第230話
フィリップが身体の自由を取り戻したのは、街道沿いの荒涼とした野原に生えた、小ぶりな木の下でのことだった。
学院を出てから、一時間くらいは飛んでいただろうか。色々と平常ではない状態の体感時間にどこまで信用が置けるのか、自分でも分からない。
きょろきょろと周囲を見回して、はてここは何処なのだろうと呆然とするフィリップに、木陰に座ったディアボリカは上機嫌に笑いかけた。
木漏れ日を浴びた典雅な顔立ちの紳士は、嫌気が差すほど絵になっている。
「……あら、意外と落ち着いてるのね。いえ、意外じゃなくて流石って言うべきかしら? アナタのそういうトコロを見込んだわけだしね」
「いや、動揺で人が殺せるなら100人ぐらい死んでる程度には動揺してますよ。手始めにお前」
そう言って中指を立てるフィリップだが、殺し合いを始める前口上という訳では無かった。
威嚇でさえない。というより、今のフィリップには、威嚇するだけの武器が無い。ウルミはあるが、効かないことはあの森で体験している。
そして、あの森でディアボリカが終始警戒していたフィリップの“切り札”──邪神召喚もまた、完璧に封じられていた。
拘束の魔眼によってではない。あの時はフィリップがそれを警戒するあまり、切り札を切れなかっただけだが、今はディアボリカの視線がこちらに向いていなくても、一切の魔術を使えない状態にあった。
「あら怖い。なら、その首輪を外したら殺されちゃうのかしら?」
「試させてあげますよ、これを外してくれるならね」
フィリップの首には、黒い革のチョーカーが巻かれていた。ベルト式ではなく鍵穴の付いた金具で留められており、ディアボリカは小さな鍵を手元で弄んでいる。
魔力制限の腕輪を付けた経験のあるフィリップには、これが同じ効果を持つものだと、説明されるまでも無く感覚的に理解できた。
「……どこですか、ここ」
「別に、何処ってほど名のある場所じゃないわ。王都から100と2、30キロ離れたところよ」
「…………」
あっけらかんと言ったディアボリカに、フィリップは思わず頭を抱える。
120キロなんて、遠すぎてもうピンと来ないくらいの距離だ。歩いてみようとは思わないし、かといってハスターを呼んで「乗せてって?」というのは、道中で何万と被害を出してしまいそうで流石に怖い。
耐えていればルキアとステラが助けに来てくれるとは思うのだが、それも確証の無い話ではある。
「……こんなド田舎に住んでるんですか、娘さんは」
見渡す限りの野原で、少し遠くには森も見える。街道の先には小さな村もあるようだが、見た限り家が20棟くらいしかない。
フィリップの生まれ育ったヴィーラムの街も自他共に認める田舎町だったが、この辺りはそれ以上だ。王都近郊の“田舎”と、正真正銘の“田舎”は全く違うらしい。
さておき、吸血鬼が住んでいるにしては、流石に人気が無さ過ぎる。誰か失踪したら、村人全員が気付くだろう。まぁ、村の全てが吸血鬼の支配下という可能性も無いではないが。
そんなことを考えていたフィリップに、ディアボリカは黒い目をきょとんと丸くする。
「いや、違うわよ? ちょっと休憩してるだけ。私達のお城はまだ先よ?」
「お城に住んでるんですか? それは何とも贅沢な……どの辺にあるんですか?」
「んー……そうねぇ……ここからあと1000キロは無い……くらい?」
「せん……?」
120キロでさえピンと来なかったというのに、さらに桁が上がった。
千キロってどのくらいだろうと、フィリップは頭の中で計算を始める。
長距離行軍用の軍馬が、まぁ概ね時速7キロくらいで、日の出から日の入りまでの12時間、移動できるとする。
「ふむ、一年生で習ったレベルの算術……。で、えーっと?」
一日で移動できる距離が概ね84キロ。地形や天候、魔物や野盗との遭遇といった不確定要素を完全に排除して、真っ平らな道を一定速度で進むという馬鹿げた想定に基づく概算だが。
王都からディアボリカの城まで1100キロだと仮定すると、14日目にようやく到着といった塩梅か。
「二週間か……」
フィリップは独り言ちて、痛みを堪えるように頭を抱えた。
街道の整備されていた王都から教皇領までの道程でさえ30日近くかかったのだ。王都から1000キロも離れれば、まず間違いなく人類未踏領域──魔王の領地、暗黒領に入る。そこには馬宿どころか、街道だって無いだろう。馬の行軍速度は低下するし、馬車が付いているなら尚更だ。
──ディアボリカ相手ならルキアとステラが頼れるからと、追跡の手掛かりにシルヴァを置いて来たのだが、無意味だったかもしれない。
それだけ人々の営み──人間社会から遠い場所なら、もう何をしても良いだろう。
ハスターどころか、クトゥグアを召喚したって怒られないはずだ。いや、化身次第だが、街一個レベルの火力程度なら、どうぞご自由にと解放できる。
何より、ルキアとステラが絶対に巻き込まれないというのが素晴らしい。
フィリップは、危害が加えられそうになったら、なるべく致命傷になるように行動すればいい。そうしたら、ヨグ=ソトースの庇護が発動するはずだ。ちょうどいい機会だし、どういうものなのか確認しておきたい。
何ならナイアーラトテップとシュブ=ニグラスも召喚できるだろう。
ナイアーラトテップは修学旅行で良いものを見せてくれたし、シュブ=ニグラスには最近会えていないから、この機会に褒賞と埋め合わせと言う形で、少しだけなら暴れても良い事にしようか。勿論、三次元世界に影響が出ない範疇でという条件は付くけれど。
……まぁ、これは所謂、捕らぬ狸の皮算用というやつで、何にせよ首輪を外すのが最優先だ。
触った感触からすると革製のようだが、爪が立つような気配がまるでない。防具などに使われる錬金術製の特殊皮革だろうか。専用の鍵で開けるか、規定以上の魔力を流し込んで壊すか、とびきり鋭い刃物で切除するしか外す方法は無いだろう。
「あら、助けを期待するのなんて今のうちだけよ? 娘の顔を見たら、すーぐオチちゃうから」
「ははは」
「二週間耐えれば助けが来る」という意味の呟きではなく、むしろ「二週間以内なら何をしてもいいのか」という、ある種の解放感に満ちた呟きだったのだが、ディアボリカは前者と受け取ったらしい。まぁ、フィリップの現状は「何をしてもいい」というより「何もできない」と言った方がいい有様なので、仕方のないことだ。
それにしても、続く言葉も全く以て無知蒙昧と言わざるを得ない。
フィリップは人外の美に魅入られていることを自覚しているし、それは概ね事実だ。フィリップに「美人だ」と思わせたいのなら、最低でも人類最高レベルの美貌を用意する必要がある。より確実を期するのなら、人類以上の美が欲しいところだ。
「まぁ、それはさておき。そもそも娘さんは「お婿さんを連れてくるわよん」って言われて、「分かったわよん」って言ったんですか?」
「アタシも娘も「わよん」なんて言わないけど……ま、まぁ、いいわ。えぇ、やっぱり花婿としては、認められるかどうかは気になるところよね」
「はぁ? 娘さんが馬鹿な親のとばっちりで死ぬ哀れな存在なのか、馬鹿な親から生まれたせいで馬鹿に育った悲しい馬鹿なのか、殺す前にそれくらいは知っておこうっていう優しさですよ」
フィリップはまた中指を立てて吐き捨てる。
身体の自由を取り戻してからずっと普段のフィリップらしからぬ乱暴な言動を繰り返しているのは、意図的なものだ。
あわよくば、激昂したディアボリカがフィリップを殺そうとしてくれないかなと──ヨグ=ソトースの庇護が発動しないかな、と、そう期待してのことだ。魔力制限の首環を付けられてしまった以上、召喚魔術は使えない。フィリップに残された武器は、もうその一つだけだった。
そして、ディアボリカはそれを察していた。
「アナタの狙いは分かってるし、アタシは少なくとも自分では、アナタに対して十分に警戒してると思ってる。だから、そんな柄にもないことは辞めたら? 疲れるだけよ?」
「……はぁ」
フィリップの表情から、わざとらしい嘲笑が抜け落ちる。代わりに普段通りの諦観が貼り付いた顔で、フィリップはすとんと腰を下ろした。
抵抗の意思を失くしたフィリップに、ディアボリカは満足そうに頷く。それでいい、と言わんばかりに。
しかし、フィリップの抵抗は無意味だったわけではない。フィリップにとってはマイナスの意味があった。
「今のではっきりしたわ。アナタの切り札、死と引き換えなんでしょう? それでいて死を恐れてはいないみたいだし……蘇生と、何か強力な攻撃ってところかしら」
ディアボリカの正確な推察に、フィリップは思わず舌打ちを溢す。
あの森での一件と今回のフィリップの態度で、ほぼ完璧に分析されていた。「蘇生」ではなく「防御」のはずだが、未だ一度も発動していない以上、フィリップにもその辺りの正確な情報は分からない。
「ま、そんなところです。……仕方ない。助けが来るまでは大人しくしてますよ」
嘘である。
フィリップは隙を見てどうにか首輪を外そうとしているし、魔力制限が外れたら隙を見て邪神を召喚する気でいる。城ごと吸血鬼親子を吹き飛ばすつもりだった。
「……そういえば、吸血鬼って不老不死なんですよね? 子供が出来たって、赤ちゃんの状態から老いない──全く成長しないのでは?」
「あら、学校で習ってないの? そもそも純粋な吸血鬼同士では子供は出来ないわよ。……さて、そろそろ移動を再開しましょうか」
「え、ちょ、まだ質問が──」
言い募ろうとしたフィリップに拘束の魔眼が向けられ、鼓動無き彫像と化したフィリップは荷物のように担ぎ上げられる。
そして、また時速120キロの旅路へと拐かされた。
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