第238話

 夕食を終えたフィリップは、そこそこ普段通りの生活が出来そうなことに驚いていた。

 学生寮の大浴場とまではいかずとも広々とした浴場には、なみなみとお湯の張られた泳げるくらい大きな浴槽があった。シャワーも、蛇口を捻れば熱いお湯が出てくる。上下水道の整備された、外と比べて100年以上は文明が進んでいると言われる王都と同等の設備だ。


 「……助けが来たら怒られそうなぐらい快適じゃん……」


 フィリップは城の上層にあるバルコニーで、満天の星と、暈のかかった満月を見上げて独り言ちた。

 ふかふかのバスローブに身を包み、ほかほかと湯上りの体温を発散しながら、周囲に明かりの無い荒野で澄み渡った夜空を見上げる。何とも贅沢な夜の一幕だ。


 誰かが助けに来てくれるのかは分からないが、王都からここまで快適な道中ではないだろう。

 王都に侵入した吸血鬼の討伐と拉致された子供の救助という名目で、衛士団や、或いはルキアやステラが遠征してきたら、どんな顔をして会えばいいのか分からない。


 ここまで来るのは快適な旅路ではないだろうに、救助目標であるフィリップは、討伐対象である吸血鬼の居城でぬくぬくと過ごしているのだ。ペットらしく首輪を付けられているとはいえ、フィリップがこの状況を受け容れている以上、それは免罪符にはなり得ない。


 シルヴァの位置はあまりに遠く、魔術契約を通じても正確な位置は分からない。具体的に何キロとか今どの辺りとか詳しいことはともかく、王都を出たかどうかは把握しておきたかったのだが。でないと言い訳を考える必要があるかどうかも分からない。


 「…………」


 時間の経過で暈が晴れ、はっきりと見えるようになった満月を見上げ、嘆息する。


 考えてもどうにもならないことは、考えないでいい。もしもルキアやステラが、或いは衛士団が来たら、大人しく不興を買って怒られよう。そう決めて、あとは無心で月を見ていた。


 「──月が好きなの?」


 不意に背後から投げかけられた質問に、フィリップは殆ど無意識に「えぇ」と答えていた。

 平時なら「月に対して好き嫌いとかありますか? ずっとそこに在るものなのに」とか可愛げのない面倒な答えを返していたかもしれないが、無意識に漏れた答えこそが真実だ。


 フィリップは月が好きだ。

 ぼーっと月を見ているだけで何時間でも過ごせる。


 月光の、落ち着くのに、妙に胸を高鳴らせる不思議な色合いが好きだ。夜の冷たく澄んだ空気に形容しがたい気配を混ぜ、“夜”という言葉に深みを持たせる月が好きだ。黒とは言い切れない宙の色と調和して、それでも絶対的な存在感を放つ、夜空に浮かぶ鏡にも、夜空に空いた穴にも見える月が好きだ。


 ──そんなことを思うようになったのは、あの夜からだろう。


 「──私もよ。……これは吸血鬼も人間も同じなのね」

 「……そうですね」


 人間の嗅覚では判別できないはずの、月光の匂いがふわりと鼻を擽る。

 一瞬遅れて、フィリップの隣にミナが立った。夜風に揺らぐ闇色の髪は、フィリップと同じ石鹸を使ったはずなのに、フィリップとは違う花のような香りがした。ルキアやステラと同じで、メイドに香油を塗らせる習慣があるのだろう。


 「……まだ寝ないの?」

 「……僕はそろそろ寝るつもりですよ。ミナは──ミナも寝るんですか?」


 振り向くと、ミナはどう見ても寝間着といった風情の、肌が透けるようなベビードールを着ていた。月光に透ける薄い生地が、煽情的な起伏の激しい肢体を、傷も染みもない真っ白な肌を辛うじて隠している。


 「吸血鬼は朝に寝て、夜に起きるものだとばかり思ってました」

 「普通はそうよ。でも、昼間に来客があることが多いから、ここ何十年かはずっと昼夜逆転の生活ね」


 フィリップにしてみれば正常な生活サイクルを「昼夜逆転」と言われると、どうにも不思議な感じがした。

 だが悪い気分ではない。ミナが人間ではないモノ、人間以上のモノであることを意識するたびに、むしろ彼女に惹かれるような不思議な感覚さえある。


 バルコニーはミナの私室にあったもので、ガラス張りの掃き出し窓を潜ると、すぐに彼女のベッドが見えた。フィリップは部屋に入ってすぐ「吸血鬼って棺桶で寝ないんですね」と訊ねて、「不思議な迷信が流れているのね」と人類全体が小馬鹿にされていた。


 滑るようにするりとシーツの隙間に潜り込むミナを、フィリップは胡乱な目で見つめる。部屋の中にある寝具は、この豪奢な天蓋付きベッドだけだ。


 「……で、僕のベッドはどこですか? 床に寝ろとか言いませんよね?」

 「……?」


 ミナはフィリップと同じく胡乱な目をして、自分の隣をぽんぽんと叩く。

 ……いや、まぁ、薄々そんな気はしていたし、クイーンサイズのベッドは二人が並んで寝るには十分な大きさだが。


 眠気もあって色々と諦めたフィリップは、もぞもぞとミナの隣に横たわる。見た目通りに高級なベッドは、驚いたことに学生寮のものと同じくらい寝心地が良かった。


 「……もっとこっちに来て」


 既に手が触れ合うくらいの距離にいたミナが寝返りを打ち、こちらを向く。

 来て、と言いながら強制的に抱き寄せられたフィリップは、半ばシーツに埋もれるような形になる。目の前で、大きく形の良い胸が腕とベッドに挟まれて、淫靡に形を変えていた。


 駄目押しのように頭を抱かれ、胸の中に抱き締められる。

 一呼吸ごとに、石鹸やと香油と、吸血鬼に特有らしい夜と月光の香りが鼻腔を満たし、脳を溶かした。


 眠気と酩酊感にも似た陶酔で目元をとろりと溶かしたフィリップ。ミナはその頭を愛おしそうに撫でながら、首筋に顔を埋めて、薄く深く息を吸った。


 フィリップは「一応ね」と誰にともなく言い訳して、ミナにバレないよう慎重にバスローブの中のパンツを引っ張り、自分の股間を確認する。……変化、無し。

 絶世どころか人類以上の美人と同衾して、更に抱き締められているというこの状況で、反応なし。聞きかじりの知識だが、これはかなり不味い状態らしい。いわゆる不能という奴ではなかろうか。


 今のところがあるわけでも、ましてや子供を作る予定があるわけでもないフィリップだが、なんとなく物悲しい気分になって、不貞腐れるように目を瞑った。


 「吸血鬼の城で夜を迎えて、こんなに無防備なんて、被捕食者としての自覚はあるのかしら?」

 「……」

 

 揶揄うようなミナの言葉を、フィリップは寝たふりをして黙秘した。

 フィリップは勿論、自分が、人間という種族が、彼女の前では例外なく餌でしかないことを知っている。だが、今のフィリップには能動的に状況を動かすだけの力も手段も無いのだ。吸血されたら、或いは殺されるようなことになったら状況は一変するが、今はまだ、何もできない。いつも通りに。


 「……きみは、本当にいい匂いね。童貞の血の匂いには食欲をそそられるけれど──夜の匂い、月の匂い、星々の匂いは、それ以上に吸血鬼私たちを惹き付ける。夜に棲む私たちより濃い匂いを纏う人間……アレも、偶には善いコトをする」


 ディアボリカ──実の父親であるはずの相手をアレ呼ばわりするのは、やはり100年間の封印による離別が原因なのだろうか。


 そんな真面目な思考も、マザーによく似た匂いと柔らかさに包まれていては、頭に浮かんだ端から溶けて消える。

 月と星々の香り、涼やかな夜の匂いが意識をも蕩けさせて、フィリップは吸血鬼の腕の中で眠りに落ちた。




 ──翌朝。

 

 フィリップは下半身に嫌な感触を覚えて目を覚ました。おいおいまさか嘘だろ勘弁してくれよ何年ぶりだと、宛てもなく祈るような気持ちでシーツをめくり──怪訝そうに眉根を寄せた。

 あるはずの痕跡がない。体を覆うシーツも、マットレスに敷かれたシーツも、バスローブも、汚れ一つなく真っ白だ。しかし、下着は妙にごわついている。


 はてさてこはいかにと顔を顰め、もぞもぞとベッドから這い出たフィリップは、バスローブを開けて下着を脱ぐ。

 そして自分がいま脱いだ下着を覗き込むという、なんとも感想を述べ難い行為に及び──


 「──、ッ!」


 フィリップは下着を掲げて天を仰ぎ、歓喜を示すように拳を握った。パンツを握ったまま。


 ありがとう保健体育の授業。男女別室でルキアとステラがいないから退屈なハズレ科目扱いしてごめん。フィリップは王都の方角を向いて頭を下げた。パンツを掲げたまま。


 フィリップは下着を汚したものの正体、そしてその現象を知っていた。しかし知識としてで、これが初めての経験だ。

 ──端的に言うと、フィリップは夢精していた。そしてこれが精通だった。


 「──ぁははは!」


 まだ眠っているミナを起こさないように小声で、しかし興奮を抑えきれずに歓喜の笑いを溢す。脱いだパンツを頭上で振り回しながら。


 ──分かっている。人間一個体の肉体的成長が持つ意味は、価値は、遍く全てと同じくゼロだ。

 しかしそれでも、あの思い出すだけでも吐き気を催す光景に打ちのめされて、この世界の本当の姿を知って、この世界が持つ持たない重みを知って。自死さえ選べない絶望を味わって──死ねないから生きてきただけの自分が、明確に、そして健常に成長していることが嬉しかった。


 特に精通これは、自分が未だ人間であることの、分かり易い証左だ。


 あれだけの経験をして、こんなザマになって、それでも未だ、人間であり続けている。その難しさが誰よりも分かるが故に、こんな、男なら誰もが経験する生理現象精通一つが、途方もなく嬉しい。

 

 ……バスローブの前を全開にした半裸姿で、自分の下着を頭上でぶんぶん回している様は、人間と言うより知恵の無い猿だが。寝起きで頭が回っていないし、これでも部屋をスキップしながら回遊していないだけ理性が残っていると弁解しても、誰も信じないだろう。


 しばらくパンツを振り回していたフィリップは、やがて目下の問題に気が付いた。


 この町も集落も何もない荒野のど真ん中に聳える城塞には、なにも綿密なプランに基づいて旅行に来たわけでは無い。当然ながら着替えの用意なんて無いし、この下着だって、フィリップが風呂に入っている間にメイドが洗濯して乾かしておいてくれたものだ。

 普通は何時間か乾かしておくところを数分に短縮できる魔術とは、やはり便利なものだと再認識したのだが──フィリップ一人では、この下着を洗って乾かすには時間がかかる。


 学生寮どころか自分の実家でさえノーパンで過ごしたことなど無いというのに、ここは他人の城だ。しかもフィリップ用の個室は無い。


 さてどうするか、取り敢えず顔でも洗って考えようと、部屋の扉に目を遣り──困り顔のルーシェと目が合った。

 部屋付きの夜番なのか、或いは着替えを持ってきたのか。どちらでもいいが、いつからいたのだろう。

 

 「…………」

 「…………」


 両者、沈黙。


 フィリップは指に引っ掛けたパンツを延々と回しながら弁解の言葉を探しているし、ルーシェは半裸でパンツをぶん回している変態をどう遇するべきかと真剣に悩んでいた。


 そして両者の意見は、「ミナが起きる前に片を付けよう」という点で一致した。その為にはまず。

 

 「一旦部屋を出ませんか?」

 「……まずはバスローブの前を閉じられては如何でしょう?」





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