第188話

 「最悪だ……。お気に入りの服だったのに……」


 陽の光のように麗しい金色の髪と、赤いジャンパースカートを乱れさせ、所々に銀色の毛を付けたステラがぼやく。

 ルキアが意図的にじゃれつかせた狼の体重と筋力は、肉体的には人間の女性の域を出ないステラをもみくちゃにするには十分だった。


 「犬の毛は洗濯しても残るんだぞ? 掃除担当の侍女は「逆にやる気が出る」と笑っていたが、洗濯担当の負担を思うと胸が痛い」

 「嘘ね。まだ一週間くらいだけど、貴女の服に毛が付いているところなんて見たこと無いもの」

 「……目敏いな」


 ちり、と小さな音と共に、周囲にタンパク質の焼ける香ばしい匂いが漂う。


 呆れたように笑ったステラの緻密極まる制御の魔術が、自分の髪や服に着いた狼の毛だけをピンポイントで焼却していた。


 「……顔を洗ってくる」


 それでもべろべろと舐められて涎塗れの顔だけはどうしようもなかったのか、ステラは億劫そうに立ち上がって化粧室に向かった。涎そのものは指の一弾きで蒸発させられても、顔を洗ってリフレッシュしたいと思うのは当然だ。

 ルキアも留飲は下げたのか、ひらひらと手を振って見送る。


 二年生は休暇中、他学年は授業中で、フィリップとシルヴァのはしゃぐ声が聞こえない場所は静閑だった。廊下にも、トイレの中にも、一人もいない。誰ともすれ違わない。ともすれば、この世界にはルキアとフィリップだけ──中庭に戻ったら二人も消えていて、ステラ一人だけなのではと不安になりそうな静けさだ。


 だというのに、顔を洗って鏡を見ると、斜め後ろに顔を伏せて立っている若い女性の姿があった。


 唐突に視界に飛び込んだ人間。

 視界に映っているのに、集中しなければ感じられないほど希薄な気配。


 トイレの洗面所という如何にもな場所で遭遇すれば、絶叫しかねない異常事態だが、その女性は目と顔を伏せ、手には真っ白なタオルを捧げ持っていた。よくよく見れば、彼女が身に付けているのはモノクロームの、オーソドックスなメイド服である。


 「ご苦労」


 さも当然のようにタオルを受け取り、顔を拭うステラ。

 これが王宮の中なら、顔を拭く作業すら任せていただろう。そんな信頼の窺える無造作な所作だった。


 「……それで、用件は? タオルを持ってきただけではないだろう?」

 「はい、殿下。国王陛下より言伝を申し付かっております」

 「内容は?」

 「はっ、略式にて失礼いたします。国王陛下は「本日夕刻6時頃より、玉座の間に於いて謁見を執り行う」と仰せです」


 言い終えると、メイドはどこからともなくブラシを取り出し、ステラの髪を整え始めた。

 されるがままに任せながら、顎に手を遣ったステラは「今日か」と口の中で愚痴る。背後に立ったメイドには鏡に映る悩まし気な表情が見えていたが、何も言わずに手を動かす。


 やがて作業を終えると、一礼して消えた。

 ──消滅したのではないことは、ステラの魔力感知能力が捉えた一連の動きから分かる。彼女は一礼すると、流麗な所作で化粧室の扉を開けて出て行った。現在位置は外の廊下で、玄関方面に向かって歩いている。


 ただ、人間の認知を掻い潜るような──主人の意識に留まらないような、万が一にも邪魔をしないための動きというだけ。


 「メイドというよりアサシンに向いている……いや、アサシンがメイドに向いているのだったか」


 ルキアの側付きを思い出し、独り言ちる。


 気分を切り替えるように溜息を一つ吐き出して、ステラも化粧室を出て校庭に戻る。


 使役下の狼に思念を通じて命令を送ると、「助けてくれ」と言いたげな思念が返ってきた。魔力経路を辿って大まかな位置を特定すると、どうやら命令通りこちらに向かって来ていたが。


 「ははは! シルヴァが乗った分、走りにくいんだ! 良いぞシルヴァ! そのもふもふ、大人しく僕にもふもふさせて貰おうか!」

 「もふもふ!」

 

 標的をシルヴァからふりふりと揺れる尻尾や全身を包む白銀の毛皮に変えたフィリップが、その後ろを追っていた。

 背中に乗ったシルヴァが狙われているだけで、怯え切って全力疾走していた狼だ。直接狙われていることに直感的に気付いてしまえば、冷静さを失って駆け回るのも無理のないことだ。


 「……ストップだ、カーター」

 

 ステラは指の一弾きで狼を送還する。

 今の今まで乗っていた狼が魔術的異空間に収納され、慣性に従って飛んできたシルヴァをキャッチ。そっと地面に降ろす。5,6歳の少女といった体格だが、血肉の代わりに枯れ葉でも詰まったような、異常な軽さだった。


 「ナイスキャッチです、殿下」

 「ないすきゃっち。ありがと、すてら」

 「気にするな。それより、カーター。お前に大事な話がある」

 

 いつもフィリップやルキアに向ける明朗な笑顔ではなく、威厳ある次期女王の顔になったステラ。

 これは真面目な話だぞと背筋を伸ばしたフィリップと、真似をして気を付けの姿勢をとるシルヴァ。真面目な表情を作っていたフィリップが、それを見て口角を緩めていた。


 かわいいなぁ、とか言いながら、若葉色の髪を撫でる。完全に「真面目な話」の空気では無くなっていた。


 「……あ、すみません。大事な話ですよね!」

 「いやいや、その意気だぞ、カーター」


 きりりと表情を引き締め直したフィリップとは反対に、ステラは穏やかに口元を綻ばせる。

 はて、と首を傾げたフィリップの抱いた疑問は、


 「今から王城に来て貰う。悪いがお父様──じゃない、国王陛下の召喚命令だ。他のどんな用事よりも優先されると考えてくれ」

 「……はい?」


 予想だにしなかった単語の羅列によって吹き飛ばされた。


 王城? 国王? 召喚?

 どれもこれも、フィリップのような平民──それも田舎から出てきて一年そこらの、11歳の子供とは縁のない言葉だ。……いや、召喚は「する側」なら身近だが。


 言葉が耳から入って、空っぽの頭蓋の中をバウンドして、反対の耳から出て行ったような錯覚すらあった。

 片手で足りる数の単語の意味を理解するのに、数秒の思考を要する。


 なんて? と聞き返したいところだが、それよりも聞くべきは。


 「なん、で、です、か……?」

 

 その理由だ。


 いや、色々と心当たりはある。

 特に王都の一角を吹っ飛ばしたことと、ステラをに引きずり込んだことは、王様にとってはそりゃあもう一大事だろう。


 フィリップには親心なんて知りようも無いが、フィリップだって、知らないところでルキアが発狂していたら、その理由ぐらいは突き止めようとするはずだ。我が事ながら自信を持てないのは辛いところだが。


 とにかく、王様がフィリップとの対面を望む理由は確かにあるし、見当も付く。

 だが如何せん数が多いのだ。王国領内のダンジョン一個を丸ごと消し飛ばしたのはルキアだが、同行者はフィリップ以外全滅。使徒暗躍の標的にもなったし、先日は吸血鬼と遭遇して生還。撃退ではなくディアボリカ自身の意思による撤退という報告だが、それでも大金星と言っていい異常事態だ。


 どれだ?

 どれが王様の目に留まった? どれが理由で怒られる? 用意していくべき言い訳はどれだ?


 「不明だ。訊いても教えてくれなかった」

 「いやあの、僕、謁見どころか登城経験すら無い……無いんですけど。あとご存知でしょうけど、礼儀作法も王様に会えるレベルじゃないですよ?」


 なんとか断るか、せめて時間だけでも稼ごうとしたフィリップだが、不自然なタイミングで言い淀む。

 その脳裏には、かつて訪れた地獄──この世のあらゆる神殿よりも荘厳で、あらゆる城より豪奢な、宇宙の中心にあり無限大の広さを持つ魔王の宮殿が思い浮かんでいた。


 あそこを訪れた、あの悍ましい場所と繋がった経験から言うと、人間の作った城なんて、砂場の山みたいなものだ。

 人間の王だって、かつて拝謁した盲目白痴の魔王と比べれば、女王アリを喩えに挙げてもまだ過剰だ。


 ただ、それはそれとして。


 「怒られるんだ……そうに決まってる……やだなぁ……」


 フィリップは自分の精神性を理解している。

 外神の価値観にある唯一絶対の基準は「自分自身」だ。特に、感情の占める割合はとても大きい。


 損も、得も、全ては泡沫。

 あらゆる全てに価値が無いが故に、自らの感情に対してどこまでも正直。


 ナイアーラトテップがアザトースの意図なき命令に従うのも、シュブ=ニグラスがフィリップの機嫌を優先するのも、全ては感情に任せた振る舞いだ。

 それが許されるだけの暴力を、存在の格を備えているからこそ度し難いというものだが、フィリップの心の奥底には、同じものが植え付けられている。


 仮定の話だが、緊張で頭が真っ白になって、外神の精神が表出したら──フィリップは恐らく、


 衛兵に止められようが、近衛騎士に剣を突き付けられようが、王様が立ちはだかろうが、あらゆる障害を薙ぎ払い、学生寮のベッドに辿り着く。そして布団をかぶって寝る。

 邪魔するものは誰であれ、何であれ、あらゆる手段を以て排除する。ハスターも、クトゥグアも、ナイアーラトテップも、シュブ=ニグラスも、ヨグ=ソトースでさえ、そのための手駒にするだろう。


 感情を理性で制御してこその人間だと、それこそが人間らしい在り方だと信じているからこそ、そうはなりたくない。

 何より、


 「冗談じゃないぞ……寝覚めが悪いどころの話じゃない……」


 起きたら王国が滅んでました、とか、悪夢にも程がある。


 女王アリ国王陛下との謁見で緊張するかどうかは別として、怒られるのがほぼ確定している状態で、他人の親になど会いたくはなかった。


 どうしよう。

 いっそ謁見の前に殺してしまおうか。……いや、それは本末転倒に過ぎる。


 「いや、怒っているという感じでは無かったが……確定ではない。まぁ、問題になりそうだったら、私がお父様を止めるさ」

 「うぅ……頼りにしてます……」





 

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