102名だ。

 種族的に傷が自動で治癒されるだけあって医療品要らずの吸血鬼だが、食料は必要だ。人間一人から一日に取れる血液は精々500ミリリットル程度。下位吸血鬼なら、それだけ吸えば三日から一週間は飢餓状態にならずに済む。


 ちなみに吸血鬼における“飢餓状態”とは人間のそれより酷く、人間同様の心身両面の衰弱だけでなく、攻撃性の極端な上昇や、理性喪失などの症状が極端に現れる。


 一応、食糧庫にはメイドたちが飢えない程度のストックがあるが、最低限飢餓状態にならないというだけだ。

 ここから先、戦闘の途中で命のストックを減らすこともあるだろうが、その補充は叶わない。相手は無尽蔵の不死身だというのに。


 「業腹な話だけれど、メイドたちと不死身の軍勢では分が悪いわ。私の配下は強いけれど、勝ち目はないと言っていい」 

 「……まぁ、そうですよね。相手は“負けない”わけですから」


 ふんふんと頷くフィリップだが、脳裏に引っ掛かるものが幾つかある。


 「あの……これを外して貰えませんか? 多分ですけど、どうにかなると思います」


 一つは、召喚魔術これ

 フィリップも無数の肉塊が原型を取り戻して軍勢になるところは見たが、あれは恐らく、ぶちまけられた血肉が残っていなければ機能しないタイプの蘇生だ。だったら、クトゥグアで灰も残さず焼き払えばいい。ハスターで魂を攻撃するというのも一案だが、不死身になった中位悪魔で召喚すると、そろそろいい加減、怒られそうでちょっと怖い。


 ……まぁ、クトゥグア召喚はヤマンソがしゃしゃり出てくる危険性があるので、これもこれで怖いのだが。どちらにしても、十数万の悪魔をほんの数秒で葬り去ることが可能だろう。


 フィリップは「多分」「と思います」なんてあやふやなことを言っておきながらも、戦闘ではなく蹂躙を想定し、戦意ではなく嗜虐心に満ちた顔には酷薄な笑みを浮かべている。

 しかし、自信と言うには不健全なものを滲ませるフィリップに、ミナは眉根を寄せて首を振った。


 「人間がどうかは知らないけれど、私はペットを戦わせたりしないわ。それに──これは私たちに売られた喧嘩よ。買うのは面倒だけれど、その面倒を二度と起こさせないように買い叩いて、完膚なきまでに叩き潰しておかなくっちゃ」


 フィリップが防御面では疑似的に無敵のシルヴァを戦わせない理由と同じ理屈を出され、思わず納得してしまった自分に苦笑する。

 ほんの少しだけ照れも混じった笑みを誤魔化すように、わざとらしい真顔を作った。


 「……ミナの魔剣以外で、何か勝ち筋が?」


 ミナの魔剣『美徳』は、強力な邪悪特攻性能を持っている。

 あの魔剣なら、悪魔に再生させず殺し切ることも出来るだろう。だがメイドたちには、不死身の悪魔たちを殺す方法がない。これではジリ貧だ。


 「……あ、空を飛んで逃げるのはどうですか?」

 「……私の話を聞いていたの? 逃げるのも、他人の手を借りるのも駄目よ」

 「あ、そっか……」


 となると、フィリップが想定していたもう一つの案も駄目だ。


 もう一つも、召喚魔術と似たり寄ったりの他力本願。

 今この時もこちらに向かって移動を続けているシルヴァが、ルキアかステラを連れていることに期待する。聖痕者が居れば、あとは神罰請願・代理執行権の行使によって、幾万もの邪悪な存在を腕の一振りで粛清し、撃滅すればいいだけだ。


 流石にあと四日も待っていられるかどうかは不明なので、吸血鬼の誰かがフィリップを抱えて飛んでいき、フィリップが事情を説明。その後聖痕者を連れて帰ってくるという形になるだろう。

 シルヴァの現在位置は大まかにしか分からないが、王都からここまで八時間で飛んだディアボリカなら、それ以下で往復できるはずなのだが。


 ……まぁ、とはいえ、どうせあと四日もすれば、勝手に来て勝手に滅ぼしてくれるだろう。その時には吸血鬼は殺さないようにお願いして……いや、ステラが先手必勝アタックをする前に、どうにかして伝えなくては。


 「キミだけは逃がそうとも思ったのだけれど、対空砲火が想定以上に強くて。下手に撃墜されるリスクを負うより、城の中に居た方が安全だと思うわ」

 「それは良かった。僕だけ逃がされても困りますし、ミナを置いて逃げるなんて嫌ですからね」


 ペットらしく忠犬精神に目覚めたわけでは無く、かといってリップサービスなんて器用なことが出来るはずもないフィリップの言葉は、純粋な本心だった。

 そこに理由は無く、合理もない。ただ「嫌」だから「やりたくない」だけ。ミナを見捨てるのはなんか嫌だな、という感情だけで、逃げるという最良の選択肢を捨てる。


 どうせ死なないので、そう大きな意味のない決断だが。

 

 「……いい子ね」

 「んっ……そ、それより! 勝ち筋の話ですよ! 絶対に負けない不死身の軍勢相手に、どうやって勝つんですか?」


 愛おしそうに頭を撫でられて照れ臭くなったフィリップは、誤魔化すように声のボリュームを上げる。


 「勝ち筋は無いけれど……メイドが命を消耗しない限り、負け筋も無いわ。つまり、城内に入られない限り、私達が負けることは無い」


 ミナの言葉は概ね正しい。

 確かにメイドたちは持ち回りで砲撃すれば、魔力を回復させるだけのサイクルは組める。だから近接戦で命のストックを削りながら戦うような状況にさえならなければ、相当な期間の継戦が可能だ。


 だが監視塔から撃ち下ろしている以上、城壁に取り付かれると弾幕の密度は急激に低下する。城壁上の回廊やタレットから攻撃すればいいのだが、そうなると白兵戦まで秒読みだ。

 城壁を使った攻防にまで発展してしまえば、メイドの消耗は一気に加速する。いや、そこから本当にが始まるというべきか。


 、負け筋は無い。

 だが、それはもう見えているのだ。


 それを分かっていないのかと眉根を寄せたフィリップに、ミナは薄く苦笑いを浮かべた。


 「なんて……補給も援軍も無い籠城戦なんて、軍師が居たら笑われてしまうわね」


 口元は苦笑いではあるものの、ミナの赤い瞳に諦めの色は無い。

 そこにあるのは相変わらずの気だるげな気配と、フィリップが思わずため息を漏らしてしまうほどに、下等種への嘲笑。


 フィリップにとっては見慣れたそれに、思わず余計なことを口走ってしまう。


 「大丈夫です。あの軍勢は、あと四日か五日くらいで完全に崩壊しますから」

 「あら、どうして?」


 理由を問われてから「しまった」と思ったフィリップだが、今更「特に理由はありません」は通じないだろうし、ミナにとってもメリットのあることだ。ここは素直に話しておくべきだろうと思い直す。


 「確定ではないんですけど、あと五日くらいで、ここに聖痕者が来ると思います」


 流石のミナも一撃で自分を殺し得る存在は無視できなかったのか、ぴくりと眉を動かす。

 しかし最終的に形作られた表情は、警戒と言うより、むしろ疑問に満ちたものだった。


 「どうして分かるの?」

 「あ、いえ、確証はないんです。僕の使い魔がこっちに来てるから、多分一緒だろうと思っただけで」


 ルキアかステラか、或いは他の誰かが助けてくれることを期待してシルヴァを置いて来たのだが、「誰かが来てくれる」という確証があったわけでは無い。それは今でもそうだ。流石にシルヴァ一人ではないはずだが、それだって裏付けが取れた事実ではなく、「流石に違うだろう」という推論だ。


 聖痕者──ルキアかステラのどちらかが来てくれる可能性は、五分といったところだろう。「邪神の力でどうとでもなるでしょ」と正しく判断して、完全に放任されている可能性も消して低くないのが怖いところだが。


 「キミが呼んだの?」

 「僕が呼んだというか、ディアボリカが僕を拉致する時に無茶した結果というか……。魔術も無しに助けは呼べないでしょう?」


 フィリップが自分の首元に巻かれた黒い枷を爪弾いてみせると、ミナは「そうね」と端的に納得した。


 「あの男。本当に殺してしまおうかしら。聖痕者なんて、私達の天敵じゃない」

 「いえ、聖痕者とは交渉できると思います。二人とも、僕ごとミナをぶっ飛ばすようなことはしない……はずですし、多分。……流石にしませんよね?」

 「私に訊かれても困るのだけれど……」


 ミナは困り顔でくすりと笑う。

 大人が子供に向けるものの何倍もの軽視と冷笑が籠った微笑に、フィリップは得も言われぬ居心地のを感じて、また声のボリュームを上げた。


 「とにかく! それが僕たちの勝ち筋です。四日か、五日か、それだけ耐えていれば、対悪魔最強の援軍が来ると信じましょう」




 ◇




 四日から五日の耐久という方針に決めたミナは、フィリップを置いて部屋を出ると、大きく嘆息した。


 「場合によっては聖痕者を殺さなくてはいけないのね。……悪魔なんかより、ずっと骨が折れそう」

 「聖人殺し! 先代様の始祖殺しにも匹敵する、大偉業ですね!」


 気負いも恐怖もなく、普段通りの気怠そうな声。

 ぱちりと手を叩いて応じるルーシェの声にも恐れの色は無く、いつも通りに朗らかな笑顔だ。


 人類における対邪悪最強の切り札、腕の一振りで数十万の悪魔を葬り去る、魔王軍にとっての災厄。唯一神陣営における救世主。


 その存在を聞かされてなお、ミナの心中は平穏に薙いでいた。


 「難行と言うのよ。未だ達成できていない偉業はね」


 しかし、流石に楽な戦いとは行かない。

 自分の力量と、想定される相手の能力を比較して判断したミナは、自分以上に気負いのない、何ならもう勝った気でいるメイドに苦笑した。






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