第222話

 修学旅行五日目、夜。

 フィリップは教皇領内の小さな教会を訪れ、その鐘楼に隠れ潜んでいた。


 教皇庁にほど近い場所にあるこの教会はそれなりに大きく、尖塔の頂上付近に設えられた鐘は、昔ながらの手動式だ。人が三人ばかり入るだけの空間と、登るための梯子があった。

 立地も良く、街の中央付近にあるから、教皇庁の陰になっている場所以外は広く見渡すことができる。最適な監視場所だ。


 明後日に満月を迎える真円に近い形の月が光を注ぎ、本を読むくらいなら支障はない。こうも暇だと、何か持ってくればよかったと後悔する。


 「ふぅ……流石に、ちょっと冷えるなぁ……」


 大陸北部に位置するだけあって熱帯夜とは無縁なこの町は、日が沈むと気温が下がる。

 流石に息が白く染まるほどではないが、半袖半ズボンでは肌寒い。こういう時にステラが居てくれると、深部体温を操作して温めてくれるのだが、無いものねだりだ。彼女の随行を断ったのはフィリップ自身なのだから。


 ストレッチや腕立て伏せなどして気を紛らわせていると、ふと月光が翳った。

 夜空に浮かぶ淡紫の雲が、白銀の月を呑む。雲間から僅かに覗く星の光と、眼下、幾つかの建物から頼りなく漏れる人工の明かりだけが光源になる。


 フィリップは狭い鐘楼の中で、足回りのストレッチを始めた。


 ──そろそろだ。

 フィリップがコルテス枢機卿と同じことを目論んでいたのなら、このタイミングで始める。


 ここで始めないのなら、フィリップが街を離れる数日後まで待つつもりか、地下に潜ったかだが、そのどちらも少し考えにくい。

 それだと、フィリップの彼に対するイメージが「カルト」から変化しないのだ。ナイアーラトテップの言動を鑑みるに、今日か──最大でも明後日までには、何かしらのイベントがあるはずだ。


 それに、フィリップは昨日コルテス枢機卿の寝室から、彼の日記も見つけている。

 万が一誰かに見られた時のことを想定してだろう、直接的なことは何も書かれていなかったが、「計画はもうじき成就する」とか、「ナイ神父が味方であるうちに事を終えなくては」とか、待ち遠しさと焦りの感情が読み取れる文は多々あった。


 なら、先延ばしにはしないはずだ。


 特に、フィリップの対邪神性能を知らないのなら、「邪神を召喚してしまえば勝ち」だと考えるだろう。

 まあ実際、召喚物をルキアとステラが運悪く見てしまえば、その時点でフィリップの負けだ。そういう意味では「召喚したら勝ち」と言えなくも無いが、その場合はこちらも切り札で盤面返しをさせてもらう。


 「……来たな」


 遥か上空に、ぽっかりと闇の大穴が空く。

 光無き漆黒の月にも、夜空が陥没した天の奈落にも思われる外観だが、あれは空中に存在する光という光全てがを避け、闇の球体に見えているだけだ。穴でも無ければ物質でもなく、その闇の中には何もない。……今のところは。


 あれは儀式が始まった合図のようなものだ。

 もうあと十分もすれば邪神が召喚され、闇のヴェールが取り払われる。そして、その悍ましい姿が衆目に晒されるというわけだ。


 町のど真ん中でそんなものを呼び出すなんてどういうつもりなのか──と、フィリップに非難する権利はないだろう。あんなのよりもっと被害規模の大きいものを呼び出したことのある身のフィリップには。


 だから黙って、さっさと黙らせに行こう。

 フィリップは自嘲の笑みを噛み殺し、鐘楼から身を乗り出して、闇の球体の直下を探る。


 「……あの教会か」


 教皇領にも教会は点在している。

 フィリップは「教皇庁なんてドでかい教会があれば不要では?」と思ってしまうが、流石に平時のミサ程度で総本山の大聖堂を開放していては、特別感も薄れるというものだ。それに、宗教権威的な意味を除いても、教皇庁の大聖堂は歴史的にも重要な文化財だ。警備コストを考えると、やはり普段から開放しておくのは割に合わない。


 そういうわけで教皇領にも他の都市と同様に、所々に町人たちの利用する教会が点在しているわけだ。フィリップが監視塔代わりに使っている教会も、その内の一つだった。


 フィリップはするすると梯子を下り、階段を駆け下りて教会を飛び出す。


 普通に走ってはギリギリ間に合わない距離だが、足の確保は済んでいた。

 フィリップは教会に向けて走りながら必死に息を入れ、渾身の意志を込めて叫ぶ。


 「来い、カルンウェナン!」


 直後、雲間から僅かに漏れる月明りで足元に淡く在っただけのフィリップの影が、急激に濃くなり、前後に大きく広がる。

 波を割って浮上する潜水艦のように首を突き出し、やがてその全身を地上に晒し、四本の足で力強く地面を駆けるのは、黄金の鎧を纏った駿馬だ。


 フィリップを真下から掬い上げるようにその背に乗せ、教会への道を疾駆する。

 フィリップと純金の馬鎧の重さをまるで感じさせず、この世のどんな軍馬や競走馬よりも速く、そして堂々たる姿だ。隆起し熱を持った大量の筋肉、その拍動が、鞍を通してすらフィリップに伝わる。


 聖国の騎士王レイアール・バルドルの所有する、この世ならざる──否、この時間に在らざるべき怪馬。名をカルンウェナン。

 絶対に乗りたくなかったのだが、これに乗るか、邪神を召喚されてルキアとステラが発狂するかの二択だったら、流石に乗る方を選ぶ。死体安置所のような臭いは鼻に付くが、まぁ、仕方ない。


 ティンダロスの交雑種、馬のようにしか見えない怪物は、フィリップを乗せてひた走る。

 これが人生初乗馬──馬ではないが──になるフィリップの、鞍にべったり尻を付けて、鐙にはただ足を通しただけの、馬にとっては余分荷重でしかない乗馬姿勢をものともせず。


 フィリップが10分かけて走破できるかという距離を一分以下で走り抜けた化け物は、満足そうに嘶きを上げると、夜の闇に溶けるように消えた。金色の馬鎧を着ているというのに。


 「お疲れ様。レイアール卿によろしくね。あ、剣も貸してほしかったって言っといて」


 虚空に向かって見送るように手を振る。

 流石に今回は「やっぱり助けて」とルキアとステラに泣きつくわけにはいかない以上、準備は万全にしてあった。いや、しておこうとした。


 レイアール卿に「武器と移動手段が欲しいな」とおねだりしてみたところ、「馬であれば、喜んで。しかし剣は……」と、要求の半分だけが聞き入れられ、今に至る。

 あれはどうせ、「剣まで貸したら一瞬かつ端的に解決して面白くないじゃん」みたいな理由だ。


 まあ、周囲の空気を毒に変える──激烈な放電によってオゾンを発生させる──剣なんて、持っているだけで危ないし。というのは、完全に酸っぱいブドウ的な負け惜しみか。


 「さて」


 フィリップは右手をウルミのグリップに添え、教会の扉を蹴り開ける。

 とんでもなく無礼で行儀の悪いことだが、神の天罰は無いだろう。フィリップに天罰を下すぐらいなら、まずは──


 「……、……。…………」


 祭壇の真正面でぶつぶつと呪文を唱え、邪神召喚の儀式をしている、仮面の男を裁くべきだ。



 ◇



 その教会は、投石教会より幾らか大きい中規模のバシリカ型教会だった。

 玄関から最奥の聖女像と祭壇に向かって伸びる赤いカーペットが敷かれた回廊があり、その左右には信徒用の椅子が並んでいる。後ろ半分は長椅子で、前半分は一人掛けの椅子だ。


 本来は長椅子と同じく整然と並んでいるはずの一人掛けの椅子は、今は乱雑に左右に押しのけられて、魔法陣を描く場所に使われていた。カーペットも途中で無くなっており、魔術で焼いたように端の部分が焦げていた。


 教会の中には淀みの臭いや刺激臭などが複雑に混じり合った悪臭が漂っており、石柱の影や二階の回廊、梁の上などから、耳障りな鳴き声が漏れ聞こえてくる。

 二十どころではない、五十を超える下級ショゴスが、この神聖であるはずの空間に潜んでいた。


 フィリップはそれに気付いていながら物怖じせず、むしろ堂々と、赤いカーペットの上を歩く。

 回廊を半分ほど進んだところで、仮面の男が一心不乱に唱えていた呪文を止め、魔法陣から顔を上げてこちらを向いた。


 言うまでもなく、顔の左半分だけを晒した男は、ヴィルフォード・コルテス枢機卿だ。


 「……意外だな。君が一人で来るとは思わなかった」

 「……」

 

 先日に会った時とは違う、全く無感情に機械的な声で、ヴィルフォードが言う。


 その言葉に──言葉を紡いだことそれ自体に、フィリップは無言で首を傾げた。

 

 彼は今まで、邪神召喚の儀式をしていたはずだ。その証拠である天に浮かぶ闇の球体を確認して、それを頼りにここへ来たのだから間違いない。

 しかし今は、儀式を中断してフィリップと話している。


 邪神召喚は普通、フィリップが普段やっているほど生温い魔術ではない。

 魔法陣の描画、代償の用意と支払い、儀式行使と讃美歌の詠唱。どれ一つ欠けてもいけない。特に最後──招来の呪文は、途中で一旦やめる、なんて生温いことはできない。一旦やめたら、最初からやり直しだ。


 フィリップが来たから止めた──では、不合理だ。

 フィリップが来たからこそ急ぎ、フィリップに邪神を差し向けて殺すくらいのことをしてくるかと思ったのだが。


 「姉二人は連れて来なくて良かったのか? それとも自らの力量を過信し、騎士道精神でも催したか?」

 

 冷たい嘲りと深い憎悪を滲ませる侮蔑に、フィリップは目を瞬かせる。

 ややあって「姉」がルキアとステラを指しているのだと気付き、「あぁ」と納得したように頷いた。


 「ルキアと殿下が居たところで、あれが出てきたら成す術無く発狂して終わりだからね。まあ、二人が居れば、お前を殺すのに五秒も掛からないだろうけれど」


 あれ、というところで頭上を指す。

 勿論梁の上に潜んでいるショゴスではなく、上空に浮かぶ闇の繭、そこに現れる邪神のことだ。


 暫定カルト相手というだけあって──本当なら「カルトと言葉を交わす舌は持ってない。苦しんで死ね」と戦端を開いていたところだが──、フィリップの態度にいつもの取り繕った敬意は無い。

 あるのは心底からの冷笑と嘲笑、そして僅かな好奇心だ。本当に、これをカルトではないと認識するのだろうかと。水槽に飼っているザリガニが青くなるか、程度の、無益なものだが。


 「だろうな。だからこそ、君が一人で来てくれて良かった。お陰で私は、邪魔者を排除してからゆっくりと儀式に臨める! やれ、ショゴスたち!」

 「……へぇ? ショゴスの名前は知ってるのか」


 石柱の陰から次々と姿を現す、直径一メートルほどの黒い粘体の塊。下級ショゴス。

 二階の回廊や梁の上からも、続々と落下しては、べちゃりと聞き汚い音を立てて半分ほど潰れ、反発するように元の形に戻る。


 フィリップはショゴスの雨の只中に立ちながら、どこか感心したように呟いた。


 「私としては、君がそれを知っていることこそ驚きだがね」

 

 君のような子供が、と侮りの気配を見せるヴィルフォード。


 フィリップは言葉を以ては答えず、ただ、は、と鼻で笑った。──嘲笑った。






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