第246話

 冒険者襲撃の翌々日。

 相変わらずミナに愛玩される日々を過ごしていたフィリップは、耳障りなベルの音で跳ね起きた。


 例の接近者警報の鈴の音が「ちりちりん」くらいだとしたら、朝の微睡を吹き飛ばすそれは「じりりり!」と表現できる、目覚ましのような音だった。


 窓のカーテンの隙間から差し込む朝日は、まだ長い影を部屋の壁に投げかけている。もぞもぞとヘッドボードに手を伸ばして懐中時計を取り上げると、まだ朝の六時前だ。


 「……ミナ、なんですかこの音」


 隣で眠っていたミナを揺り起こすまでもなく、彼女も不愉快そうに呻きながら上体を起こす。

 ミナがメイドに身支度をさせる間に状況を把握しようと窓に近付いたフィリップは、地平線が土の色に霞んでいることに気が付いた。


 「……砂嵐?」


 耳障りな鐘の音も消え、普段の静寂を取り戻した部屋に、フィリップの呟きが吸われて消える。

 しかし吸血鬼の聴覚は誰に聞かせるためでもない独白をきちんと拾い、「いいえ、違うわ」と答えてくれた。


 「確かに巻き上げられた砂塵ではあるけれど、気候によるものではないわね。軍勢の行進──幾千幾万の蹄が巻き上げる、戦火の靴跡よ」

 「軍勢? あれが全部……ですか?」


 半信半疑で、もう一度窓の外に視線を向ける。

 煙る地平線──よく見るとその少し手前に、土を蹴立てる“何か”が蠢いていることは分かった。


 だが、軍勢? ドールかクトーニアンの群れだと言われた方が、まだ納得できる土煙の上がり方だ。あれが人間の軍勢だとしたら、100人や200人では到底足りない規模だろう。一万? 二万? 或いはもっと? 対吸血鬼用の武装をしているのなら、本当に攻城戦も可能な数だ。それも、大幅に優勢で。


 「そうよ。あまり窓には近付かないで。狙撃されても守ってあげるけれど、そもそも撃たれない方がいいでしょう?」


 ミナの言う通りに、フィリップは素早く窓際から離れる。

 あの軍勢の中に監視塔にいる吸血鬼と同等の狙撃性能を持った魔術師が居れば、もう射程圏内だ。


 「どこの国の軍隊ですか? 王国……にしては早すぎますし」


 王国がフィリップ救出に動いたにしては、到着が早すぎる。かといって他の国が攻めて来たのだとしたら、大山脈を超えてきたか、暗黒領内を迂回してきたか、王国領内を通ってきたかの三択だ。


 大山脈は標高10000メートルもの雄峰を擁し、大陸を東西に分断する超長大な山脈だ。街道を通らずに軍隊が越えられるようなルートは、未だに開拓されていない。


 暗黒領内の迂回なんて、それこそ自殺行為だ。どの国の軍略家でも、そんな選択肢は取らない。


 大山脈を街道沿いに通過して王国領内を通るルートはあるが、あんな大軍勢の通行を許可する国があるとは思えない。ステラは自分の目が届く範囲なら許可しそうだが。


 一番現実的な説が二つ目の迂回案な時点で、目の目の光景がかなり非現実的なものに見えてくる。


 しかし──それらが人間ではないのなら、話は別だ。


 「悪魔の軍隊よ。大方、三十年前の雪辱戦でも仕掛けに来たのでしょうね」


 ミナはいつものように気だるげに言う。

 窓の外、遥か遠くで、人外の咆哮が聞こえた気がした。




 ◇



  

 千夜城を取り囲むのは、その大半が中位悪魔と呼ばれる魔物だった。


 強い魔物ではない。

 魔術師数名と生贄を要する儀式行使によって、人間が使役することも可能だ。筋力・魔力・耐久力を平均的なレベルで備えているが、特化して鍛えた人間には敵わない。戦士職の衛士には筋力で、魔術職の衛士には魔力で劣る程度だ。


 ただし、寿命を持たない点では人間より優れている。儀式行使によって実質無尽蔵に召喚できるという性質を、不死身と表現してもいいだろう。


 本物の吸血鬼と比べると流石に見劣りするものの、下位吸血鬼ならキルレシオは1:10程度にまでなる。つまり、下位吸血鬼一体を殺すのに、中位悪魔が10体いればどうにかなる。


 それが──およそ30万。

 城の全周を包囲する、単純計算で三万の下位吸血鬼に相当する数的戦力だ。


 盾を構え、槍を携え、鎧を纏う悪魔の軍勢。

 その全てが錬金金属に付与魔術を重ねた、衛士団の本気装備と同等のもの。


 この膨大な戦力は、しかし、ほんの一部に過ぎない。だ。より後方一キロ辺り、城からの砲撃が届くか届かないかの距離には、食料や武器を乗せた馬車や、平地戦用の戦車などが控えている。


 悪魔たちは牙を剥き出し、唾を飛ばして哄笑する。

 この圧倒的な戦力を前に、石壁の奥に逃げ籠り、震えて眠ることになる無様な蝙蝠の姿を想像して。それを嘲笑い、嬲り、犯し、喰らい、踏み潰す様を夢想して。


 げらげらと下品に笑いながら、武装を鳴らして行軍する。

 地平線上、陽炎に揺れていた城がはっきりと見えて──何かがきらきらと瞬いた。城を眩く照らすほどの輝きは遠目にも美しく、その綺麗なものを穢すことを思うと、悪魔たちの哄笑は一段と勢いを増した。


 行軍の速度が増す。

 このまま一息に荒野を駆け抜け、城壁を砕き、吸血鬼を鏖殺する。悦楽に耽る未来だけを想像して進む彼らは、まさしく波濤。石を投げ入れようと、壁で堰き止めようと、飛沫を立てるのが関の山。大波の流れを止めることは出来ない。


 ──同等の大波を以てしなければ。


 城に瞬く無数の煌めきは、その全てが膨大な魔力の発散による発射炎マズルフラッシュ

 一つの狭間から毎秒二発の間隔で撃ち出された大矢は、全周で1000発を超える。一発当たりの破壊範囲は、弾道上の全て。


 音速を超えて飛来した槍のような大矢は、隣で馬鹿笑いしていた同胞を殺す光景を見せたあと、一瞬だけ遅れて爆音を鳴らす。すぐ側の死に驚いた直後には、自分の胴体も吹き飛んでいるような攻撃密度。


 鮮やかに赤い血の大矢が織りなす、血の大波。

 血で作られ、血を撒き散らし、悪魔の波を血の一色に染め上げて呑み込む激浪。


 悪意と嘲弄は、怒涛を以て反転する。


 吸血鬼は、化け物だ。

 鍛えた人間程度の存在が群れたところで、どうにもならない。


 一枚の岩のように厳然と立つ、吸血鬼の古城。その円周約二キロに円を描くように、赤いインクがぶちまけられた荒野。


 弾幕の余波が蹴りたてた砂塵の中にたった一人、悠然と──或いは傲然と、立っているモノがいた。


 「──我が軍勢をこうも容易く蹴散らすか。流石は、我が仇敵の配下。その居城を守る手立ては十全か」


 三メートルを超える背丈のヒトガタは、どす黒い赤の甲冑に包まれている。

 異常に発達した人間でないことは、勇壮な鬣を蓄えた獅子の頭を見れば一目瞭然だ。


 獅子の頭を持った騎士。その双眸は特徴的な金色で、愉快そうな独白に際しては口が動いていなかった。


 高位悪魔──ゴエティア72柱の悪魔と呼ばれる、中位悪魔なんぞとはワケが違う、本物の上位種。千年もの存在歴を持ち、唯一神に敵対する魔王の配下だ。

 

 「い。好いぞ。そうでなくてはな」


 口を開けることなく呵々大笑したかと思えば、ナイフのような鋭い牙の並ぶ口がにたりと裂ける。そして。


 「我が不死の病に侵されし従僕たちよ、病と治癒を統べるマルバスの名の下に命じる。我が呪詛に従い、進軍せよ」


 ──ぞる、と、耳障りな音がする。

 音は一つではなく、無数だ。あまりにも多すぎて、却って一つに聞こえるほど。


 ぞる、ずる、べちゃり。そんな湿った音が無数に連続して──が起き上がった。ぶちまけられた血が、臓物が、骨粉が、逆再生のように元の形に戻っていく。


 ものの十秒ほどで完全に復元した悪魔の軍勢は、死んでも生き返るという全能感に浸りながら、より大きく、より傲慢に哄笑しながら進軍を再開した。


 「いま征くぞ、我が恥辱の根源。忌まわしき好敵手よ──!」


 








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