第187話
ナイ神父の機嫌が急降下したことに一切動じず、フィリップはこくりと首肯する。
「はい。この子……シルヴァを傍に置いておくには、召喚物として契約する必要があるみたいで。王都の入り口で衛士団の人に言われたんです」
「…………」
ナイ神父は心の底から不愉快だと言いたげな視線をシルヴァに向けるが、シルヴァは極彩色の双眸を不思議そうに見返すだけで、大きな反応を見せない。
「君のお傍に、これを? 何故です?」
「何故って……当時はドライアドの子供だと思ってたので、同族が全滅した森に独り残すわけにもいかないと思って」
「その義務感は間違いだったわけですから、もはや使役契約など必要ないのでは?」
ナイ神父の言説には、フィリップもなるほどと頷くところだ。
星の表層、ヴィカリウス・システムの一個体を保護するなんて、人の身には余る。第一、シルヴァの方がそれを必要としないだろう。
膝の上で退屈そうにしていたシルヴァに視線を落とすと、シルヴァもちょうど、こちらを見上げていた。
感情の読めない翠玉色の双眸に、薄く不安の影が差す。
「しるば、いらない?」
「んん……」
悲壮感を催させる──否、シルヴァの抱いた悲壮感が強烈に伝わる声で問われ、呻き声を上げるフィリップ。
そんな彼を安心させるように、シルヴァはにっこりと笑った。
「わかってる。しるば、たたかえないし、こころもよめない。だからみんな、しるばのこといらないっていってた。うまれそこないだって」
「んんんん…………」
ヘタクソな笑顔だと、フィリップだけでなくルキアとステラも表情を悲痛に歪める。ナイ神父だけが一貫して不愉快そうにしているが、そのどれも、フィリップの視界には映らない。
「……シルヴァ、一昨日言ったこと、覚えてる? 僕が君を守るって、言ったでしょ?」
「……ん、おぼえてる」
「あれはまだ継続だよ。君がそれを望まない限り……いや、君がそれを望んでも、僕は君を捨てたりしない。それが言葉に対する責任だよ」
シルヴァの頭を撫でながら、フィリップは言い聞かせるようにゆっくりと、優しく語る。
心地よさそうに目を細め、安心したように体重を預けたシルヴァを、フィリップは背中からしっかりと抱き締めた。
「戦えなくていい。君に戦わせるつもりはないから。心なんて読めなくていい。僕たちには言葉があるから。だから君に望むのは一つだけ。一緒にいよう? いつか君が大きくなって、強くなって、僕たち人間に何の価値も感じなくなって、一緒に居ることにも飽きてしまったら……その時には、好きなように生きていけばいいからさ」
ほんの少しの羨望を滲ませながらも最後まで言い切り、シルヴァの髪に顔を埋めるように抱き締める力を強くする。
フィリップの言葉は、いずれフィリップ自身がそうなるかもしれない未来の話であり、フィリップのそれは半ば強制されている。
シルヴァのように「元々そういうものだった」のではなく「そうなるように歪められた」結果が今だ。そしていつか、心の奥底から表層まで、全部が外神に染まってしまう。そうなったらきっと、こんなところには居られない。
だから、
「でも多分、その時には僕も一緒だよ。君は戻って、僕は狂って──いや、狂うことも出来ずに、君と同じかそれ以上のところに行く。だから──うん。シルヴァと僕は、ずっと一緒だ」
いつかフィリップが
──と、なんだか美談のような空気だが、実態はそんなに良いものではない。
まず大前提として、フィリップはシルヴァを召喚物として使役する契約を結ぼうとしている。
上下関係が、とか、使役だなんて奴隷のよう、とか、そういう論旨ではない。ただ、フィリップは元々、狼と──父の猟犬に似たものと契約するつもりでいた。
フィリップの言う「使役契約」は、言うなればペット感覚なのだ。
「守る」という言葉も、最後まで責任を持つという覚悟も、犬猫に対するそれと何ら変わらない。たとえ相手が、星の表層であったとしても──外神の視座にしてみれば、それこそ犬猫も同然だ。ただし軍用犬のような脅威ではなく、片手で縊り殺せる愛玩種だが。
フィリップがシルヴァに感じているのは、一方的で身勝手な共感の他は、たかだか一個惑星の表層の、その一つに過ぎない矮小なモノへの冷笑と嘲笑。愛玩。それくらいだ。
ルキアに感じる羨望や愛着とも、ステラに対する共感や依存とも違う、どこまでも超越的で自己中心的な感情だけ。
シルヴァを戦力にするつもりはない。
だって、そもそも戦力だなんて思えない。たかだか一星の触角程度、星を焼くような火力を、戯れに星を砕く邪悪の貴公子を知る身では、強いとは思えない。
シルヴァには何も期待していない。
彼女がフィリップに何かしてくれるとか、何かの役に立つとか、そんな打算は一切無い。
彼女の外見がフィリップより年下の女の子で、置かれた境遇を可哀そうだと思って、庇護欲をそそられたから。
ただそれだけの理由だ。ただそれだけの感傷が、フィリップの行動の指針だった。
それを、その破綻と傲慢を、ナイ神父は笑う。
嘲笑と、冷笑と、もう一つ。子供の成長を言祝ぐような、喜悦を混ぜて。
「……そういうことであれば、仕方ありませんね。情操教育にも良さそうですし」
一転して上機嫌になったナイ神父に首を傾げつつ、案内に従って教会の奥に進む。
ルキアとステラはここで待つようにと、ナイ神父に言われていた。
「学院のカリキュラムは把握しています。契約の確立、召喚と送還ができれば召喚術の単位は取れますから、盛り込む機能はこれだけで。隷属術式は必要ありませんね?」
「はい、十分です」
空室の一つに入り、ナイ神父がこつこつと靴を鳴らすと、フローリングの床に複雑な魔法陣が描かれる。
魔法陣は一見すると黒いインクで描かれたように見えるが、フィリップはその粘性のある液体が、とある神格の血液だと分かった。
「……最上級契約、ですか」
「君の肉体は人間ですからね。これ以下の術式ですと、最悪、君の肉体が花火のように飛び散ります」
なにそれこわい、と苦笑して──フィリップとシルヴァは繋がった。
その後は、然したるイベントは無かった。
まるで見てきたように詳細な、フィリップが停止していた間と気絶していた間に起こった諸々、シルヴァの献身がフィリップの命を繋いだことを説明されて、フィリップがちょっと安心したくらいか。
◇
回想を終えたルキアとステラは、ほぼ同時に溜息を吐いた。
その宛先は、遠く、星の表層であるシルヴァと鬼ごっこに興じながら楽しそうに笑うフィリップだ。
「……楽しそう、いや嬉しそうだな、ルキア?」
「そういう貴女は難しい顔ね? 何かあったの?」
まぁな、と応じて、ステラはもう一度深々と嘆息する。
その表情はいつになく重く、オフの時の明朗快活なお姉さんといった風情は無い。ルキアと戦っている時の獰猛さもなりを潜め、国を憂う王族の顔になっていた。
「実は昨日、お父様がカーターに興味を持ったというか……王城に呼ぶように言われてな」
「そうなの? でも、そんなに心配しなくても平気よ? あの子の礼儀作法は王宮レベルには程遠いけれど、最低限のものは身に付けているわ。王様に「楽に話していい」って言われるまで、「無礼なことをするから話せない」の一点張りを貫き通すくらいの図太さもあるしね」
「いや、無礼討ちを心配しているわけじゃない。問題はお父様が何を求めているのか分からないことだよ。訊いても答えてくれないし、内心を読めるほど表情の制御が甘い人でもないしな」
公爵家の一員とはいえ、次期当主ではないルキアは家格に対する意識が薄い。勿論、公爵家の名に恥じぬよう、そして何よりも自分自身の美意識に沿うよう、美しい振る舞いを心掛けてはいるが。
身分制度の埒外に君臨する聖痕者だから。シュブ=ニグラスという超越存在を知っているから。
理由はいくつもあるが、とにかく、ルキアは自分とフィリップの間に然程の壁を感じていない。フィリップの方が壁を感じていないことも大きな要因だろう。
しかし、ステラは違う。
ステラも同じく聖痕者だが、彼女は王位継承権第一位、次期女王だ。自分の格は即ち、王国の格だと理解している。
だから心の内ではともかく、フィリップのことを友人以上に扱ったことも、語ったこともないつもりだ。
父との食事の席でも「ルキアの他にも友達が出来た」くらいの言及しかしていない。昨年度の終わりにあった使徒暗躍事件の時は取り乱したが、あれも友人を害された者の反応としては普通だったはずだ。
互いが互いの精神の均衡を図る楔になっている、不健全に過ぎる関係だとはバレていないはずなのだが。
「王様の呼び出しって、招待?」
「いや、非公式な謁見……召喚だな。客人待遇だとは思うが、拒否権は無い」
「そう。私も行っても?」
「好きにしろ。たとえ近衛騎士が全員揃っていても、お前の歩みを止められはしないさ」
軽々に話している二人だが、非公式でも王城への召喚となれば一大事だ。
少なくとも、去年の夏休みの、公爵との対談とはわけが違う。あれはあくまで「ルキアの家に遊びに来たので、公爵にも挨拶した」程度の、言ってしまえば「ついで」のようなものだった。
今回は完全に、国王との謁見が目的になっている。
ちょっと世間話をして解散、では済まないだろう。問題は国王がそこまでする理由──フィリップに抱いた興味の理由が分からないことだ。
「私も同席するし、悪いようにはしないが……不安は募るよ。……それより、どうして嬉しそうだったんだ? カーターは楽しそうだが、それに釣られたという感じではなかったぞ?」
「……まあね」
ルキアは赤い双眸に柔らかな光を湛え、どこか陶然としたように微笑する。
同性であり、鏡を見れば同等の美貌がそこにある身でさえ見惚れてしまうような表情に、ステラは思わず息を呑んだ。
「フィリップに初めて会った時のこと、話したでしょう? あの時のフィリップは、本当に……美しかったわ。その後のダンジョンでも、同じ輝きを魅せてくれた。……あの子、この世界に価値を感じていないでしょう?」
「……そう見える瞬間は、ままあるな」
「だから、あの綺麗な心も摩耗して、失くしてしまうんじゃないかって心配だったの。勿論、そうなってもフィリップを嫌ったりはしないけれど……でも、フィリップは“シルヴァを守る”って言ったでしょう?」
「あぁ……なるほど。精神性──人間性、という奴か。お前が惚れたあいつのままで、嬉しかったのか?」
惚れた、という言葉に訝るような視線を向けたルキアだが、ステラの言葉に恋愛的な意味がないことを察して、穏やかに頷く。
「あの時のフィリップは──いえ、今のフィリップも、本当に素敵よ。あれだけのものを知っていて、それでも誰かを守ろうとする、そう思える心は本当に美しいわ」
「……あぁ、本当にそう思うよ。全く以て、羨ましい話だ」
幸せそうに語るルキアから視線を外し、遠くで走っているフィリップを見遣る。
狼の体力と走力に歯が立たず、顎を突き出してバテているが、本当に楽しそうに笑っていた。
ステラもフィリップとある程度の価値観を共有し、過去には守られた経験もある。
だからこそ、フィリップとルキアの精神性には一定の羨望を抱く。そしてそれは、フィリップがルキアに向ける視線にも、一定量含まれる感情だった。
「……なるほど、羨望、か」
フィリップがルキアに向ける複雑多数の感情の一端を深く理解して、ステラは深く頷く。
そして、
「あの時のかっこいいフィリップがまた見られて嬉しい! と──おい、待て、分かった、揶揄って悪かった。だが照れ隠しにしてもそれは少し──!」
ルキアのハンドサインに従い、狼が唸り声を上げてステラに跳びかかった。
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