第243話

 ミナの首筋を目掛けて繰り出された横薙ぎの一閃は、右手の魔剣『美徳』によって、簡単に防ぎ止められた。


 大の男、それも全身をくまなく鍛えて無駄を削ぎ落した、剣を振るために最適化された戦闘機械のような男が全身を使って振ったツーハンドソードが。


 「──化け物が」


 剣士の男ヨハネスの呟きに、フィリップは深く同意する。

 ミナは腕を下げたまま、手首の動きでエクスキューショナーソードの切っ先を上げただけだ。フィリップが喰らえば吹っ飛ぶような剛撃を、手首だけで受け止めたということになる。


 「支援魔術の時間くらい待つわ。あの子を楽しませるための余興だもの」


 気だるげに、そして何の気負いもなく言うミナ。声には微かに嘆息さえ混じっている。

 二振りの魔剣のうち、起動しているのはロングソード『悪徳』だけ。黒紫の靄は出ているが、エクスキューショナーソード『美徳』は陽光のような輝きを放っていないし、ミナもガントレットを付けていない。全く本気ではない証拠だ。


 傲慢、或いは挑発とも取れる言葉に、ヨハネスは舌打ちを漏らして剣を引いた。

 腹は立つ。殺意も湧く。自分を侮る怪物に対するものと、自分を喰らう怪物から逃げるための二種類の殺意だ。

 

 だが、駄目だ。今の一合、たった一太刀で理解した。

 この相手は──眼前の怪物は、獣性に曇った業前で勝てるような、生温い使い手ではない。


 人間以上の膂力。人間以上の視力。人間以上の速度。そしておそらく──人間以上の、才能と研鑽技量を持っている。


 「……イングリット、頼む」

 「任せて。《ハイ・レジスト》《ハイ・ストレングス》《ハイ・アジリティ》《ウォー──、っ!」


 イングリットが途中で大きくふらつき、魔術の詠唱が止まる。

 それが盛れるだけのバフを盛り終えた完遂によるものではなく、彼女自身に何かアクシデントがあったことは傍目にも明白だった。


 「魔力切れ?」


 不思議そうに、或いは失望したように呟くミナ。

 それなら、もう待つ必要はない。支援魔術の無いヨハネスも、魔力の切れたイングリット魔術師も、もはやミナのサンドバッグにもなり得ない。ペットのためのレクリエーションにも使えない、ただのゴミ。


 女の方は銀の血高級品だが、男の方は本当に不必要だ。わざわざメイドにゴミを拾いに行かせたのかと思うと、無為すぎて笑えてくる。


 だが、イングリットとてAクラスの冒険者だ。

 生命力を代用した詠唱もできるし、魔術師らしく、もっとクレバーなやり方も修得している。


 イングリットが慌てたように杖を構える。二節の詠唱の後に杖の先端に飾られた宝石が光を放つと、イングリットはまた支援魔術の詠唱を再開した。


 「──『フェーズトランジション』? 随分と準備がいいのね」


 ミナは血のように赤い目を感心したように細めて、オーパーツに封じられていた魔術を一目で看破した。


 生命力を魔力に変換する魔術『フェーズトランジション』。

 威力が落ち、効率も悪く、更には継戦能力が低下する代用詠唱が、それを挟むと幾らかマシになる程度の、攻撃でもなければ防御でもない魔術。長期戦を想定するなら使えると便利だが、使った分だけ継戦能力が落ちるため、むしろ超長期戦では使えないキワモノ。


 そんなものを記憶詠唱ビフォアキャストしておく辺り、それなりの戦闘経験があるのだろうと推測できる。

 その後に積まれた『ウォークライ』『エンチャント・シルバー』はオーソドックスなバフだが、武器の耐久度を上げる『デュラビリティ』も使っていたのも高得点だ。


 剣は、意外と折れやすい。

 それを知っているのか、或いは、剣を剣で切り飛ばすような化け物と戦ったことがあるのか。たとえばミナのような。


 「……準備は終わりね? なら、ちゃんと遊んで頂戴。あの子と──私を、ちゃんと楽しませて?」


 ミナの声色には、言い知れぬ艶があった。

 魔性だ、と、階段の上で観戦するフィリップと、剣を構えて対峙するヨハネスの心情が一致する。


 男を誘惑して堕落させる、妖艶な化生だと、フィリップは思った。


 人と同じ姿で、人と同じ武器と技を使うくせに、人とは全く違う行動基準を持った魔物だと、ヨハネスは思った。


 「は──ッ!!」


 戦意か、恐怖か、或いは“後手に回ったら死ぬ”という直感か、ヨハネスが先んじて動く。

 フィリップが目を瞠るほどの速度──仮想敵として空想している想定上のウォードどころか、記憶にあるソフィーやマリーの全速より、なお速い。踏み込みも、肩甲骨と肩を回して繰り出される、突きのような軌道の斬撃も、フィリップがこれまでに中では最速だ。


 だが、見える。

 見えてしまう。


 ディアボリカやミナのような、動体視力をぶっちぎる速度ではない。


 人類であるがゆえの限界か? 或いは20代後半くらいに見える男の、まだ浅い蓄積から来る限界か? どちらでもいいが──そこ止まりなら、吸血鬼には決して勝てない。


 「うっ!?」


 ヨハネスが苦悶の声を漏らし、攻撃を中止して下がる。

 ミナの持つエクスキューショナーソード『美徳』の刃を持たない先端部分が、ヨハネスの顎を下から突き上げるように押さえていた。


 「一回、二回……」

 

 揶揄うようなカウントと共に、ミナの左手が蛇のように動き、ロングソード『悪徳』の刃がヨハネスの内腿を撫でる。

 大腿動脈を傷付けるような深さではない。浅く、しかし痛みだけは与えるように、きちんと血が出る深さで。


 「イングリット!」

 「《ライトニング・ピアース》!」

 

 体勢を崩したヨハネスをカバーする形で、貫通力に長けた雷撃が飛ぶ。

 魔術で生み出された雷そのものは雷速に至るが、無詠唱でないのなら発動には一秒弱を要する。ミナが魔力障壁を展開して防いだのは、フィリップにも予測できる当然の結果だった。


 「……」


 ミナは『美徳』の切っ先を向けて照準し、血の槍を生み出して空中に浮かべる。

 即座に魔力障壁を展開して防御の構えを取るべき状況だが、しかし、イングリットは不敵な笑みを浮かべてミナの目を見据えた。


 フィリップにとっては意外な行動。だが、イングリットにとっては当然の行動だった。


 当然、防御など必要ない。

 ヨハネス前衛が健在で、彼が間合いの中に敵を捉えているのだから。


 「──俺だけ見てろよ、色女」


 血の槍を切り飛ばしたヨハネスが、バックステップを踏みながらニヤリと笑う。

 好戦的で獰猛な、歯を剥くような笑顔に、ミナは不快そうに眉根を寄せた。


 「……それ、吸血鬼私たちはあまりいい意味では使わないのだけど?」

 「おう、人類俺たちもそうだぜ、クソビッチ。無駄に色気振りまきやがって、人間が化け物に欲情するかっつーの」


 中指を立てて挑発するヨハネスに、ミナはむしろ「何言ってるんだこいつ」と言いたげな小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべた。


 「イングリット! 加速をもう二段階、頼む!」

 「了解! 《レッサー・アジリティ》《アジリティ》」


 通常、補助魔術は一人に対して、同じものを同時に掛けることはできない。だが、同系の魔術でも程度が違うものを重ね掛けすることは可能だ。


 二度、三度と素振りされるツーハンドソードは、もはやフィリップでは見えないほど加速した。

 ヨハネスの筋繊維も悲鳴を上げているが、ここで無理をしなければ、二人そろって死ぬだけだ。ここが正念場、全身全霊を賭すべき場面。


 「っ……オーケー、この塩梅か。よし……」


 たった数回の素振りで筋肉にかかる負担の閾値を見つけ出したヨハネスは、速度を八割ほどにまで落とす。それでも十分に速く、フィリップには視認できない領域に留まっていた。


 ツーハンドソードが正眼に構えられる。

 刃渡り150センチ、身幅10センチもの威容を誇るツーハンドソードは、大振りで豪快な武器だ。術理どころか刃が無くても振り回すだけで十分に脅威になる、長大な鉄塊。


 多少乱雑に扱っても壊れない。たとえ一部が刃毀れしたとしても、全体の殺傷力に影響は無い。

 鋭利さを以て切り裂くよりも、その重量で叩き切る──方が向いている。テクニック最重視のウルミとは対極にあるような、パワー型の武器。


 だが、ヨハネスの動きには、むしろ刃の薄いサーベルなどを扱うような、繊細で緻密な技術があった。特に肩甲骨や腰回りの動きなどは、ウルミ使いのフィリップの目から見ても羨ましいほど柔らかい。


 単純に上から下へ振り下ろすのではなく、むしろ前から後ろに突いて引くような軌道の斬撃。横から見ると、円ではなく楕円形の動きで、ツーハンドソードが振るわれる。

 自傷行為になるギリギリまで速度を上げた、ヨハネス自身が笑ってしまうほど速い一撃。


 それを、


 「三回……四回……」


 悠々と、いっそ優雅な動きで、踏み越える。


 ミナの動きは、フィリップがギリギリ目で追える程度の速度だ。何をしたのかも分かった。

 一呼吸、ヨハネスの剣が前に出て振り戻されるまでの間に左脇を抜け、ついでにロングソード『悪徳』で、また体表だけを撫でていった。上腕の内側と背中側の軽鎧の隙間──上腕動脈と、腎臓の位置。どちらも急所だ。カウントは、「何回殺せた」という意味なのだろうか。


 「……すごい」


 フィリップは思わず呟く。

 その心中には、大きな驚愕と称賛、そして僅かな敬意までもがあった。


 ミナの動きは柔らかく、淀みがない。ワルツでも踊っているように優雅な所作だ。

 だが、遅くない。全く、これっぽちも、遅いと感じない。


 異常だった。

 脳が壊れたのか、目がおかしくなったのか、感性に異常を来したのか。目以外はとっくのとうにイカレているフィリップが、柄にもなくそんなことを考えてしまう矛盾。


 目で追えないトップスピードには決して至らないのに、傍目には悠然と歩いているようにさえ見えるのに、絶対的に「速い」。

 フィリップの“拍奪”のような特殊技術の為せる業ではない。それは純然たる出力限界の差だ。フィリップには伝わらない喩えだが、自転車の時速30キロと、戦闘機の時速30キロでは、同じ速度でも意味が違うという話。


 「ッ──!?」


 ヨハネスが慌てたように足を切り返し、振り向きざまに攻撃する。

 先程の一撃よりも荒く、繊細さに欠ける動きだが、無理もない。ヨハネスの後ろに回ったということは、後衛のイングリットが無防備になったということだ。前衛としては、まずヘイトを買って、次に立ち位置を交換する必要がある。


 焦りからかやや大振りになったツーハンドソードを、「悪徳」が下から掬い上げていなす。ミナ自身はその下を掻い潜り、またカウントと共に足首と膝裏を浅く斬った。アキレス腱と、膝窩動脈の位置。またしても急所だ。

 

 「クソッ!?」


 痛みか、屈辱か。罵声を吐いたヨハネスがバックステップを踏んで距離を取る。


 傍から見ているフィリップにも分かるほど“遊ばれている”。

 彼我の存在格差を受け容れて、その冷笑を心地良いとさえ感じているフィリップが、「あれは不愉快だろうな」と共感できるほどに、ミナの表情は冷笑と揶揄に塗れている。


 ──児戯。

 そんな言葉を、ミナ以外の全員が脳裏に浮かべる。


 これはもう、子供の遊びだ。

 ただし捕えた羽虫の肢を捥いで殺すような、残酷なものだが。

 

 いつでも殺せる。

 その「いつでも」はミナが飽きた時なのだろう。そう思っていたフィリップだが、ミナはふわりと舞うような動きでバックステップを踏み、フィリップの座る階段の下まで下がった。


 「さぁ、きみの待ち望んだ魔剣の開帳よ。あれぐらいの技量なら、まぁ、ギリギリ使ってあげてもいいわ」

 

 さっきから使ってたじゃん、とは思わない。

 『悪徳』も『美徳』も、ただモヤモヤが出て光るだけの武器でないことは明白だ。その真の力が露わになるというのなら、瞬きの間すら惜しいくらいだ。余計な事を考えている暇は無かった。


 「よく見ていなさい」


 ミナの右腕に漆黒のガントレットが装着される。

 魔力によって作り出されたそれは、魔剣『美徳』の邪悪特攻がミナ自身を傷付けないようにするための防具だ。


 魔剣が、ミナが、その性能の何割かを解放する姿。

 間違いなく遊びの範疇ではあるが、決して純度100%の遊びではない証。


 白銀の断頭剣が光を放つ。

 陽光のように明るくはあるが、夏の日差しのように苛烈で、心の安らぐような温かさは無い。邪悪なるものを払い除けはするが、善良なるものを守ることは無い、徹底的に攻撃的な光。


 「──、ぁ?」


 カチャカチャと、金属同士の触れ合う音がする。音源は言うまでもなくヨハネスの軽鎧だ。

 本気の一端を見せた吸血鬼に、魔剣に怯えた──そんなはずはない。彼とて歴戦の冒険者、剣士であり、決死の覚悟でこの城に来たはずなのだから。


 だが、彼の四肢は明確に怯え、震えている。ミナはまだ剣を構えてもいなければ、彼に近付いてもいないというのに。


 身体の末端が震え、歯の根が合わなくなり、急激に喉が渇いていく。

 全身の細胞が過呼吸状態に陥り、息を吸っても吸ってもいつまでも息苦しい。鼻腔が膨らみ、目が揺れて焦点が合わなくなる。汗腺が開き、冷や汗が顎から滴り落ちた。


 「ヨハネス、どうしたの?」


 カチャカチャと喧しく震える仲間を心配するイングリット。


 ヨハネスはねばついた唾液を喉に詰まらせながら嚥下して、


 「お、おれ、俺は……


 そう、絶望を呟いた。


 「な、なに? 何をされたの? 魔剣の力?」


 イングリットは慌てながら、頭の片隅で懐かしさのようなものも感じていた。

 ヨハネスは強いが、初めからずっと強かったわけではない。駆け出しの頃はゾンビやスケルトンにビビり散らかしていたし、腕の骨が見えるような大怪我をしたときには「もう死ぬ、死んじゃう!」と泣き喚いていたものだ。


 あれはまだ、ヨハネスが13歳くらいの頃だったか。


 今やヨハネスもイングリットもAクラス冒険者。今年で23歳だ。

 その彼が、冒険者になりたてのガキのように怯えて膝を笑わせながら、譫言のように自分の死を語っている。


 魔剣による恐怖の喚起──魔術『フィアーオーラ』のような能力なのだろうと推察したイングリットだが、違う。


 「……これに引っ掛かる程度なら、魔眼を使うまでもないわね」


 ミナは薄く嘲笑し、無造作に──それでも優雅な足取りだが──一歩、ヨハネスに歩み寄る。

 一歩ずつ、一歩ずつ、高いヒールの音を鳴らしながら、悠然と。


 「……、っ」


 ヨハネスは動けない。

 だが鎧の鳴る音が途切れないということは、あの『拘束の魔眼』を使われていないのは確実だ。あれは身体の震えどころか、心臓の動きさえ停止する。


 ミナはそのままヨハネスの前に立ち、断頭剣を振りかぶる。


 「ヨハ──」


 何かの魔術を使おうとしたイングリットが不自然な挙動で停止する。

 身体の動きに遅れる長い髪さえ靡いた形で止まるそれを、フィリップは身を以て知っていた。


 そして剣が振るわれ──反射的に防御に掲げたツーハンドソードごと、断頭剣はその名の通りの働きを示した。


 ぼとりと鈍い音を立てて頭が落ちると、力の抜けた手からツーハンドソードが落ちる。

 刃渡り150センチもの長大な金属の塊は、全くの無傷だった。



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