第239話

 フィリップがルーシェの立場だったら、半裸でパンツを振り回している猿の言葉になんか耳を貸さない。時間の無駄だし、獣と会話できるメルヘンを信じるのが許される年頃は終わった。いや、まだ12歳になっていないのでギリギリセーフか? 


 どちらにせよ、獣と同等に堕ちるつもりはない。言葉を交わすこともなく、人のふりをして服など着ている珍しい猿に嘲笑を向け、その顔のまま殺すだろう。

 

 そう考えると、ルーシェはとても寛大な性格をしているようだ。ここは彼女の懐の深さに甘えつつ、フィリップの置かれている状況を説明して理解を得るべきだろう。自分の行動を冷静かつ客観的に振り返ってみると、いま生きているだけで奇跡みたいな醜態だった。


 ルーシェがどうこうではなく、半裸で自分のパンツを振り回しているところを異性に見られたら、羞恥のあまり憤死している。寝惚けていて、相手が人間ならざる化け物で、そして自分も相手も本質的には泡に同じと知っていたから、舌を噛まずに済んでいた。


 「……あの、旦那様。先程のあれは一体? 私も今どきの流行には疎いのですが、ご主人様のお部屋で踊るには、些か破廉恥……いえ、品のない振付けかと存じますけれど」


 昨日の明朗快活といった立ち振る舞いは何処へやら、ルーシェは困り果てた顔と声で諫言した。

 寝惚けていたという言い訳が通らないぐらい、仰る通りだ。


 フィリップは一切の言い訳を諦めて、ありのままを話す。

 性別も精神状態もまるで違うルーシェがどういう反応をするのかは全く未知数で不安だったが、彼女は意外にも「そうでしたか!」と納得して笑ってくれた。


 「でしたら、下着はお預かり致します。ご主人様がお目覚めになる前に済ませますね!」


 ぱちりとウインクして悪戯っぽく微笑んだルーシェは、「急ぎませんと」などと言いつつ、慌ただしく走り去る。

 幸いにして、その彼女とフィリップのパンツが返ってくる前にミナが目を覚ますという事態にはならず、フィリップのペット生活二日目はギリギリ平穏に始まった。



 

 ◇




 ミナの城にある“食料”は、大部分が吸血鬼用──つまり、地下牢に拘束されている人間だ。


 つまり彼ら用のものであれば、僅かに人間用の食事もあるということなのだが、これが意外と良質なものだった。いや、普段王都で最上級の食事をしているフィリップからすると、それは料理とは呼べないような代物なのだが。


 食料に与えられる食事は、概ね、パン、肉、野菜、果実の四種のワンプレートだ。


 肉の加熱は基本的にはミディアムレアで、“調理”と言うより寄生虫を殺すことだけを目的にした“処理”だが、少なくとも体調を崩すことは無いように配慮されている。人間社会で食用として売られている肉ではなく、暗黒領に生息するよく分からない生物の肉と内臓という点に目を瞑れば、特筆すべきところは無い。


 野菜と果実は調理せず、生のままで出てくる。加熱すると栄養価が下がるから──正確には、件の人間牧場で繰り返された餌と血質の相関性を確かめる実験の結果として、生食させた方が美味い血が採れるからだ。


 それが硬かったりふやけていたりするパンと一緒に、見映えなんて知ったことかと言わんばかりの豪快な盛り付けで出てくる。


 要素だけを見ればそこそこ食べられそうな気もするが、皿に乗った──ぶちまけられたものは、良くて残飯、悪く言えば生ごみかゲロだ。家畜の血液を良質な状態にするためだけの飼料。それが吸血鬼にとっての「人間用の食事」だった。


 流石に同じものをフィリップ──城主の配偶者(仮定)、或いは城主のペット(暫定)に出すのは憚られたのだろう。フィリップの食卓に並んだものは、野兎のソテーと野菜のスープ、そして一番マシな状態のものを選んだのだろうパンと果実だった。ルーシェは「外の荒野で獲ってきました!」と自慢げだったし、料理人も「自信作です」と胸を張っていた。


 わざわざ近くの町まで出向いてスパイスを買って来てくれたらしく、少し濃い味付けだが、十分に王都でも通用する出来栄えだ。

 野菜と果実は飼料の流用らしいが、これも不味くは無い。取り立てて美味しいとは言えないが、文句を付けるほどのものではない。


 パンは例外だ。王都で金を出してこれが出てきたら、人によってはパン屋を一、二発殴るレベルの代物だった。


 「──ごちそうさまでした。……ミナ、食休みしたら、また模擬戦をお願いしたいんですけど」

 「……構わないわよ。それにしても、きみは本当に人懐っこいわね」

 

 ミナは懐いたペットを可愛がるように、というか、そのままの意図でフィリップの頭を撫でる。フィリップも満更でもなさそうにされるがままになっている光景は、傍目にも安穏とした空気を醸し出している。──ミナの前のテーブル上に置かれた、枯れ木のような死骸を視界に入れなければ。


 フィリップと並んで朝食を摂っていたミナのメニューは、フィリップと同い年くらいの少年だ。彼も昨夜の少女と同様にフィリップに助けを求めるような視線を向けていたのだが、フィリップは困ったような笑顔で受け流した。

 

 「人間はもっと吸血鬼を恐れるものだと思っていたわ。……ルーシェ、ロングソードを中庭に運んでおいて」

 「畏まりました! あ、旦那様! 色紙のご用意ができましたよ!」

 「昨日言ったばかりなのに、早いですね? 剣と一緒に持ってきてくれますか?」

 「はい! 準備しておきますね!」


 色紙? と不思議そうに首を傾げたミナだったが、すぐに興味を失って席を立った。

 人間の習性とか習慣とか、そういう煩わしいものに関わる「世話」は、すべてルーシェに一任してある。ミナはこの弱々しく可愛らしい、いい匂いのする生き物を、ただ愛でていればいいのだ。



 食事を終えたフィリップは、一旦ミナと別行動をする。

 

 「吸血鬼は便利だなぁ……うごご……」


 お腹を擦りながら足早に歩く姿は、この城にあっては極めて珍しいものだ。魔術学院の寮なら、この時間には同じく神に祈りを捧げながらトイレに籠る生徒がちらほら居るのだが。

 

 昨日のうちに教わったトイレを目指しながら、フィリップは不便な人の身を呪い、食事は必要でも排泄は必要ない吸血鬼の便利さを羨む。

 ルーシェたち下位吸血鬼はその限りではないらしいが、ミナのような上位吸血鬼は、どれだけ血を飲んでもどれだけ肉を喰らっても排泄しなくていいらしい。なんでも、消化吸収効率が80パーセントを超え、残りは熱か魔力に直接変換して発散するのだとか。だからミナは普段は病的に体温が低いが、食後一時間くらいは少しだけ温かい。


 トイレを済ませて、では改めて中庭に向かおう──と、そこで漸く、フィリップは中庭への道を知らないことに気が付いた。


 まぁ食堂まで戻れば誰かメイドがいるだろうし、案内して貰えばいいか。そんな風に考えて来た道を戻ると、案の定、食堂には一つの人影があった。

 しかし、メイドではない。彼は長いテーブルの一番下座側の席に座り、卓上に転がった人間の首筋に吸い付いていた。


 「……あら、フィリップ君。おはよう。昨日はよく眠れた?」

 「……おはようございます。一人でご飯とは、寝坊ですか、ディアボリカ?」


 フィリップに気付いたディアボリカは、体積を三分の一ほどに減らした死骸から口を放す。──失血量はどう考えても致死水準のはずだが、彼女はまだビクビクと痙攣を繰り返していた。

 “よく眠れたか”という問いに誘導されて先程の醜態を思い出したフィリップは、その質問を丸ごと無視した。

 

 特に意味の無い挨拶の延長だったディアボリカは無視されたことにも気付かず、肩を竦めて「昨日言ったでしょ。アタシはあの子と同じ部屋に入れないの」と答えて、目の前の死骸にかぶり付いた。


 「そうでしたね。……食べ終わったら、中庭に連れて行って欲しいんですけど、何か急ぎの用事とかありますか?」

 「……目の前で人を喰ってる化け物に道案内を頼むの? アナタ、本当に面白いわね。連れて来て良かったわ。……ごちそうさま、行きましょうか」


 枯れ木のようになった死骸を魔術一発で骨も残さず焼却して、ディアボリカはすっと軸の通った所作で立ち上がる。ナプキンで口を拭うところなどは、傍目にも紳士然としていた。相変わらずシャツの前が全開なことを除けばだが。


 二人は時折すれ違うメイドに頭を下げられるのを景色のように無視しながら、静かな城の中を歩く。


 「……一晩明けたわけだけど、あの子とはどう? 上手くやれてる?」

 「ペット扱いに不満が無いかという意味ならイエス。花婿として妥当な扱いを受けているかという意味ならノーです。彼女は吸血鬼で、僕は人間。この条件が覆らない限り、この現状は覆りませんよ」

 「そうよねぇ。アタシも一晩考えて推察してみたんだけど、アナタ、ミナが“怪物”だから懐いてるだけでしょ。人間と吸血鬼、下位と上位の関係性が絶対的だから、この状況を諦めて適応している──ってワケでもなさそうなのが、アナタの怖いところよねぇ」


 やれやれと肩を竦めておどけるディアボリカに、フィリップは感心したような目を向けた。

 ディアボリカの考察は、フィリップの自己分析と殆ど同じだった。


 フィリップは化け物が好きだ。

 いつからそうなのかは分からないが、どうせあの夜からだろうと自分では考えている。


 具体的にどうして、と言われるとフィリップは黙秘権を行使するし、自分でも確証は持っていないが──マザーと同じだからだ。

 相手が自分のことをどうとも思っていないから気楽だ、とか、自分より強い相手に守られているのは安心感がある、とか、そういう理由を並べ立てることはできるが、本質的には代償行為に過ぎない。或いは拡大か。


 「アナタ、ミナがアナタを異性として好きになったら、その瞬間に冷めるでしょ。なんて言うんだっけそういうの……蛙化現象? ちょっと違う? まぁなんでもいいけど、それだと困るのよ。アナタたちには、心から愛し合って貰わないと」

 「……別に、僕じゃなくてもいいでしょう。彼女はハーフヴァンプですし、それこそ相手は純粋な吸血鬼でもいいのでは?」


 ディアボリカは、フィリップが吸血鬼を殺し得る──少なくともフィリップ自身がそう信頼する切り札を持っていることは知っているはずだ。

 それなのに、わざわざ王都まで出向いて、わざわざフィリップ個人を狙って、わざわざ“人間を恋愛対象にさせよう”なんて馬鹿げた計画を練っている。


 少し前のフィリップなら、とっくのとうに城を吹き飛ばして帰っているところだ。……まぁ、首輪がある限り、そんなことは逆立ちしたって出来やしないのだが。


 その無為なリスクを許容するくらいなら、それこそ彼女の同族である他の吸血鬼や、エルフなんかでも良いだろう。その方が肉体的にも魔術的にも、フィリップの何倍も強い。


 それに──ディアボリカの分析は正しい。

 フィリップはミナが化け物だから懐いているだけで、彼女の“怪物性”とでもいうべき価値観が失われたら、ただの美人だ。そして、ただの美人に「綺麗だな」と思う以上の感想を持つことはない。


 だからディアボリカは、フィリップとミナ、二人の意識を変える気でいる。

 フィリップの問いには、どうしてそんな面倒くさいことを、という意図も含まれていた。一番面倒くさいのはディアボリカではなく、誘拐されてきたフィリップなのだし。


 「それが駄目なのよ。魔王軍内部の政治的な話でね、アタシたちの一族は結婚するなら魔王領域外の相手じゃないと駄目なの」

 「し──いや」


 事情とか知ったことじゃないんですけど、と言いかけて、止める。

 それを言うべきだったのは昨日、学院で連れ去られる前のことだ。ここまで連れてこられた以上、理由を知る権利も文句を言う権利もあるだろうが、知ったことかと跳ね除けるには遅すぎる。


 「じゃあエルフは? エルフは魔王領域外の種族でしょう?」

 「それはそうだけど、アタシってほら、数百年前にエルフの首都を焼いたから。もう顔も合わせづらくって」

 「し──は? 何ですかその話、詳しく」


 フィリップはまた「知ったことじゃないんですけど」と言いかけて、猛烈に興味を引く内容の言い訳に食いついた。


 しかし、残念。時間切れだった。


 「アタシの奥さん絡みの話よ。──はい、この扉の先が中庭。アタシはまた撃たれたくないから、ここまでね。……あ、あの子を通じて他の誰かを見るの、そろそろ止めないとぶん殴るわよ?」

 「無理矢理拉致してきて更にぶん殴られたら、僕は首を斬り落としてでもこの首輪を取りますよ」


 ──まぁ、以前の戦闘を思い出すに、一発殴られるだけで肩から上が無くなりそうだが。





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