第210話

 フィリップが、ウェイトレスは敵ではないかという懸念を抱いた時には、既に事は終わっていた。

 ウルミに右手を伸ばし、もう片方の手は躊躇いつつも魔術照準の為に伸ばされる。その視線の先では、料理を運ぶワゴンに手を掛けた姿勢で硬直するウェイトレスの姿があった。


 ワゴンに載っているのは、よく磨かれた銀色のクロッシュが被せられた皿だ。そこからは神威は感じられず、外神の智慧も沈黙している。


 フィリップが頷いて合図すると、ステラが人差し指をくい、と手招くように動かす。

 指先に不可視の糸でも付いているように、ウェイトレスが静かな所作でワゴンを押して部屋に入り、扉を閉めた。


 ステラは指を払うように、少しの勢いを付けて壁を指す。

 ウェイトレスがまた導かれるように従い、壁を向いて両手を付き、足を広げた被制圧姿勢になった。


 扉が開いた瞬間に詠唱された、ステラの支配魔術。

 必要以上に傷付けることもなく、かといって抵抗の余地を残すことも無い、最上級の制圧手段だった。小を兼ねる大の極致と言える。


 「ボディチェックしますね」

 「……私がやるわ」

 「殿下だけじゃなくて、二人を狙ってたかもしれないんですよ? ルキアは座っててください」


 立ち上がりかけたルキアを、フィリップは少し強めに制止する。

 普段から暗殺を警戒しているのは一国の王族であるステラだけだが、こと宗教絡みになると、ルキアもステラと同等の重要人物だ。


 女性に対するものではない乱暴な手つきで、しかし、汚物に触れるような嫌悪感を滲ませながら、暗器の類を隠し持っていないことを確認する。

 ──クリアだ。服の下にあるのは華奢な身体で、ステゴロで聖痕者を殴り殺せるような怪物というわけでもない。


 しかし、このウェイトレス。サイメイギの隷属ワインなんてものを持ち出す時点で、どこかのカルトと繋がりがあることは確実だ。唯一神に認められた聖人を憎悪するような──たとえば、サイメイギこそが唯一絶対の神である、みたいな教義があっても何ら不思議ではない。


 フィリップの右手、ウルミの柄を握る手に力が籠る。

 まだベルトの金具に吊ったままだが、抜くべきだろうか。この個室は広いとはいえ、四メートルのウルミを振り回すには手狭だ。


 痛めつけるだけなら、素手でもできる。


 フィリップはすっと息を吸い、ウェイトレスの後頭部に手を伸ばす。

 このまま顔面を壁に叩き付けて、原型が無くなるまで叩き潰して、その後で『深淵の息』で殺す。そのくらいの無駄な痛みと苦しみを以て殺すべきだ、カルトは。


 フィリップが不穏な空気──かつてナイアーラトテップの試験空間で感じた、カルトに対する深い憎悪を滲ませたことに気付き、慌てて立ち上がったステラがその肩を掴む。

 まだ、このウェイトレスがカルトだと決まったわけでは無いし、何より、彼女に悪意があったのかすら判然としていないのだから。


 「カーター、少し落ち着け。ワインを選ぶのはウェイトレスではなくシェフかソムリエだし、ワインセラーに偶々混入していたという可能性もゼロではない」

 「……っ、あ、そ、そうですね!」

 

 フィリップはぺちぺちと頬を叩き、意識を切り替える。

 衝動的にブチ殺すのは一瞬だが、それだと情報が手に入らない。


 情報は大切だ。

 だって、もしもこの町にカルトが潜伏しているのなら──一人殺して満足するなんて、愚の骨頂だ。殺せるカルトを見逃すなど有り得ない。


 「質問に正直に答えろ。《ドミネイト》」


 膨大な魔力を消費する支配魔術の多重詠唱を涼しい顔で行い、ステラは椅子に座り直した。

 フィリップは少し悩み、右手をウルミの柄に添え、左手を空けてウェイトレスの近くに立っていることにする。ステラの支配魔術が破られるとは思えないが、万が一、たとえばカルトの応援なんかが来た場合に、即座に殺せるようにだ。


 「このワインを用意したのはお前か?」


 ボトルクーラーに入ったボトルを示したステラが問う。


 「……いいえ、聖下。私は指示されたものを運ぶ、給仕に過ぎません」

 「このワインが毒だと知っていたか?」

 「!? いいえ。ただ、特別なものだとは聞いていました」


 支配魔術が操作するのは、あくまで肉体だ。その精神までもが支配されるわけではない。

 思考はクリアなまま、身体を這い戒める鎖の命じるままに、身体だけが勝手に動くのだ。内心の驚きが言葉を止めても、次の瞬間には強制的に答えさせられる。


 ……驚きがある。

 このウェイトレスは自分が毒を運んできたと知って、明確に驚いている。そしてフィリップが見る限り、その表情には驚愕ばかりではなく、大きな恐怖も見て取れた。「大変なことをしてしまった」という、自責から来る恐怖だろう。悪事が露見した恐怖なら、驚きはないはずだ。

 本当は即座に跪いて謝りたいところだろうが、支配魔術がそれを許さない。


 「誰に聞いた?」

 「……し、知りません。枢機卿の使いだという神父様がいらっしゃって、聖下には特別なワインをお出しするようにと、そちらを」


 神父と聞いて、フィリップだけでなくルキアとステラもぴくりと眉を震わせる。

 しかし、どこか納得したような苦々しい表情を浮かべたのは、ルキアとステラだけだ。フィリップはむしろ疑問が深まったというように、口元に手を遣って首を傾げた。


 「ナイ神父か?」

 「……名前は存じ上げていません」

 「どんな風体だった?」

 「……背が高くて、とても顔立ちの整った方でした。神様の作った芸術品でも、あそこまで精巧にはできないと思うほど」


 ウェイトレスの答えを聞き、ルキアとステラが同時にフィリップを見る。

 しかしフィリップは、完全に答えを見失ったと言いたげな困惑に染まった表情で、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 ウェイトレスの背中を真っ直ぐに見られるよう椅子をずらし、口元を隠すような形でテーブルに頬杖を突く。

 

 「ナイ神父のこと……よね?」


 目に見えて黙考しているフィリップを妨げることが嫌なのか、ルキアが控えめにそう問いかける。

 フィリップは「おそらくは」と適当に返事をして思考を続ける。


 ナイ神父──ナイアーラトテップなら、サイメイギの隷属ワインなんて珍しい代物の入手は容易だろう。

 ただ、それをこの場で出す理由が分からない。


 フィリップに飲ませようとしたわけでは無いだろう。

 フィリップが昼間に呑んでもいないのに散々ゲロを吐いて、酒なんて二度と飲まないと心に決めたことは知っているはずだ。それ以前から、酒の味が好きではないことも。


 ここでワインを出したって、フィリップが飲むはずがない。そもそも外神の智慧があれだけ激しく警鐘を鳴らすものだ。たとえフィリップが無類の酒好きでも口を付けたりしない。


 なら、狙いはルキアとステラか?

 確かにナイアーラトテップは、二人がフィリップの傍にいることを快く思っていない節がある。理由は不明だが。


 しかし、それならこんな不確実な方法を取る必要はないだろう。

 目的が殺害ではなく旧支配者への隷属というのも意味不明だ。まだるっこしい。


 凶器に毒を使うのは、直接殺すのが難しかったり、犯人を特定されると困ったり、何かしらの理由があるからだろう。

 ナイアーラトテップにはそれがない。ナイアーラトテップにしてみれば、人間は狂って死ぬ脆弱な生き物だ。殺すのに策を弄する必要も無ければ、殺して責められることも無い。


 責めるとしたらフィリップだが、だったら、こんな一瞬でフィリップに露見し、しかも阻止できるような甘い仕掛けにはしないだろう。

 業腹な話だが、ナイアーラトテップが本気で計画したら、今のフィリップでは二人を守れない。


 逆説的に、フィリップが阻止できた時点で、計画したのはナイアーラトテップではないと言える。


 「ナイアー──ナイ神父の計画じゃありませんね。実行役、或いはただのお使い程度の関与でしょう」


 ナイ神父は一昨日、「教皇庁の仕事がある」と言っていた。

 あれが「一介の神父として在り、ナイアーラトテップとしては動かない」という意味だったとしたら──サイメイギの隷属ワインの匂いを嗅いで悶絶するフィリップを見るために、人間の使い走りくらいやるだろう。


 「……ちょっとナイ教授と話してきます。ウェイトレスさんの処遇はお任せしますけど、カルトかどうかは確認してくださいね。カルトだったら縛っておいてください」


 足早に、しかし慌てた様子はなく部屋を出て行ったフィリップを見送り、ルキアとステラは顔を見合わせる。

 

 「……どう思う?」

 「このワインが本当に毒かってこと? 私は信じるけれど……そのウェイトレスにでも飲ませてみたら?」

 「一案だな」


 ルキアがフィリップの言葉を無条件で信じるのは、彼女の生得的気質ロリータ故だ。自身の価値観への絶対的信頼、決めた相手への盲目的愛情と服従。

 フィリップが毒だというのなら、彼女にとって、それはなんであれ“毒”だ。たとえステラの持つ毒検知の指輪に反応が無く、魔術毒を見極める魔力視に反応が無かったとしても。


 しかし、ステラは違う。

 毒だと言われたものを「そんなわけがない」と飲み干すほど馬鹿ではないが、これまで築いてきた指輪と自分の目への信頼を、即座に捨て去るほど短絡的でもない。


 ナイ神父が齎したものだと言われると、「本当に毒なのかな」と思ってしまう部分もあるが──それを確かめる前にこのウェイトレスを罰することは、不合理だ。罪には罰を、しかし罪なき者には罰を与えてはならない。そんなことは言うまでもない道理だ。


 だから、飲ませてみるのは一案だ。


 もしも本当に毒物なら、たとえ飲まなかったとしても二人の前に出した罪は、重い。王族暗殺未遂なんて、裁判にかけるまでも無く処刑だ。自ら用意した毒を自らが呷るというのも、歴史的には珍しくない処刑方法だった。

 そしてフィリップの勘違いで、これがただのワインなら、彼女はただワインを飲んだだけで済む。職務中の飲酒は、まぁ、叱責されるだろうが。


 真面目に考えだしたステラに、言い出しっぺのルキアが眉根を寄せる。


 「……冗談よ? そんな醜悪な処刑は好みじゃないわ」

 「死ぬと決まったわけじゃない。それに、どうせ何かしらの罰は下るぞ? いくら神父から渡されたものでも──待て。お前、毒見はしたか?」


 ステラの問いに、支配魔術の効力下にあるウェイトレスは頷く。


 「……は、はい。一口……」


 ステラはルキアと顔を見合わせ、判断しかねると首を振った。


 毒は、量だ。

 有名な致死毒であるフグ毒やトリカブト毒などがごく微量であれば薬に利用されるように、致死量に満たない毒は、毒として機能しない。


 暗殺に使われる致死毒は、その閾値が著しく小さいもの、つまりごく少量で殺せる毒が多い。

 しかし逆に、グラス一杯飲ませて漸く死に至るような致死量の多い毒だとしたら、それが混ざったワインを少量を飲むだけの毒見では発見できない。ついでに言うと、遅効毒の可能性もある。


 そういう毒に対抗するため、錬金術師が毒検知の指輪を作り出したのだ。加えて、ステラには自前の目もある。化学的毒物も魔術的毒物も、完璧に検知できる──はずだった。


 いまこの場に、このワインが毒であると証明できる者は、一人もいない。逆も然りだ。

 毒であると証明する要素も、毒ではないと証明する要素も、どちらも決定的なものが欠けている。


 だが、試す方法はある。

 単純な話だ。それなりの量を飲ませ、それなりの時間見てみればいい。


 「私、貴女のそういうところとは本当に合わないわ。フィリップの言葉を信じないからって怒るつもりは無いけれど、どうせ飲まないのに実験する必要があるの?」

 「お前の美意識に背くか? ……私だって、カーターが悪戯でこんなことを言ったと思ってるわけじゃない。だがこのウェイトレスを裁くには、状況を確定させる必要がある。罪なき者に罰を与えるべきではない」

 「……試せばいいじゃない。私達には、それができるわ」


 ルキアが片手を挙げ──ちり、と肌を刺すような威圧感が迸る。

 神罰請願・代理執行権の行使、神域級魔術『粛清の光』を以て、罪業の有無を調べればいい。


 罪があるのなら、塩の柱に変わる。

 罪なき者であれば、何も起こらない。


 単純で、分かりやすい検査方法だ。

 しかし、ステラはその最短最速の解を否定する。


 「唯一神より与えられた力をそんなことに使うなど」という論旨ではない。そういう言説は確かにあるが、ステラの合理性はむしろ許容する。

 彼女の合理性が否定するのは、


 「過去に犯した罪で、今の問題を裁く気か? ルキア、私はこいつを殺したいわけじゃない。こいつが具体的にどれだけの罪を犯したのか、それを知りたいんだ」


 




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