第234話
「…………」
深紅の槍がその穂先をこちらに向けていることに気付いたフィリップは、ぴょんと跳ねるように一歩、右へ避ける。
瞬間、そのすぐ傍を突風が走り抜け、背後でディアボリカが呻いた。振り向くと、壁に背を付けたディアボリカは後退して勢いを殺すことも出来ず、その剛腕が誇る膂力と再生力任せに強引に、追撃の槍を防御していた。
「ちょっとぉ!? なんで避けるの!? 庇ってくれていいんだけど!?」
「不死身の怪物を庇うほど死に急いでないので。それより、早く魔剣使いさんを紹介して欲しいんですけど」
「アナタねぇ……。はぁ、まぁいいわ。アタシは玉座の間には──というか、あの子と同じ部屋には入れないから、アナタだけ入って?」
フィリップはその不思議な物言いに首を傾げつつ、「吸血鬼は招かれないと家や部屋には入れない」という逸話を思い出して納得した。
だが魔術学院に突入してきたことから分かるように、その言説は吸血鬼出没に怯えた民衆を抑えるために流布された方便が、そのまま定説になってしまったものだ。単純に、ディアボリカが部屋に入ろうとすると攻撃されるだけだった。
仕方なく一人で玉座の間に入ったフィリップは、期待を滲ませて玉座を見上げる。
「──わぁ……」
フィリップの口から、思わずといった風情の感嘆が漏れる。
玉座に座っていたのは、外見上は20代前半くらいの女性だ。彼女はフィリップをして“綺麗だ”と思わせるほど──マザーにも匹敵するのではないかと思わせるほど、整った顔立ちをしていた。エルフの血統なのだろう、人間離れした、というか、文字通り人間以上の美だ。
長い前髪が右目を隠しているが、露わな左目はルキアの双眸よりなお赤い鮮血の色だ。吸血鬼に特有の病的なほど白い肌に良く映える。
ディアボリカとは違い、長い手足はすらりと嫋やかな曲線を描いている。しかし彼の子供だと言われて素直に納得できるのは、夜闇より濃い漆黒の長髪が大きな理由だ。
女性的魅力に富んだ起伏の激しい身体は、黒いコルセット・ドレスに包まれている。何となくルキアが好きそうなデザインにも思えるが、やや露出が激しい。
「……人間? ……はぁ。やっぱり100年も封印されていると、頭がおかしくなるのね」
落ち着いたを通り越してダウナーな、涼やかな声。
深々とした嘆息の宛先は、部屋の外でこちらを窺っているディアボリカだろう。
「貴様が“鶏と再婚する”と言い出したら、本気で貴様を殺すわ。そうなる前に、誰かに常識を教わることね」
吸血鬼にとって、人間は餌だ。
元は人間のディアボリカでさえ「吸血鬼が人間を尊重するなど有り得ない」という思考なのだから、半分さえ人間ではない彼女にとって、「花婿」が人間というのは可笑しなことだった。
「いやいや、アタシは至って正常で、至って真面目よ? こちらはフィリップ・カーター君。フィリップ君、アナタの前にいるのがアタシの娘、ウィルヘルミナよ。親しみを込めて、ミナって呼んであげて?」
フィリップの後ろ、部屋に入るギリギリのところから、ディアボリカが口を挟む。
ミナはディアボリカに鬱陶しそうな一瞥を呉れたものの攻撃はせず、フィリップに不思議そうな視線を向けた。
「……動く人間を見るのは久し振りね。それに、私を見ても逃げないし、攻撃もしないのは初めてよ」
人懐っこい野良猫を見るようなミナの目に、フィリップは仄かな懐かしさを覚えた。
人間以上の視座から来る愛玩と、人間以上の美貌。芸術品のように整っていながら、匂い立つような色気のある肢体。
否応なく、マザーを想起させる。
理性ともっと大切な何かを纏めて蕩かすような、特有の存在感こそないものの、フィリップの思考を鈍らせるには十分だ。
「……? 近くに」
「……はい」
「もっと、私の前まで」
ダウナーながら、女帝のように有無を言わせぬ冷酷な威厳のある声に、フィリップは素直に従う。
制止するメイドをミナが片手で止め、フィリップは玉座へ至る階段を上り、文字通りミナの前に立った。国王に対して玉座の間の入り口から「御前」なんて言っていたことが可笑しくなる、超至近距離だ。
フィリップに悪意があったのなら、ウルミが十分に届く程度の距離。フィリップが最低限の作法の知識から残していた距離を、立ち上がったミナはほんの数歩で詰めた。
最近また身長が伸びて、とうとう150センチになったフィリップだが、ルキアとステラには負けている。
その二人より背が高いのがフレデリカだが、ミナは更に上背がある。厚底でヒールも高いブーツの分を含めてだが、180センチ以上あるのではないだろうか。
フィリップは本能的に、自分より大きな生物に気圧される。人間ではないと理解しているから、余計にそう感じるのだろう。
ミナは少しの間不思議そうに首を傾げ、やがて覆いかぶさるように腰を折り、フィリップの首筋に顔を寄せた。眼前で重力に引かれた形の良い大きな胸が煽情的に揺れるが、そんなことより、首筋の真横で漏れる熱い吐息が怖かった。
鮮やかに赤い唇から、異様に発達した犬歯が覗く。
皮膚を裂き、肉を貫き、血管を破り、血を啜るための、真っ白な牙だ。
──喰われる。
そう感じたフィリップは反射的に手を伸ばすが、その掌がミナの鳩尾を捉える前に──ゼロ距離の『萎縮』を、魔力制限の首環のせいで撃てもしない魔術を準備する前に、上腕を掴まれて阻止された。
すん、とミナの形の良い鼻が微かな音を立て、フィリップの臭いを嗅ぐ。
僕は今何をされているのだろうかと困惑するフィリップを余所に、音は続く。
すんすん、すんすんすん。すー、はー。ぺろ。
「ぺろ!? ねぇ待って、ホントに食べられそうなんですけど! ディアボリカ!? これは完全に狩りを終えた狩人とか、初めて生きた豚を見た子供みたいな反応では!?」
「……んー? まぁ、吸血鬼と人間って、本来はそういう関係だしね。でも大丈夫よ、多分」
フィリップは暴れて藻掻こうとするが、両腕をがっしりと掴まれ、足の間に脚を入れられて、更に首筋に刃物じみて鋭利な牙がある状況だ。白い細腕からは想像もつかない腕力で押さえつけられていなくても、迂闊に動くべきではない。
「不思議な匂い。私の好きな夜の匂い、月の匂いがする。……あと、童貞の血の香りも」
しばらくフィリップの臭いを嗅いでいたミナは、一段落付けて上体を起こした。
解放された手で首筋に触れたフィリップは「そういえば魔力制限されてるじゃん」と遅ればせながら思い出す。
「……きみ、幾つ?」
「……11歳です。もうすぐ12歳ですけど」
「私が怖くないの?」
「いや滅茶苦茶怖かったですよ。食べられる……吸い殺されるかと思いました」
フィリップが即答すると、髪に隠れていない左目が悲しそうに揺れた。
だが怖かったのは事実だ。
フィリップが吸血されたあと、吸血鬼になるのか、吸い殺されてヨグ=ソトースの庇護が発動するのか、それは今でも不明だが、吸血鬼化するだけでも大問題だ。なんせ、フィリップは脆弱な身体があってこそ、自分が人間であることを忘れず、人間性の大切さを忘れずにいられるのだから。
あと、牙が普通に痛そうだった。
「そう。ごめんね? 私はきみを食べないけれど、それでも怖いかしら?」
「いえ、それなら別に。……ところでウィルヘルミナさんは、魔剣使いなんですよね? 見せてくれませんか!?」
ほんの数秒前まで感じていた本能的恐怖を忘れ、フィリップは好奇心と憧憬に満ちた目でお願いする。
そこには話題を変えようという心遣いや、これで手打ちだという譲歩の気配は一片も無く、ミナはぱちぱちと目を瞬かせた。
「……それは、構わないけれど」
困惑も露わなミナに、いつからそこに居たのか、側にいたルーシェが耳打ちする。
漏れ聞こえた「性別と年齢に関係する種族的習性」という言葉の意味は判然としなかったが、ミナは「なるほど」と頷いていた。
「ん……そう、分かったわ」
じゃあ、と期待に目を輝かせたフィリップだが、ミナは剣らしきものを持っていない。はて、と思った次の瞬間には、彼女の両の手中にそれぞれ一振りの長剣が握られていた。
「──ッ!」
フィリップにも分かるほど強烈に魔力を放つ、二振りの剣。
右手の剣は、切っ先の無いエクスキューショナーソード。白銀色の刃の根元には『美徳』と彫られ、峰の部分には精緻な装飾が刻まれている。
左手の剣は、頑丈そうな幅広のロングソード。黒鉄色の刃の根元には『悪徳』と彫られ、それ以外に目立った装飾は無い。
それぞれ儀礼と実戦を体現したような代物だが、どちらも刃は砥ぎ上げられて、内包した魔力で淡く輝いている。触れれば斬れる名刀のみが持つ、得も言われぬ凄味のようなものが感じられた。
──魔剣。それは高度な錬金術や、神域級の付与魔術、或いは魔物の素材などによって造られることで、永続的な魔力付与を施された剣のことだ。
フィリップの一般人並みの魔力感知能力でも、この剣に秘められた膨大な魔力は察するに余りある。魔剣の中でもトップクラスの代物に違いない。
「かっこいい……! あ、あと、あの、握手してくれませんか!」
「……? それは、何故?」
心の底から何を言っているのか分からないと言いたげに眉尻を下げたミナに、またルーシェが何事か囁く。今度は何を言ったのかフィリップには聞こえなかったが、ミナはまた「なるほど」と納得していた。
「──決めた」
ミナは二振りの魔剣を霧のように消し去り、フィリップの伸ばした右手を握る。
フィリップが「ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使い」という御伽噺でも早々出てこない、ロマン盛り盛りのキャラクターと握手できたことに感動したのも束の間。
「──うぁ」
ミナはフィリップの腕を引いて抱き寄せ、覆いかぶさるように抱擁した。頭頂部に押し当てられた顔から、また微かにすんすんと臭いを嗅ぐ音がする。
すー、はー、とミナが大きく深呼吸してフィリップの臭いを嗅ぐたびに豊かな胸が上下して、既に半分以上埋もれているフィリップの顔が更に圧迫された。彼女の身体は柔らかくはあるものの、体温が病的に低い。
フィリップは自分の臭いを嗅がれるという状況に、困惑と羞恥を同時に感じていた。しかし「放してくれ」と暴れる前に、鼻をくすぐるミナの匂いの中に、妙に懐かしいものがあることに気付いて、全身から力が抜ける。
石鹸の匂い、香油らしき花のような香りと、甘く蕩けるような不思議な匂い。
そして──冷たい冬の夜に降り注ぐ月光の香り。妙に覚えのある、そして妙に落ち着く──マザーとよく似た匂いだ。
脳に僅かに残った理性が、「何故」と思考を回す。
ミナからは神威を感じないし、吸血鬼がシュブ=ニグラスに列するものだという智慧もない。
その思考が生んだ硬直と、ミナの抱擁をどう捉えたのかが一瞬で分かるような笑顔を浮かべたディアボリカが、「うんうん、狙い通りね!」と笑っていた。
しかし、少し考えれば分かることだろう。
ミナの価値観に於いて、人間とは餌か、良くて家畜だ。世の中には人が木と結婚する文化も存在するが、吸血鬼に家畜と結婚する文化は無い。
だからミナの抱擁に、フィリップを異性として認めたという意味は一片も無く、むしろその対極にあるような行為だった。
「──この子を飼う。……ペットにするわ」
宣言された愛玩の意思に、フィリップも、ディアボリカも、周囲のメイドたちさえ困惑を露わにする。
「……はい?」
絞り出すような疑問の表明は、誰の声だろうか。
落ち着いてから訊けば、フィリップも、ディアボリカも、メイドたちも、あれは自分の声だったと言うことだろう。
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