第237話

 一時間後。

 フィリップは晩餐の席に着き、魂の抜けたような顔で装飾華美な天井を見上げていた。


 十数メートルあろうかという長いテーブルには真っ白なクロスが掛けられ、最奥の上座にはミナが座っている。フィリップは次席──ではなく、ミナの真隣にいた。次席よりも主人に近く、それでいて正式な席次ではどの順位にも当てはまらない位置。まさにペット的な位置だ。


 首を痛めそうな角度で呆然と虚空を見つめるフィリップを、ミナは食前酒を片手に愛でていた。


 「私に負けたのが悔しい?」

 「……いえ。むしろ逆です。ミナがカッコ良すぎて……なんですかアレ。カッコ良すぎる……」


 普段から特筆して語彙が豊富というわけではないフィリップだが、ここまで酷くはない。言語野に支障が出るほどのものを見たのだ。

 フィリップはミナと模擬戦をするとき、折角なのでと、城の備品のロングソードを使った。流石に使い慣れていないだけあって『拍奪』の精度はガタ落ちだったが、普段通りのパフォーマンスでも簡単に負けただろう。


 まだ出会って数時間の付き合いだが、ミナはかなりダウナーなところがある。ルキアやステラのような他人への無関心から来るものではない、生来の気質だろう。

 そのせいか表情の動きが少なく、彼女の顔に浮かぶのは、怜悧な相貌に似合いの冷酷に見下すような表情か、ぞっと背筋の粟立つような妖艶な笑みの二つが主だ。特に、後者が不味かった。


 髪に隠れて片方しか見えていないのに、十分すぎるほど愛玩の念を伝える、鮮やかな血の色をした目。形の良い唇が薄く弧を描き、絶対的隔絶の向こう岸からの冷笑が浮かぶ口元。

 口の端から覗く鋭い牙を度外視してしまうほど、表情を形作る要素がマザーのそれと共通していた。


 そんなミナが持つ、二振りの魔剣。


 左手のロングソード『悪徳』は、その飾り気のない外見を裏切るように、戦闘状態に入った瞬間に黒紫の瘴気を纏い始めた。

 フィリップが触れても吸い込んでも特に影響は無かったものの、舞台劇で使われる演出用の小道具ではあるまいし、顕在化していない効果があるか、或いは魔剣の内包する魔力が濃密すぎて、溢れ出た余波さえ可視化しているのだろう。


 右手のエクスキューショナーソード『美徳』は、白銀だった刀身を戦闘開始と同時に陽光の色に輝かせた。その光が『悪徳』の放つ瘴気に触れると、反発するようにバチバチと火花が散っていて、その煌めきがミナを彩り飾り立てていたのを克明に覚えている。


 とても強力な邪悪特攻性能を持っているらしく、励起状態では柄でも素手で触れると火傷するからと、ミナは魔術で作り出した漆黒のガントレットで右手を保護していた。


 「右手だけガントレット、聖属性の魔剣と闇属性の魔剣の二刀流、しかも……」


 しかも見掛け倒しではなく、ちゃんと強かった。

 フィリップの体感に果たしてどれほどの信憑性があるのかは疑問だが、ウォードとソフィーとマリーを三人同時に相手取るより、彼女の片腕の方が手強かったように思う。

 

 彼女の動きは、基本的には緩慢だ。

 彼我の距離が縮まるさまを見せつけるように一歩ずつ、いっそ優雅に歩いてきて──あのディアボリカと同等のトップスピードで攻撃が来る。


 振られた剣が見えないのは当然として、「留め」の精度が凄まじい。

 何度も打ち合う中で一度だけ剣の腹を叩いて防御したのだが、間違えて城の柱を叩いたのかと思うくらい、強靭な『軸』が通っていた。横合いを殴られても剣身に一分のブレも生まない、凄まじい精度の身体操作。ミナ自身の筋力に剣の重さと速度を上乗せしただけの慣性を、微塵も感じさせない完璧な制動。マリーやウォードのように手元が狂ってフィリップを殴るようなことは一度も無かった。

 

 真っ直ぐ振って、しっかり止める。

 ウォードが教えてくれた基本中の基本であり、ウルミという身体操作が主軸になる武器を使うフィリップは、特にその重要性を理解している。


 端的に言えば「すごく速くてパワーがあって」「緩急の差が激しくて」「精度が凄まじい」。強いならそんなの当たり前だろと、少し前のフィリップのような白兵戦に慣れていない者ならそう言うだろう、何の特別感もない要素。だが、これを突き詰めれば最強だ。


 特別な何かが生む意外性、たとえばウルミのような変則的な動きの武器や、『拍奪』のように異質な攻勢防御は、初見殺しの性能は高い。対策を知らない相手なら、一方的に勝ち切れるポテンシャルもある。だが、交流戦でマリーがそうしたように、対策を取られたら途端に弱い。


 あの時、ソフィーはどうしたか。

 『拍奪』を使わず、純粋なフィジカル勝負に持ち込んだ。──それが正解なのだ。


 相手より力が強くて、動きが速くて、狙いが正確なら勝てる。ただそれだけの、子供でも分かる理屈を突き詰めて、体現してしまったのがミナだ。

 パワーとスピードは生まれ持ったものだろう。だが、それを制御する身体操作は、才能だけではどうにもならない。気の遠くなるような研鑽を積み重ねてきたのだと、今のフィリップは言われるまでもなく理解できた。


 『拍奪』も一瞬で看破されたし、魔力照準法という対策も知っていた。単純に強いだけでなく、戦闘経験も豊富なのだろう。


 「カッコ良すぎる……」


 語彙の無い賛辞では響かないのか、「かっこいい」という女性向きではない言葉が気に入らないのか、或いは人間の言葉程度、虫の囀りと同価値にしか捉えていないのか。ミナは表情を変えず、魂が抜けたように天を仰ぐフィリップを愛でていた。


 目で愉しむだけでは我慢できなくなったミナは、フィリップの頬や首筋、唇や鎖骨を愛撫する。彼女の病的に低い体温と、それとは関係なく背筋の凍るような妖しい色気のある手指の動きに、フィリップは思わずごくりと喉を鳴らした。


 そんな無為な時間を暫く過ごすと、やがてキッチンカートを押したメイドがやってきて、テーブルの上にと食事を置いた。


 「──、は?」


 目が、合った。


 魔術か何かで全身が麻痺して動けず、目だけを忙しなくきょろきょろと動かしていた、一糸纏わぬ姿の年若い少女。まだフィリップと同じか、少し年上くらいだろう。


 顔をこちらに向けて仰向けになった、その青い瞳がフィリップを捉え、縋るように、訴えかけるように潤む。


 ──食事。


 そう、そうだ、そうだった。

 吸血鬼の主食は、人間の血液だ。そんなことは言われるまでもない常識であり、更に彼女たちは、その肉まで喰らうと言っていた。


 フィリップは暫し呆然と“ミナの食事”と見つめ合う。

 端正な顔立ちだが表情筋は麻痺しており、時折不随意の痙攣を見せるだけだ。しかし目の奥の光は、内心の恐怖とほんの僅かな希望を雄弁に語っていた。


 卓上に横たえられた少女の裸体に眉を顰めたフィリップは、不機嫌そうにミナを見遣る。


 「……そのままですか?」

 「えぇ。生きた人間の血でないと、命のストックは増えないわ。……もしかして、食欲が失せた? 人間は同族意識が低いと思っていたけれど、これも個体差なのかしら」


 別に、ミナが人間の血を吸おうが肉を引き裂いて喰らおうが、今更怖くなったりはしない。ただ、「あぁそういえばそうだった」と、端的な納得に落ちただけだ。

 

 フィリップが眉根を寄せた理由は、彼女の食事のメニューや嗜好ではない。

 ただ、幼少の頃から「テーブルに乗ってはいけません」「卓上は清潔にしましょう」と教わってきたから、裸の人間を乗せることに抵抗がある。


 「そのままですか?」という指摘は、クロスの上にもう一枚シーツを乗せるとか、皿代わりに木の板でも乗せるべきではないか、という意図だ。


 潔癖というには程度が低い。ちょっとした文化や習慣の違いに適応できていないだけだろう。


 この城の主人は彼女なのだし、フィリップが人間社会のマナーをひけらかして注意するのは、それこそマナーに反している。

 郷に入っては郷に従え。この世で最も疑わしいのは、フィリップ自身の価値観だ。自分にそう言い聞かせたフィリップは、へらりと笑って話を逸らす。


 「いや、人間は結構、同族意識の強い方だと思いますよ? どこか遠くの街で人間を襲ったと又聞きしただけの化け物を、心の底から恐怖するような種族ですからね」

 「そう? でも、食糧庫の人間は「自分は嫌だ」「あっちの奴にしろ」って、そんな命乞いばかりよ?」

 「…………いやいや、見ず知らずの人の為に、自分の命を投げ出すような人もいますから」


 フィリップの反駁に勢いがない。ちょっとダメージがあった。


 人間も捨てたものじゃないよと自分に言い聞かせ、水を飲んで気分を落ち着ける。

 ちなみにこの城は地下水脈の上にあるらしく、井戸から汲むだけで良く冷えた水が飲める。城の上層には大きな水のタンクがあり、魔術で生成された水が貯まっている。そこから各部屋に配管が張り巡らされているから、水道の蛇口を捻って出てくる水はこれだ。


 機嫌を損ねたように見えるフィリップを揶揄うように、ミナが軽く身を傾ける。


 「……きみはどうするのかしら? 同族を喰らおうとする怪物を前に、勇敢にも立ち上がる?」

 「……勝ち目があるとは思えませんけど、彼らならそうするでしょうね」


 恐らく、正面戦闘で衛士団がミナに勝つ確率は、フィリップがミナに勝つ確率とそう変わらないだろう。フィリップと衛士団では強さに大きく差があるのに、だ。

 もちろんフィリップは衛士団の強さを正確には知らないが、ミナはそもそも人間以上の存在、怪物だ。人間に優越するように出来ている。人間を喰うように出来ている。両者の関係性は決して対等ではなく、通常は捕食者と獲物、友好的でも飼い主とペットだ。


 ──、だ。


 だが、「それでも」と立ち上がり、善良な人々を守護せんと剣を構えるのが、魔術を構えるのが彼ら、彼女らだ。

 その輝かしい人間性こそフィリップが憧れ、羨み、妬むもの。フィリップが今もこうして人間でいることに拘っている、最大の理由だ。


 「きみはどうするの、と聞いたのだけれど」

 「僕の友人を喰おうとするのなら、貴女を止めるでしょうね。貴女を殺したくはないので、いきなり攻撃したりはしませんけど」

 

 さらりと答えるフィリップだが、この言葉に嘘はない。

 ルキアを始めとしたフィリップの大切な人を喰わなくてはミナが死ぬ、という状況になれば、フィリップは躊躇なくミナに「じゃあ死ね」と言う。


 傍目には懐いているように見えるし、事実フィリップはミナに懐いているのだが、それはそれだ。結局のところ、フィリップの判断基準の最上位は、自分の感情だった。


 だから、ルキアや、それこそ家族のような大切な人でもないのなら、彼女が何千人殺そうが何億人喰らおうが知ったことでは無かった。


 「あら。なら、この子は吸い殺してもいいの? きみの知り合いではない人間なら、食べてもいいの?」

 「いいの、というか、吸血鬼にとっての食事が人間だというのなら、僕にそれをどうこう言う資格はありませんよ。ミナに飢え死にしろなんて言うつもりはありませんし、食の嗜好は人それぞれですからね」


 そういえば王都に来てすぐ、タベールナの厨房でトマトを見つけて、それはもう混乱したものだ。

 王都外でトマトは毒があるとか悪魔の作った果実だとか言われて観賞用にさえならなかったのに、王都ではサラダにスープにパスタにと引っ張りだこの食材だった。これはおかしいと、仕事を抜け出して投石教会まで確認に行ったのだったか。「常識が改変されてるが、お前らの仕業か」と詰め寄ったときのナイ神父の顔は、今思い出しても腹が立つ。

 王都では十数年前にトマトに毒が無いこと、栄養価が高いことが知られていたのだ。


 人類間でも、生活圏と文化の差で食生活は大きく変わる。

 それが異種族なら、尚更だ。


 嫌いなものを無理にでも食えと押し付けるなら、フィリップも抵抗する。

 だが、他人がフィリップの嫌いなもの、食べないものを美味そうに食べているからといって、食べるのを止めろとは言わない。フィリップは酒が嫌いだが、ルキアやステラは美味しそうに飲んでいるし、それに不快感を感じることは無い。


 これはただ、それだけの話だ。


 「ごめんね。僕はどうやら、美人に弱いらしい」


 フィリップはそう、無感動に宣告する。その声に眼前で失われようとしている、自らが見捨てた命への謝意や罪悪感は一片も無い。あるのは自嘲と、ちょっとした揶揄だ。

 テーブルに横たわっていた少女の瞳が、見覚えのある色に濁っていった。








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