第247話

 千夜城の防衛戦績は、現在のところ、無敗。

 ただし百戦錬磨というわけではなく、極端に少ない母数を一つも取りこぼしていないだけの、「幸運」と言われてしまえば反論し難い戦績だ。少なくとも統計的には有意とは言えない。


 そもそも防衛戦に縺れ込むことが稀なのだ。大抵の相手は──それこそ十数万の大軍勢でさえ、周囲三キロの必中射程圏に入れば、ほんの数秒で壊滅する。

 襲撃回数こそ無数にあるが、城壁に取り付かれ、攻城戦を展開された回数は片手で収まるほどだ。築城から数百年。原初の吸血鬼が立てた巌の如き城塞は、その全てを撃退している。


 最初は悪魔。次は吸血鬼同胞。最も苦戦した天使と人間の連合軍。そして三十余年前に最初とは違う悪魔が襲ってきた。

 

 此度の襲撃は、三十年前にミナが切り捨てた悪魔と同一個体によるもの。

 それだけの月日をかけて地獄から舞い戻った敗者の、雪辱のための戦争だ。


 前回は、あの恐るべき魔剣『美徳』の初見殺し性能に負けたが、今回はそうはいかない。


 自らを武人と認めるマルバスにとって、剣技ではなく、に負けたことは許せないことだ。あの年若い吸血鬼の、才気に満ちた鮮烈な剣技は素晴らしい。だが、それを引き出せずに負けたことは心の底から口惜しい。


 戦闘ではなく、闘いを。

 武器の性能ではなく、身に付けた技量のみを以て身命を削り合う、無為なれど心躍る闘争を。


 求めるのはただそれだけ。

 勝敗などはどうでもいい。三十余年前、ほんの僅かに垣間見せた恐ろしいまでの才能と、正面から対峙したい。


 「──我が数千年の研鑽か、貴様の飢餓じみて苛烈な才能か。確かめ合おうではないか!」


 千夜城のエントランスホールで、獅子頭の鎧騎士が高らかに宣戦する。

 愚鈍な中位悪魔とは違い、マルバス単騎であればあの程度の弾幕は突破可能だった。


 未だ城の見張り塔では無為な掃射が続き、荒野では死ねども死なぬ、死ぬことを許されない最悪の病に侵された悪魔が蘇り続けている。

 撃ち、殺し、起き上がり、撃ち、殺し、起き上がる。射撃手の魔力が尽きるのが先か、軍勢が城壁に辿り着くのが先かは不明だが、この無為な戦闘は悪魔軍の勝利が確定している。


 だが、そんなことはどうでもいい。

 あれはいわば交渉材料。自分を殺さない限り、あの軍勢がこの城を滅茶苦茶に蹂躙するという条件提示だ。


 マルバスはミナのことをよく知っている。

 あれも自分の配下には無頓着な性質だが、自分の寝床が踏み荒らされても「善し」と頷くほどではない。いや、そもそも、あれは外敵を見逃すほど甘い女ではない。


 ──果たして、エントランスホールに冷たい声と、同じく硬質な靴音が響いた。


 「──五月蠅いわね。日も昇り切らないうちに騒ぎ立てる無礼な輩を、客として招くことはないわ」


 こつり、こつり、と緩慢な動きで両階段を降りてくる、黒髪の吸血鬼。

 その赤い瞳がちらりとマルバスを一瞥し──がん! と、重い鉄を落したような音が鳴り響いた。それも一つではなく、瞬間的に連続して複数回。


 「挨拶も無しか! だが素晴らしい、それでこそよ!」


 ミナの放った都合四本の血の大槍を一息に打ち払い、マルバスが牙を剥き出しにして笑う。

 しかし、その愉快そうで、何より嬉しそうな笑顔は一瞬で曇った。


 「貴様……なんだ、それは」


 口を閉じたマルバスが、猛獣の双眸を眇めて問う。

 口元には牙が剥き出しになり、見るからに不機嫌な獣と言った風情だ。


 問いの宛先は言うまでもなくミナだが、という言葉が指すのは別のもの。


 ミナが肩を抱くように従える、未だ幼年の域を出ない人間──フィリップだ。


 かつての傲岸で不遜で、何より孤高で冷酷といった表情は見る影もなく緩み、傍らの人間に愛玩するような目を向けている。マルバスの中にあったミナのイメージがガラガラと音を立てて崩れ、一緒に足元まで崩れ去るような錯覚さえあった。


 「ペットを飼い始めたのよ、最近だけれど……もう可愛くて仕方がないわ。貴様の、あの気色の悪い劣等種どもとは大違いよ」

 

 ミナはフィリップを胸に埋めるように抱擁し、「ねぇ?」と同意を求める。

 “気色の悪い劣等種”というのが軍勢を構成する中位悪魔のことだと分かったフィリップは、流石にあれと同じは困ると苦笑した。


 そんな安穏とした会話も気に障るのか、マルバスは吐き捨てるように言う。


 「……鈍ったな、我が敵手よ。あれからまだたった三十年だろうに」

 「たった三十年前の敗北を忘れた貴様ほどではないわ。以前は確か、一撃で首を刎ねたと記憶しているのだけれど……まさか、また来るなんて。耄碌したの?」


 二人の応酬をなんとなく聞いていたフィリップは、二人の声に敵意らしきものが見当たらないことに気が付いた。

 敵同士の会話と言うよりは、ちょっと仲の悪いクラスメイトとの会話くらいのものだ。敵意も無ければ、当然、殺意も無い。


 ミナも初めに槍を撃った限りで会話の虚を突いて斬りかかるようなことをしないし、獅子顔の悪魔マルバスも、背中に二振りの大剣を携えてはいるものの、抜く素振りは無い。


 もしかして口喧嘩程度で終わるのだろうかと、そんな淡い期待すら抱いてしまうが──それはフィリップだからだろう。城の全周を十数万の軍勢に包囲されたら、普通は怯え切って立つこともままならない。城や戦力に自信があるとしても、敵の首魁を前にすれば、敵意か恐怖のどちらかは抱く。


 ミナに抱かれていてそれどころではないといった様子でもなく、ただ単純に、身の丈三メートルの獅子頭の騎士という異形にも、城を包囲する悪魔の群れにも、何ら感情が動いていないだけだった。


 「……以前のように、我の首を取れば進軍を止めようと思っていたが……止めだ。気が変わった」


 マルバスは大仰に手を振り、何かの魔術を使う。

 展開された魔法陣を読み解くような力を持たないフィリップは首を傾げるが、ミナは不愉快そうに眉根を寄せた。


 「我が軍勢に狂騒の病を撒いた。もはや我が死のうと、四十万の総軍は貴様らを蹂躙するまで止まることは無い」

 「…………」


 脅迫の色は無く、淡々と事実だけを告げるマルバス。


 状況は分かっても意図の分からないミナは首を傾げ、どちらも分からないフィリップは「とにかくこいつを殺せばいいのでは?」と筋肉思考をしていた。


 確かに、指揮官マルバスが死んでも侵攻が止まらないからといって、それはマルバスを見逃す理由にはならない。

 敵なのだから、殺せる時に殺しておけばいい。それはその通りなのだが──四十万の総軍は、吸血鬼メイドたちの手にも、ミナの手にも余る数だ。いや、ミナなら勝ち切れるだろうが、一人一秒でも五日がかりの大仕事になる。


 ミナとて破綻者だ。敵を殺すのに躊躇は無いし、配下のメイドが何人死のうと、たとえ全滅しようと心は痛まない。

 ただ、メイドが全滅してしまうと、再生産は一朝一夕ではない。それに何より、城の修繕と掃除を担う者が居なくなってしまう。それが何より面倒だが──まぁ、面倒なだけだ。


 「我はこの三十余年、雪辱を誓って研鑽を重ねた。貴様に勝つ、それだけを一心に考え続けた。……だというのに、その為体。失望したぞ」

 「……? 不思議な物言いをするわね。貴様、私の好敵手にでもなったつもりなの? 貴様に期待される謂われも、失望される筋合いも無いのだけれど」

 

 ……沈黙があった。


 言いたいことを言い終えたミナはフィリップを抱き寄せて撫で回している。この空間で幸せそうなのは、彼女一人だけだった。


 マルバスは拳を握り締めて、鎧が擦れてガチャガチャ鳴るほど小刻みに震えている。怒りか羞恥かは不明だが、ポジティブな感情でないことは確実だろう。

 なんせ、フィリップが共感性羞恥で居た堪れなくなっているほどだ。居た堪れなさすぎて、思わず助け舟さえ出してしまう。


 「……あー、ミナ? あれとは知り合いなんですよね?」

 「三十年前の大襲撃のときに斬り殺した悪魔ね。魔王の配下、ゴエティア72柱の悪魔で、名前は確か……マルバスだったかしら」


 良かった、知り合いではあるらしい。

 一先ずそう安堵したフィリップだが、マルバスとミナの経験の記憶が同じなら、相互認識の齟齬が与えるダメージはより大きくなるというものだ。ライバルだと思って、三十年もその相手に勝つために修行してきたのに「あぁ、そういえば居たねそんなの」みたいな反応をされたら、憤慨もひとしおだろう。

 

 マルバスは牙を剥き出しにして、獣じみた唸り声を漏らす。


 「三十年前の貴様は、美しいほどに冷酷だった。あの在り方は我らが首領、魔王陛下を彷彿とさせた。……それが、なんだ、そのザマは」


 唸り声を上げながら同時に言葉を発する高位悪魔。魔術的な力が働いているのか、どちらもはっきりと聞き取れる。

 恐ろしいのは、その二つから全く同じ感情──憎悪や殺意と言った負の感情が大量に混ざり合った、強烈なまでの“排除”の意思を感じることだ。


 「──、っ」

 

 肉食獣の双眸に睨まれて、フィリップは思わず息を呑む。


 死ぬ、とは思わない。

 三メートルを超す体格、隆起した筋肉、見事な甲冑、鋭利な牙と巨大な双剣。どれも驚異的だが──脅威ではない。そんな程度のものに脅威を感じるほど、健常な精神はしていない。


 だが、肉体は健常だ。

 血肉が、骨の髄が、ありとあらゆる細胞が──遺伝子が刻み付けた本能が、巨大な肉食獣を恐れよと叫んでいる。弱者を屈服させるような眼光を、自分を噛み砕くさまを想起させる鋭い牙を、勇壮で威厳のある鬣を、畏れよと叫んでいる。


 ──死ぬ、とは思わない。だって全く、これっぽちも脅威ではない。


 けれど。


 ──喰われる。精神性ではどうしようもない、身体の正常な機能として、そう怯えてしまった。


 「──惰弱な」


 フィリップの身体が抱いた恐怖を見透かして、マルバスは不愉快そうに吐き捨てた。

 獣は発達した嗅覚によって相手の感情を把握することができるらしいが、マルバスは人間を惑わし、弄ぶ悪魔だ。獣よりも直接的に、僅かな表情の変化や仕草なんかで内心を読み取れるのだろう。


 そして、それはミナも同じだった。


 「──私の居城に軍勢を差し向け、赦しも無く踏み入り、剰えペットを怖がらせるなんて……死にたいのなら、余所で勝手に、独りで死んで頂けないかしら?」


 フィリップの怯えを感じ取り、ミナの腕に力が籠る。

 マルバスと同じかそれ以上の不快感を双眸に湛えて、階段の上から不届きな侵入者を睥睨する。


 荘厳な古城の内装も相俟って、美女と野獣のファンタジーロマンスの一幕のようにも見えるが──その実は、獣と狩人と言ったところだろう。


 ミナがフィリップから離れ、階段を二つだけ降りる。

 フィリップを庇う位置。そして、吸血鬼の超常的な身体能力で以て踏み込んだとき、一撃で悪魔の首を落とせる位置だ。


 「──戦意の鋭さや善し。だが……無粋だ。守るための戦意など、あまりに無粋。かつての貴様の、あの戦うための戦意を穢すに等しい!」


 だん、と響きを上げて、マルバスが両手を突く。

 まさしく四足獣、本物の獅子のような姿勢だ。ぎぎぎ、と鎧が軋むほどの筋肉の隆起は、力の蓄積が爆発寸前であることを示していた。


 


 フィリップは戦闘経験や観察力ではなく、本能で悟る。


 果たして、獲物に跳びかかる獅子の動きで跳躍したマルバスは、その一挙動で十数メートルの距離を一息に詰めた。

 空中で背中に手を回し、刃渡り二メートル近い極大の双剣を抜き放つ。やや湾曲した曲刀にも見えるが、曲刀より厚く太いそれは、むしろ刃先の曲がった包丁か鉈だ。


 抜刀という、両足を付いていても軸のブレる行為を跳躍中に行っているのに、隙の一つも見当たらない。フィリップがロングソードに触れ始めたのは最近だが、羨ましいほどの技量が見て取れた。


 その技量──殺傷能力の宛先は、感心したように目を瞠っているフィリップだ。

 ミナが眉根を寄せるのに数瞬遅れで気付いたフィリップは、獅子頭の悪魔を無感動に見返した。


 身体は動かない。

 自分に向かって跳びかかってくる大型肉食獣を前にして、全身の細胞が凍り付いている。不随意に──僅かな冷笑さえ浮かべているフィリップの意識とは関係なく。


 「此奴を殺せば、貴様の冴えも多少は戻るであろうよ!」

 「愚昧な……」


 甲高く澄んだ剣戟の音が、エントランスホールに木霊する。


 二刀を持つマルバスとミナは、二人共に振り抜いた姿勢で一瞬だけ視線を交わした。


 マルバスが繰り出した攻撃は、都合四回。

 左手が僅かに早い──コンマ一秒以下のズレだが──交差する斬り下ろし。そして手首を返した交差する逆袈裟。


 刃物の大きさと込められた腕力を加味すれば、一発でフィリップを挽肉に出来る威力だろう。それが一呼吸の内に──音が全て重なるほどの一瞬で、四回。


 巨体に見合わぬスピードもそうだが、動きの精度が凄まじい。

 動きそのものは見えなかったフィリップだが、あの音は知っている。高い技量を持った者同士の剣戟が奏でる、特有の音。刃同士が最も切れる角度でぶつかり合い、肉を割き骨を断つのに十分な力が込められている証だ。


 マルバスはバックステップを踏み、階段の下まで戻る。あの巨躯では、身軽なミナに頭上を取られた状態で戦い続けるのは厳しいと判断したのだろう。

 迂闊に追いかければフィリップを殺されるという確信があるからか、ミナは追撃に血の槍の魔術を選んだ。


 「守る動き、守る戦意。……つまらぬ。我と貴様の闘争は、そうではないだろう!?」


 マルバスが吼える。

 

 ディアボリカが受け止めるのに両手を使う血の槍を、マルバスは右手の剣だけで捌いた。それも一本や二本ではなく、六本の連続掃射だ。


 「私と貴様との間に、そう大層な関係性は無いでしょう? 私は三十年前に貴様を殺した、貴様は三十年前に私に負けた。それで終わりよ」

 「終わりではない! 我の闘志が、熱病のように心を浮かせる衝動が燃え続ける限り、我が闘争は終わらぬ!」


 獰猛な笑顔──失礼かもしれないが、ルキアと戦っているときのステラによく似た笑顔で、マルバスが宣言する。

 あの二人の関係性と違うのは、ルキアのように満更でもなさそうな可愛げのある表情を、ミナが一切浮かべていないところだ。彼女は徹頭徹尾、冷徹を通り越して気怠そうな顔だった。


 「面倒な……そうね、この子と同じくらい可愛くおねだりしたら、一戦くらい付き合ってあげるけれど」


 ミナの艶めかしく赤い唇が嘲笑の形に裂け、異常に発達した犬歯が覗いた。


 婉曲ではあるが曲解のしようがない拒絶を、マルバスは忌々しそうに受け止める。

 だが受け容れたわけでは無い。深い嘆きと悲しみを湛えた視線は、未練がましくミナに縋り付いていた。


 獣の双眸が僅かに動き、フィリップを忌々しそうに眇める。

 そして──牙を剥き出しにしていた口元に浮かんだ凄惨な笑みを、フィリップとミナは見逃さなかった。


 「では、こうしよう──!」


 マルバスは左手の剣を窓の外に差し向けると、また何かの魔術を使う。

 攻撃ではなく、先程の狂化のような軍勢を変化させる系統の魔術であることは分かる。


 フィリップに向けた攻撃ではない。あの剣の切っ先が向けられていたとしても、フィリップ自身に何ら影響がないことは、直感的に理解できた。


 それなのに、同じくらいの直感で理解した。


 ──今の魔術は、不味い。


 直感が──精神ではなく肉体が怖気を催し、この場からの逃走を強く推奨してくる。

 獣の咆哮のような、本能的な忌避感を覚えさせる魔術? ──否。これはもっと、どうしようもなく恐ろしいものだ。


 「我が軍勢に病を撒いた。人肉を喰らうまで決して癒えぬ、アバドーンの如き飢餓の病だ」


 食人病、とでも言えばいいのか。

 人間を食べるように調教された獣より、なお恐ろしいものが城の外を這いまわっている。それも、十数万と言う大群で。


 手が震える。

 足が竦む。

 焦点が合わない。


 なのに──フィリップの心は至って平穏だった。むしろ、恐怖した反応を続けている自分の身体の不随意性の方が、よっぽど怖い。


 フィリップの肉体と精神のズレには気付かず、マルバスに対して怯えていると勘違いしたミナは、フィリップを安心させるように抱き寄せた。


 その甘さ──これまでなら不快感を催していただろう光景に、マルバスはもう眉根を寄せたりしなかった。


 「我が軍勢は其奴が死ぬまで決して止まらぬ。守るための戦意など無駄なものの所為で、貴様は配下と城を失うのだ!」


 





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