第233話

 総計8時間に及ぶ快速空の旅を終えたフィリップは、空中で停止したディアボリカに担がれた状態で、身体の自由を取り戻した。


 「うわ、高い……」


 人間が恐怖を感じる高さは、およそ11メートル以上だと言われている。魔術学院の寮が、概ねそのくらいの高さだ。

 しかし今は、もう何百メートルあるのか分からないほどの上空にいる。怖いか怖くないかで言うと勿論怖いのだが、高すぎて現実感が無い。学生寮何百棟分なのか、何千棟分なのかも判然としないくらいだ。


 「あそこにお城があるのが見える? あれがアタシたちの居城、これからアナタが住むところよ」

 「あー……はい、摘まめそうな大きさですけど」


 遠目にも重厚な存在感を放っている、分厚い石の塊のような建物が見える。

 それは王国で言う王城のような王の威厳を誇示するための、所謂「お城」というよりは、敵の侵攻に対する防御陣地となる軍事拠点、「城塞」と表現すべき威容だった。


 砂塵混じりの風が吹く荒野の真ん中に傲然と聳え立つ城の周りには、何も無い。それがフィリップには少し不思議だった。

 王都のような城下町は、何もその庇護を求めて集まる民草のためにあるわけではないはずだ。城単体では補完出来ない食料や日用品などを生産する拠点として、そして有事の際は防壁として使える街の存在は、城の側にもメリットがある。


 あれでは完全に、防衛線の一部として建てられた砦そのものといった風情だ。

 日常的な居住地ではなく、短期から中期の籠城戦、或いは長期戦であれば後方からの補給を前提としている。──いや、そう考えると、荒野のど真ん中に城を立てるのは戦術的に不味いのではないだろうか。包囲されやすそうだし、包囲されると補給が遮断される。籠城戦には不向きな立地だ。


 「ま、この高さじゃあね。それじゃ、降りるわよ!」

 「待って、ゆっくり、ゆっくりですよ!」


 ディアボリカはぱちりとウインクして、魔力による飛翔をカット。重力に引かれた自由落下を始めた。

 初めは固く目を瞑っていたフィリップだが、結局、好奇心に負けて目を開けた。


 「──うわぁ……」


 顔に、胸に、足に、腕に、指先に、下から吹き付ける風が心地良い。

 遥か遠くに空の青と地表の砂色が混ざり合った曖昧な地平線が湾曲して見えると、あぁこの星は丸いのだと実感する。右手と左手でこの星を抱き締められるような錯覚すらあった。


 ディアボリカが手を放し、姿勢の制御でフィリップから離れていく。

 フィリップもその動きを真似て、目の渇きを嫌って仰向けになった。


 下界の砂塵も届かない青く澄んだ空が視界一杯に広がり、陽光をやや暑いほど熱烈に浴びる。四肢をだらりと広げたまま、このまま無限に落ちてしまいたい衝動に駆られた。


 勿論、そんなことをすればただでは済まない。

 未だ何百メートルも下にある地面に激突したフィリップの身体は、木から落ちた石榴より無惨に、かつての形状も分からないほどバラバラに弾けることだろう。


 すーっと水中を泳ぐような動きで近寄ってきたディアボリカが、楽しそうに口を開く。


 「──! ──!」

 「──なんですか!? 何も聞こえません!!」


 だが、流石に時速200キロで落ちている最中だ。耳元で吹きすさぶ風の音に掻き消されて、何も聞こえない。


 「良い景色でしょって言ったの!」

 「あぁ、はい! ですね!」


 フィリップは叫ぶだけでは伝わるかどうか分からなかったので、親指を立てて答える。


 見渡す限りの荒野だが、何百メートルもの高さから見下ろすと、特別感のあるものに見える。遠くに見える岩のようなお城が段々と大きくなってきて、指先くらいだったものが、親指くらいに見えた。

 複数のタレットを備えた高い城壁に囲まれた、数多くの狭間を備えた城塞だ。


 流石にこの距離では人の気配など感じようも無いが、きっと魔術学院より収容人数は多いはずだ。


 バルコニーの辺りで光が複雑に瞬く。王都外では珍しい、ガラスを使った建築物なのだろうか。

 フィリップは何かの反射だろうと、特に気に留めることなく目を細め──隣にいたディアボリカが、剣のように巨大な鏃を持つ、槍のごとき大矢に貫かれた。血で編まれたそれは、目に痛いほど赤い。


 「ごっ──!?」

 「──、は?」

 

 ディアボリカが野太い声を上げて、空中姿勢をめちゃくちゃに乱して吹き飛んでいく。吹きすさぶ風に血の匂いが混じり、鼻の奥にツンと染みた。


 死んだか?

 だとしたら──フィリップも死ぬ。


 刻々と迫ってくる地面に叩き付けられるのは確定だ。平時ならハスターを召喚して乗せて貰えば済む話だが、今は魔力制限の首環が付いている。フィリップにできることは、何も無い。


 「──なんだ!?」


 別に、この世に未練なんて無い──とか、カッコいいことを言えたらいいのだが、残念ながら未練はある。

 そもそもこんな荒れ果てた土地にまで足を運んだ──運ばれてきたのは、偏にハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使いという、それはもう少年心を擽る、とびきりカッコいい御方を見てみたい一心でだ。


 握手とかして貰うまで。サインとかして貰うまで。欲を言うなら稽古とか付けて貰うまで、死ぬわけにはいかなかった。


 フィリップにしては珍しく、明確な戦意を以て攻撃者を探す。

 しかし、未だ地上までは何百メートルもある。いくら無人の荒野とはいえ、人間大のものを探すのは難しい。それに気のせいでなければ、あの矢は城の方から飛んできた。ディアボリカの居城だという、城の方からだ。


 「どうなってるんですか、ディアボリカ!!」

 

 フィリップは重力に引かれて落下しながら、残り数分となった命を浪費するように、そんな苛立ちを叫ぶ。

 そのまま落ちて、落ちて、落ちて──地面に直撃した、のだろうか。潰れるというより、むしろ浮いたような不思議な感覚に包まれて──


 「──ギリギリセーフッ!」

 「いやほんとにギリギリでしたよ!? ちょっと死んだかと思いましたからね!?」

 「仰向けで正解だったわね! うつ伏せだったら、迫る地面を見て錯死してたかも!」


 ──ディアボリカが激突直前でキャッチして、水平飛行に切り替えて九死に一生を得た。


 フィリップは不平不満と罵詈雑言を並べたい衝動に抗い、いま最も気にするべきことだけを問いかける。それが出来る程度にはフィリップの思考は戦闘に慣れていたし、ディアボリカの飛行速度も抑えられていた。


 「今の、お城から撃ってきましたよね? やっぱり離反ですか?」

 「いえ、離反──やっぱりって何? アタシ、そんなに暴君に見える?」


 ディアボリカはそう言って典雅な顔立ちを冗談っぽい笑みに綻ばせるが、フィリップは「何を今更」と言いたげに眉根を寄せた。


 「そりゃまぁ、学校に突撃して子供を攫いそうな程度には」

 「あら、吸血鬼が人間の都合を気にするなんて、そんなの有り得ないでしょう?」


 フィリップの言葉に、今度はディアボリカが「何を当たり前のことを」と眉根を寄せる。何か言い返したいところだが、フィリップはむしろ「確かに」と納得して半笑いだった。


 ディアボリカは満足そうに頷き、城の前で急上昇して城壁を跳び越える。

 内臓を圧迫する強烈なGは一瞬で終わり、巨大で堅牢そうな正面玄関の門前にふわりと着地した。

 

 「到着! ようこそ、麗しの我が家へ」


 木と鉄で出来た重そうな扉を片手で軽々と開けたディアボリカは、もう片方の手を誘うようにその奥に向ける。

 素直に「お邪魔します」などと言いつつ門を潜ると、当然だが視界は一変する。その当然のことに意外感を覚えてしまうほど、石造りの古城の中は清潔に保たれていた。


 エントランスホールの突き当りには大きな両階段があり、上階から扉の前まで深紅のカーペットが敷かれている。高い天井からは絢爛なシャンデリアが吊られて、ホールに複雑な明かりを投げかけていた。壁や柱には石英などの建材がふんだんに使われており、石造りの無骨な外観からは想像もつかない豪奢な内装だった。


 吸血鬼の居城と言うから薄暗くてじめじめして、蜘蛛の巣が張っているようなものを想像していたのだが。


 「──おかえりなさいませ、先代様」


 ほえー、と気の抜けた感嘆を垂れ流していたフィリップのすぐ隣で、明朗な声がする。

 視界に入っていないどころか、人の気配さえ感じていなかったフィリップはびくりと肩を震わせて目を向けるが、そこに居たのはモノクロームのクラシカルなメイド服を着た少女だった。


 「ただいま、ルーシェ。さっきの矢はアナタの?」

 「はい。ご主人様に、帰ってくるたび最低一度は撃墜せよと申し付かっておりますので」

 

 くすんだ金色の長い髪を揺らして、ルーシェは悪びれもせずににっこりと笑う。ディアボリカも承知の上なのか、一片の苛立ちも見せない。


 「そちらのお客様が、例の?」

 「そうよ。あの子のお婿さん候補。フィリップ・カーター君です、よろしくしてあげて?」


 ディアボリカに片手で示され、フィリップは曖昧な笑顔を浮かべてメイドに会釈を送る。使用人相手──それも、ルキアやステラのような友人の使用人ではなく、ほぼ敵に近い他人の使用人相手に、どこまでの礼儀を尽くすのが最適なのか分からなかったからだ。


 それに、助けが来るのならそれまでの、来ないのならフィリップがどうにか首輪を外すまでの付き合いだ。


 そんなフィリップの内心も知らず、ルーシェは人好きのする明るい笑顔を浮かべた。

 

 「わぁ! じゃあ“旦那様”ですね! 私はルーシェ。このお城の侍従長をしています! よろしくお願いします!」


 明朗で活発そうな言葉とは裏腹に、ロングスカートを持ち上げるカーテシーの動きは高度に洗練されたものだ。老成されている、と表現しても差し支えない、ナイ神父の所作にも匹敵する動きだった。

 メグは握手を嫌がったのだが、ルーシェはむしろ嬉しそうにフィリップの手を握り、感触を確かめるように柔らかく振る。

 

 「剣をお使いになるんですか? それなら、ご主人様とお話が弾むことかと存じます!」


 手のマメなんかから推察したのだろう、ルーシェは嬉しそうに笑う。

 右腰に吊っているウルミが目に入らないのか、この特異な外見の物体を武器とは認められなかったか。或いは、最近ロングソードの練習を始めたことを、僅かな体軸や筋肉の疲労具合で見抜いたか。……流石に、最後の仮説は非現実的だが。


 「それに、ご主人様と先代様によく似た匂いが──」

 「さ、行きましょう。早速だけど、娘に会わせてあげる。心の準備はいい?」


 呟きほどの小さなルーシェの声を遮り、ディアボリカがフィリップの背を押して促す。フィリップは胸を高鳴らせる期待で、嫌な心当たりのあるルーシェの呟きどころではなかった。


 「……ペンとインク、あと色紙が欲しいです」

 「……豪胆と言うか、最早図太いわね、アナタ……」


 ルーシェが「ご用意いたします」と律儀に一礼して立ち去ったあとで、ディアボリカが呆れ交じりに笑う。

 しかしフィリップにしてみれば、相手は初対面どころか顔も名前も性格も、何も知らない吸血鬼だ。かつて左手をぐちゃぐちゃにされた仇敵に拉致されて「お婿さんになるのよ」とか言われても、一ミリも実感が沸かない。


 だからフィリップの心中を埋める期待は、「ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使い」に対するものだ。

 そのとびきりカッコいい、少年心を擽ってやまない存在に対する憧憬だけが、フィリップが全くの無抵抗にここまで来た理由なのだから。


 厚い絨毯の敷かれた両階段を上り、同じカーペットの続く廊下を進む。やがて王城の謁見の間を彷彿とさせる、大きな両扉の前に辿り着いた。


 「はい、到着。じゃ、開けるわよ? ──ただいま、ミナ! 貴女のお婿さんを連れて来たわ──うぉっ!?」 


 重そうな扉を、今度はハイテンションに勢いよく開け放ったディアボリカは、その心臓目掛けて飛来した血で編まれた槍を、野太い声と共に掴んで止めた。

 ディアボリカの両手をズタズタに引き裂き、屈強な体躯を靴底を擦りながら後退させて漸く防ぎ止められた一撃は、躱したり弾いたりといった生半な防御を許さないだけの威力があった。


 吸血鬼は首を刎ねても血液いのちのストックがある限り一瞬で再生するが、その血液は大部分が心臓にプールされている。つまり心臓を破壊されると、ストックの半分以上を一度に失うのだ。

 人体なら即死の急所だが、吸血鬼にとっても甚大なダメージを負う急所。そこを周りの肉ごと抉り飛ばすような一撃には、深い殺意が滲んでいた。


 「……?」


 フィリップは何が起こっているのかと、ディアボリカが開けた扉の奥を見遣る。


 扉の奥は、王城と同じく、ホールと玉座の据えられた階段のある謁見の間だ。

 流石に部屋の装飾は王城より数段劣る。しかし広々としていて、磨かれた大理石のような美しくも落ち着きのある建材が使われた内装は、宝石の輝きが目に痛いほどだった王城よりもフィリップの好みには合っていた。


 その最奥、玉座の辺りで、深紅の光が閃く。

 それは血液で編まれた紅玉色の槍が、シャンデリアの明かりを複雑に反射したものだった。









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