第217話

 最愛の夫へ。


 元“使徒”として、遺書を書くのには慣れていましたが、やはりブランクがあると忘れてしまいますね。何を書けばいいのか分からなくなってしまいました。でも、今までに焼いた数百通を読み返したとしても、貴方に宛てる手紙は書けませんね。私は信仰に殉じる戦士ではなく、貴方の妻として、言葉を遺したいですから。……あぁ、安心してください、ニノにはきちんと『最愛の娘へ』で始まる手紙を書いていますよ。


 貴方に初めて会ったのは、帝国の山中でしたね。

 カルトに捕まった貴方が簀巻きにされて吊るされて、それでも聖句を唱え続けているのを見た時には、笑うより先に感心が来てしまいました。あの時、既に精神的に瀕死だった貴方の処分を、終了から修道院送りにするようペトロ隊長に進言したのは私……というのは、喧嘩の度に言っていましたね。では最後なので、その理由をお話しましょうか。


 正直に言うと、私はあの時、信仰心を失いかけていました。

 何度も、何年も、カルトを追いかけ殺し、逃がした一人さえ追いかけて殺す作業の日々を続けているうちに、疑心が芽生えたのです。この汚らしく残酷な世界は、本当に神が創り給うたのか──この悍ましく穢れた世界を作ったものがいるとして、本当にそれは気高き正義である神なのだろうか、と。


 赤く染まった世界が、だんだん黒く濁っていくような日々でした。

 そんな中で見た貴方は、私が理想とする信仰者そのものでした。疑わず、考えず、想わず、ただ信じる、狂気的な信仰。盲信、狂信と呼ばれるほどに深い信仰心を、貴方は持っていたのです。


 私はそれを見て、こう思ったのです。


 ──あぁ、なんて勿体ない。


 貴方の信仰は完成していた。

 それなのに、それはカルトに誘拐されたことと、これから訪れる死への恐怖からの逃避でしかなかった。


 貴方には素質がある。深く、強く、美しい信仰を抱ける素質があるのに、貴方はそれを狂気として発現させてしまった。

 私はそれを疎み、妬み、悔やみました。そして修道院に送り、正気を取り戻すまで貴方の下に通うことに決めたのです。そこから先は……貴方には語るまでもありませんね。


 貴方は信仰を極め、枢機卿の位にまで上り詰めた。当時の私をさえ顎で使うことができる、偉い人です。


 そんな貴方が、いま、信仰を疑っていることは分かっています。

 私もニノも、貴方に負けないくらい神様を信じていたのに、どうして病に侵されてしまったのか。どうして、神は救ってくださらないのか。そんな疑問を持ってしまっているのでしょう。


 でも、よく考えてください。


 私が死ぬのは、病のためです。

 病に侵されていながら、娘のために薬草を採りに行ってしまうような、あの頃と変わらない愚かしさのためです。


 神に問うことも、神に縋る権利も、私にはありません。そういうのは、“使徒”だったころに飽きるほどやりました。

 でも、いいえ、だからこそ、私は一足先に行って、聖人様方と交渉してきましょう。


 ──私の捧げた信仰と、私が救った貴方が、これから先にも捧げ続ける信仰。それは、信心深い私たちの娘を救うには十分でしょう、と。


 あぁ、ついでに、隊長に名前をお貸し下さった聖ペトロ、私に名前をお貸し下さった聖エイレーネのサインを貰いましょう。もっと沢山の聖人様方にもお会いして、握手して貰ったりなんかして。あぁ、考えただけで胸が弾みます。

 なので、貴方はもうしばらく──いえ、まだまだ来なくていいですからね。来ても忙しくって、相手してあげませんから。


 ニノのことは任せてください。あの子の病は、私が何とかします。

 だから、その後のことはお任せします。あの子と一緒に、助け合って生きてください。


 最後に、心の全てをこめて。


 ──愛しています。


             ──愛をこめて、エイレーネより。



 ◇




 古い羊皮紙に綴られた、一人の女性の最期の言葉、想い。

 それを読み終えて、フィリップは大きく嘆息した。


 カルトと一口に言っても、穢れた信仰を抱くには様々なバックボーンがあるのだなぁと感慨深くなった──わけではない。カルトがカルトになる理由など、フィリップにとってはどうでもいいことだ

 

 しかし、複雑な思いはあった。


 まず、「結局その夫の名前はなんなんだ」という疑問と、すぐそこに答えがあるのに手が届かないもどかしさ。


 そして、「娘も死んでいてくれるといいなぁ」という願いと、「それは非人間的な思考ではないか」という自責にも近い自問。

 フィリップは結局のところカルトを「カルト」という記号でしか捉えられず、「エイレーネの夫でニノの父親だった誰か」は、フィリップの中で意味ある個人にはなれないのだ。


 だから、誰かが「生きて」と願った誰かの死を、こうもあっさりと願うことができる。

 願わくば、カルトの子孫が残らぬように。願わくば、フィリップの手間が一つ省けるように、と。


 そして最後に、「これをそいつの目の前で焼いて、燃えカスに唾でも吐きかけたら、この胸に蟠る溜飲も下がるだろうか」という、遺書を読む前に抱いていた怒りの残滓。


 そう。

 そうだ。結局、ここでショゴスを製作していた人間が、サイメイギの隷属ワインを持っていくようナイ神父に命じた人間と同じで間違いない。


 だとしたら、それはこの上なくフィリップの逆鱗に触れる行為だ。


 「僕をおちょくるのは、いい。あのワインの件も許そう。カルティックなだけ、邪神の力を使ってるだけの雑魚に加担するのも、許容しよう。でも──」


 こつ、こつ、と硬質な音が石壁に吸われて消えていく。

 一定のテンポで床を叩く靴の爪先が、フィリップの苛立ちを示していた。


 「──カルトの手駒に成り下がったのなら、


 フィリップにしては珍しく、本気の激情を孕んだ低い怒声。

 普段の、ナイ教授の煽りに対して浮かべる苛立ちや、痛みに応じて抱く反射的な殺意とは全く違う、本物の怒りだ。


 冷笑も無く、嘲笑も無く、心の根幹に刻まれた諦観さえ消え失せる激情。

 怒りは短い狂気であるとはよく言ったもので、フィリップの抱いた憤怒は心の内を埋め尽くしていた。そこには何も残っていない。人間性への拘りも、衛士やルキアに対して抱いていた憧れも、ステラに対して抱いていた共感も、シルヴァに対して抱いていた愛玩の念も、何も無い。


 残っているのは剥き出しの本性だけ。

 自分以外の全てが些事。故に、自らの感情のみを行動指針として憚らない、傍若無人な外神の視座だけだった。


 フィリップの独り言──否、叱責に怯えたように、目の前の空間が揺らぐ。

 ほんの一瞬と経たず、その空間にはナイ神父の長身が現れていた。


 長身痩躯に汚れ一つないカソックを纏った彼は、現れるが早いか、膝を折って跪く。彼の声は、恐怖にも似た感情を孕んで震えていた。


 「フィリップくん、どうか──」

 「…………」


 深々と下げられたナイ神父の頭を、フィリップは何の躊躇も無く踏みつける。

 足蹴にされたナイ神父は何の抵抗もせずずるずると姿勢を崩し、五体投地した。フィリップは数秒ほど足に力を込めていたが、ふと思い出したように足を退けると、靴の裏を床面で擦った。犬の糞を踏んだあと、汚物をこそぎ落とすように。


 踏みつけられたことよりもそちらの方が悲しいのか、それを見たナイ神父は星空の仮面を被り、跪いた姿勢に戻る。


 「──どうか、弁解させてください。魔王の寵児よ」

 「…………」


 脳が過熱するほどの激情に耐えかねて、フィリップは排熱するかのように深呼吸を繰り返す。

 十秒、二十秒と時間が過ぎていくごとに、じわじわと感情の波が引いていく。


 怒りという感情を励起する神経物質は、6秒ほどでその効果を失う。

 いくらフィリップの精神性が人間の埒外とはいえ、脳の構造は人間のままだ。脳を、脊髄を、心臓を焼き、血液を沸騰させるかのような激情でさえ、6秒以上は持続しない。短い狂気とまで言われる憤怒は、絶対に超えられない閾値で止まっていた。


 そして、


 「──フィリップ、大丈夫?」

 「──なぁ、カーター。さっきから誰と喋ってるんだ?」


 ほんの僅かに空いた感情の空隙に、二人の心配そうな声が滑り込む。


 瞬間、フィリップは弾かれたように部屋の入口を確認し、扉が閉じていることに安堵した。

 一度でも思考らしい思考をしたからか、意識が急速に冷却されていく。心の内にあった激情の炎はすっかり消え果て、唸りを上げていた獣性も鳴りを潜めた。


 「……大丈夫です! あー……先に出ててくれますか? 例のワインとか色々見つけたので、処分してから行きます!」


 100パーセントの嘘ではない言い訳に、ルキアとステラは困惑の気配を漂わせつつも了承してくれて、足音が遠ざかっていく。

 フィリップが二人を遠ざけようとした以上、二人が立ち去る振りをして聞き耳を立てることは無いだろう。ルキアの美意識も理由の一つだが、二人とも自殺願望はないはずだ。


 二人の足音を聞いていたフィリップは、靴音が完全に聞こえなくなってからナイ神父に向き直る。

 依然として星空の仮面を被った彼は、跪いた姿勢をピクリとも動かさず、発言の許しを待っていた。


 「……で、弁解でしたか? いいですよ、聞きましょう。一方的に決めつけて話を聞かないのは、言葉を持つヒトの在るべき姿じゃないですしね」


 自分に言い聞かせるように言ったフィリップに、ナイ神父は星空の顔を上げる。

 見ているだけで酔いそうになる無限の奥行を持つ顔からは、どこか落胆にも近い物悲しさを感じ取れた。勿論、表情なんて欠片も無いので、纏う空気からの何となくの推察だが。


 「……ありがとうございます。では、結論から。……フィリップくん、君は彼をカルトだとは認識しません。私の行動が許せないことのように感じるのは、今の、ほんの一時だけです」

 「それが──いえ、失礼。続けて下さい」 


 それがどうした、と口走りそうになり、自分の頬をマッサージするようにこねる。

 フィリップがどう判断するかなんて、フィリップには全く関係の無いことだ。いま不快なら、将来的に不快ではなくなるとしても、「不快だ」と叫ぶことに矛盾はない。


 だが、それはあくまでフィリップの視点から見た話だ。

 ナイアーラトテップに限らず時間の外側にいる外神に、そのロジックは適用されない。


 仕方ないか、と、フィリップは人間的な思考に基づき、外神の思考を肯定する。


 「フィリップくん。私は君を裏切りません。私は君が本気で望まないことはしません。私は君の従僕であり、使者であり、奴隷であり、手先です。主に向かって中指を立てる手などありましょうか」

 「……主を裏切る奴隷の話は、何冊か読みましたけどね。まぁ、いいでしょう。ヨグ=ソトースが介入していない時点で──貴方がまだ存在している時点で、究極的には敵対していないということは分かります。僕がどういう判断をするのかは、未来の僕次第ですけど……今は、見逃しましょう」


 行け、と顎をしゃくるが、ナイ神父は動かない。

 ナイ神父は、まだ何かあるのかと片眉を上げたフィリップが右手に持ったままの、古い羊皮紙を指差した。


 「それを頂いてもよろしいですか? フィクサーに“忘れ物を取って来てくれ”と頼まれまして」

 「図太いというか、ホントに愉悦の為なら何でもやりますね……」


 フィリップは素直に遺書を手渡す。

 そこそこきっちりとお礼を言って立ち去るナイ神父の背中を一瞥して、部屋の隅にある書き物机に向き直った。


 机には引き出しが二つあることは分かっていたが、遺書を読んでもなお収まらないナイアーラトテップに対する怒りが爆発して、検分どころでは無かったのだ。


 引き出しを開けると、中には古びたパピルスが一枚、巻かれた状態で入っていた。もう片方の引き出しは空っぽだった。


 「……ホントにカルトじゃないんだろうな……?」


 そのパピルスは、明らかに人類圏外産のものだった。

 びっしりと綴られた文字は全て邪悪言語で、とある邪神を召喚する方法について書かれていた。


 「眼球、魔力、寿命ねぇ……ということは、んっ、開かない……!」


 棚からワインの一本を取り上げ、コルクに手を掛けたフィリップだが、流石に素手で空くほど緩くはない。

 諦めて、というかどうせ最後にはそうするつもりだったので、壁に投げつけて瓶を砕いた。数瞬遅れて、ふわりとワインの匂いが鼻をくすぐる。隷属効果のあるワインではないからか、智慧の鳴らす警鐘は小さなものだ。


 「……やっぱり、延命ワインか。これも、これも、これもか」


 ぱりん、ぱりん、と、地下空間にガラスの割れる音が連続する。

 やがて全てのワイン瓶を砕き終えたフィリップは、部屋の入り口に戻って『魔法の火種』こと初級攻撃魔術『ファイアー・ボール』を詠唱する。その照準先は床に広がっていくワインではなく、パピルスだ。


 その紙片自体に異常性があるのか、灯された炎は毒々しい緑色だった。

 フィリップは僅かに苦笑して、ちりちりと焦げながら炎に侵されていく魔導書の断片を、ワインの海に投げ入れる。


 そしてそれきり、振り返ることなく地下墓地を後にした。


 魔導書が灯した炎はワインの液面だけでなく、石の床も、壁も、天井をも這って広がっていく。

 地下室の僅かな空気を食い尽くし、燃えないはずのワインも、パピルスも、魔法陣も、地下墓地にあった全ての痕跡を炎が舐めて、呑み込んだ。




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