第215話
聞きたくなかった──少なくともルキアとステラが一緒に居る時には聞きたくなかった鳴き声に、フィリップは思わず扉を見つめる。その見通せもしない奥を見るように。
そして俯いて、ここから出て来た修道士が去って行った方を見て、扉を二度見した。
「……え?」
ごんごんごん、と金属扉をノックするが、もう鳴き声は聞こえない。
聞き違いか。いや聞き違いであってくれと、心の底から望むところなのだが──たとえ聞き違いでも、確認しないわけにはいかない。
「はぁ……」
見るからに挙動不審なフィリップを慮って近付いてくるルキアとステラに、どう言い訳しようかと考える。
フィリップは今からここを開けて貰い、かつ二人には入るなと失礼なことを言う必要があった。ド丁寧作戦は、却って失礼になるという失敗経験があるし……と知恵を絞り、最終的には諦めた。
──言い逃れとか無理だ、適当にぼかして、正直に言おう。
「どうしたの、フィリップ?」
「何か見つけたのか?」
二人は振り返ったフィリップの表情を見て、すぐに善からぬことだと悟る。
「……例の邪神か?」
「……地下墓地を吹き飛ばす?」
「どちらもNOです。……でも、二人には見せたくない、敵です。僕が倒してくるので、ここを開けて貰えませんか? その後は、ここで待っててください」
フィリップの言葉に頷いたのはルキアだけで、ステラは変わらず心配そうな表情で、フィリップの目をじっと見つめる。
「大丈夫なのか? その……お前が昨日戦った相手なら、『拍奪』の効かない相手じゃないのか? それに、ここは開けたらすぐに階段だと思うが、狭い階段では『拍奪』を使えないだろ?」
的確な推理を披露するステラに思わず苦笑する。
昨日戦った、ということは、ワイン祭が終わった後のことだろう。切り裂かれたジャケットを見られたのは失策だった。そんな小さなことで、ここまで高精度な推察ができる──そういう才媛だと、十分に知っていたはずなのだが。
「はい、大丈夫です。昨日だって、無傷だったじゃないですか」
「……分かった。だが、危険だと思ったらすぐに私たちを呼ぶんだぞ?」
「ははは」
ステラとしては真剣な言葉を、フィリップは肯定も否定もせず、ただ笑う。
失礼なことだが、仕方のないことでもあった。
だって──危険だと感じるなんて状況は、フィリップには我が事ながら想像がつかない。
たとえ外神が──たとえばマイノグーラ辺りが敵対してきたとしても、フィリップには幾千万の外神が付いている。憑いているといっていいレベルで一方的かつ傍迷惑な話だが。
それにナイアーラトテップも言っていた通り、極論、ヨグ=ソトースが居る時点で絶対安全と言えるのだ。たぶん、きっと、そのはずだ。
あぁ、でも、サイメイギの隷属ワインが津波のように襲い掛かってくるとしたら、それは少し危険だ。
フィリップがそれを飲んだ場合にどうなるのかは知らないが、昨日の外神の智慧は、それはもう大音量の警鐘を鳴らしていた。「それは君を殺せますよ」なんて次元ではなく「全力で避けろ、距離を取れ、死んでも飲むな」ぐらいの。危機管理意識や生存欲の死につつあるフィリップが、「あ、これはホントに危険なんだな」と思うほどの、全力の警告だった。
脅威度の低い順に並べると、ショゴス<ハスター<サイメイギの隷属ワインという順だ。旧支配者とはいえヨグ=ソトースの落とし仔であるハスターより上の脅威度とは、何とも不思議な脅威判定だが、知識と意志を持つハスターはフィリップに敵対しないからだろう。
それでも、フィリップには精神汚染が効かないはずなので、ただの汚物混入ワインでしかないと思うのだが。
「じゃあ、開けてください」
「……分かった」
フィリップの抱いた自嘲には気付いたはずで、フィリップがステラの言葉に是とも否とも答えていないことも分かっただろうが、ステラは物言いたげな表情で頷いた。
掌大の頑丈そうな錠前が一瞬で溶解し、そのまま気体金属になって霧散する。ほんの僅かに熱気を感じ、風と共に消えた。
三人は頷きを交わし、フィリップが扉に手を掛ける。
ここはワインセラーと違って日常的な出入りが無いのだろう、重い金属扉が錆に軋みながら開く。その奥にぽっかりと空いた闇の大口に、フィリップだけが何の躊躇も無く足を踏み入れた。
地下に続く階段に足を踏み入れると、瞬間、埃と淀みの匂いが纏わりついた。
扉を開けただけでは分からなかった、地下墓地という鬱屈した場所に相応しい気配がある。大陸北部に位置する教皇領は湿気が少なく、地下空間も苔むしてじめじめしているわけではなく、むしろ乾燥した埃と砂塵に塗れていた。
「けほっ……」
息を殺して降りていこうと決めていたにもかかわらず、地上から僅かに吹き込んだ風で舞い上がった埃を吸い、咳き込んでしまう。
瞬間、階段の下から、ぞわぞわぞわっ! と、無数の何かが一斉に蠢くような気配がした。
階段の下は真っ暗で、一歩進むごとに足元が判然としなくなる。階段は粗雑な石造りで、表面の研磨加工さえ行われなかった古い時代のものだ。ごつごつしていて歩きにくい。油断すると転倒して、そのまま闇の大口へころころ転がって、ショゴスに喰われてジ・エンドだ。
「ルキア! 下まで照らせませんか!」
「魔力視を使っていいなら確実だけど、駄目なのよね? なら──《ノンアテニュエーション》」
ルキアの魔術行使の直後、入り口から差し込む光が急激に強くなる。
差し込む光の量や明るさ自体は一定だが、距離と反射による減衰率が著しく低下し、より遠くまで照らせるサーチライトのようになっていた。
階段は少し降りると直角の曲がり角があり、その先はここからでは見えない。しかし凹凸の激しい石壁に当たっても光量を減衰させない光が、その先までを照らしてくれているのは分かった。
フィリップは安心して階段を降り、ウルミのグリップに手を掛けながら曲がり角を左折。
そして──目が、合った。
無数に瞬く、緑色の目。双眸という言葉が不適切になる、幾つもの眼球。
「テケリ・リ」
黄色い乱杭歯の並んだ口が嘲笑の形に歪められ、聞くに堪えない耳障りな鳴き声を漏らす。
「テケリ・リ」
幾つもの眼球がこちらを見据え、無機質な殺意の籠った視線が全身を貫く。無感動で、無感情で、機械的な殺意──所詮は被造物、命令に従う意思無き傀儡に相応しい、不細工な在り方だ。外神の視座が、そう嘲笑う。
「テケリ・リ」
眼前に聳えるのは、それらを備えたタールの壁。
漆黒の粘体はルキアの魔術によって地下にまで届けられた陽光を浴び、その表面を玉虫色に蠢かせる。
「テケリ・リ」
否、それは壁ではなく。
『テケリ・リ──!』
直径1メートルほどの粘体の塊、本来は直径4メートルを下回らないショゴスの下級個体が、無数に積み重なって出来た防壁だった。
粘体の壁から無数の触手が生え出でて、槍や、剣や、茨の鞭に成形される。
外敵排除──否、侵入者排除に適した形状だ。
外神の視座が囁く嘲笑、身の程を弁えない劣等種に対する軽蔑を表す形に歪められた口元を、頬を叩いて引き締め直す。
「1、2、3……全部で20体ぐらいかな? もうちょっと多いか」
ぱっと見で20体。下級ショゴスが20体集まっている。
一体でも十分に人間を殺し得る、一体でもフィリップのジャケットの裾くらいには触手の届くモノが、20体だ。
その程度、誤差──な、わけがない!
ぱちん! と乾いた音を立てて、フィリップはそこそこ本気で自分の頬を叩いた。
下級ショゴスの一体だろうが一兆体だろうが腕の一振りすら要さず殺し尽くせる外神の視座が囁く慢心を、痛みで以て黙らせる。
心の中で喧しく哄笑するモノが沈黙すると、その直後には人間的な──現実的な判断能力が帰ってくる。瞬間、
「あ、これは無理だ」
フィリップは即座に踵を返し、走りにくい石段を全力で駆け上がった。
ぞぞぞぞ! と凄まじい音が背後から聞こえ、雪崩れ落ちたショゴスの壁が、そのまま津波のように追って来ているのが否応なく理解できる。
そう長いわけでもない階段を降りて、すぐに駆け上がってきたフィリップに、地上で待っているルキアとステラが身構える。
「見るな!!」
「っ!」
フィリップの鋭い警告に、二人は反射的な速度で目を瞑る。
フィリップから見て右側にいたルキアが右手を、左側にいたステラが左手を伸ばした。
「フィリップ!」
「手を取れ!」
フィリップが二つの手を掴むと同時に、ルキアとステラはフィリップを挟み、ワルツでも踊っているような所作で半身を切る。
二人が二人ともフィリップを抱き止めようとしていたせいで、図らずも抱き合うルキアとステラの間にフィリップが挟まるような形になった。
ルキアとステラは肌感覚で自分たちの可笑しな状態に気付き、口角を上げる。しかし、視線を交わして笑い合うような余裕は無い。
「敵の大きさ、数、対処!」
「え、えっと、小さい、沢山、殲滅!」
地下から這いずり階段を上ってくる、沢山のショゴスが立てる聞くに堪えない音を聞いた所為だろう。ステラは焦ったように、最低限の単語で質問する。フィリップにも彼女の焦りが伝播し、元々持っていた自分自身の焦りと合わさって、端的なのに噛む寸前の答えだった。
だが、十分だ。
必要な情報は揃っている。
互いの腰に回された──ついで程度にフィリップの腰を経由している──方とは逆の手が、階段の下に照準される。
ほんの数秒見ただけの景色だが、二人の空間把握力と記憶力であれば、魔術式に代入する空間情報変数はこの上なく精密なものだ。
「《アンプリファイレーザー》!」
「《インシネレーションファイア》!」
ルキアの詠唱が齎したものは、一筋の光だ。
それは雲間から射す天使の階のような神聖さは無く、あの『明けの明星』のように派手な大破壊も齎さない、指先ほどの光の筋に過ぎない。
しかし、敵の正体を知らないルキアが選んだというだけで、その殺傷性の高さは窺い知れる。
上級攻撃魔術『アンプリファイレーザー』は、閉所最強と名高い魔術だ。
ただの直線、或いは屋外で使っても、ただ貫通破壊力のある光線に過ぎない。しかし、反射する毎に数パーセントずつ威力が上がるという特殊な性質を持つそれは、横幅三メートル程度の階段という閉鎖空間では瞬時に膨大な威力へと成長し、光の反射する軌道上を破壊し尽くした。
対して、ステラの魔術『インシネレーションファイア』が齎したものは、静謐さの欠片も無い蹂躙だ。
拡散性や延焼能力を極限まで削り、温度の一極に特化した炎は、限界射程5メートル、限界拡散2メートルという超の付く局所攻撃だ。しかし、その温度は1500度にも上る。
1500度──基礎温度が、1500度だ。石造りの閉所はそのまま窯か、火葬炉へと変貌した。
石造りの地下階段を融かしながら、炎の勢いとその温度は反射増幅されていく。
殆ど無音のルキアの魔術に一瞬遅れて、炎が空気を喰らう轟々という音が熱気と共に肌を打つ。
そして数秒の後には、全くの無音に戻り──空気の無くなった地下空間へ、外の空気が強烈に流れ込んだ。
「……終わったな?」
「……はい、完璧です」
ルキアとステラは火を消したばかりのオーブンそのものといった風情の階段への転落を避けるため、お互いを抱く手に力を込めて、一歩下がった。
二人に挟まれたフィリップが圧迫され、んむ、と呻く。
ステラの方が引く力が強かったため、フィリップはルキアの方を向いて挟まれている。つまり身長的に、目の前にはルキアの真っ白な首筋とくっきりとした鎖骨があり、少し視線を下げると厚手のワンピースに包まれた豊かな胸が、フィリップの胸元で押し潰されているという状態だ。背中はステラが同じく。
石鹸と紅茶と、その奥にある形容しがたい甘く蕩けるような香りを感じながら、身体の前後を柔らかに包まれているという状態だが──フィリップの関心は、二人の目元にあった。
苦労して振り返って確認すると、二人とも、しっかりと目を閉じている。
恐怖に震えていたり、突発的で理由の分からない行動に出るような気配は無い。──セーフ、だろう。
「ふぅ……流石です。助かりました!」
「おいおいおい馬鹿か、大火傷するぞ!?」
これで大丈夫だな、と地下に戻ろうとしたフィリップの腕を、ステラが間一髪のところで捕まえる。
石階段はところどころ溶けて冷え固まり、変形している。局所的にガラス化さえしているところに踏み込めば、或いは大火傷では済まないかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます