第209話

 修学旅行三日目、夕刻。

 ワイン祭りの余韻も消え、修学旅行に来ていた魔術学院生たちは、夕暮れの街並みをそれぞれのクラスに応じた夕食会場へ向かっていた。


 フィリップたちAクラス生は、肉料理の有名なレストランだ。

 肉か魚かで言うと断然肉派の──というかフィリップのいた田舎では川魚くらいしか食卓に並ばないので、量を取るなら肉一択だった──フィリップも、期待に胸を躍らせながら歩いていた。


 その少し後ろを、ルキアとステラがひそひそと話しながら歩いている。


 「流石に唐突過ぎたか……?」

 「いえ、そもそも本人の目の前でやるべきでは無かったわ。フィリップにも失礼だし、善意は隠してこそ美しいものよ」

 「それは確かにそうなんだが……流石に、な?」

 「言いたいことは分かるわ。……フィリップが一等地で買い物をしない理由が分かったわね」


 結局、フィリップは財布に詰め込まれた金貨を全て返却した。

 金銭問題の行きつく果ては殺し合いだと教わってきたのもそうだが、そもそも金に困っていないからだ。タベールナの賃金条件は二等地内では普通レベルだが、それは当然、二等地で生きていくには十分な金額ということである。一等地は物価も高ければ賃金も高く、二人はそれを基準にして判断し、あんな暴挙に及んだのだろう。


 ちなみに、教皇領の物価は三等地よりさらに安い。王国の中規模都市と同じか少し高いくらいで、フィリップの手持ちでも十分に遊べる。


 「あ、ここですね!」


 しばらく歩いて、フィリップたちは目的のレストランに到着した。

 修学旅行のしおりと見比べて間違いないことを確認して店内に入ると、既に何人かのクラスメイトが席に座っていた。


 一般的な石造りの外観からは想像し難い、綺麗な内装だ。

 床一面に敷かれた深紅の絨毯といい、高い天井に吊られた小ぶりながら精緻な装飾のシャンデリアといい、王都の二等地でも十分に高級レストランとして通用するレイアウトだ。店そのものも広々としている。


 ドアベルの音に反応したウェイトレスが目を見開き、ややあってこちらに歩いてくる。恐らく、ルキアとステラに見惚れていたのだろう。二人の容姿は、同性を魅了するほどに極まったものだ。


 「い、いらっしゃいませ、聖下。座席数の都合で、奥にご案内するよう申し付かっております」

 「……あぁ」

 

 四人掛けか二人掛けのテーブルしか無く、そもそも高級志向の店ということもあって、ホールの収容人数がギリギリなのだろう。三人だけ浮かせることができないから、いっそのこと別室に分けることにしたらしい。ステラとしてもその方が安心できるし、他人の喧騒を嫌うルキアも、むしろ嬉しいくらいだろう。フィリップはどちらでもいいので、大人しく従う。


 通された個室は、怪しい会合にでも使われていそうな雰囲気だった。

 広々とした中に四人掛けのテーブルだけがぽつんと据えられ、締め切られた窓の代わりに豪奢なシャンデリアが光源として機能している。深紅のカーペットや少しくすんだ白の壁紙のおかげで明るいが、廊下を少し進んできただけあって、ホールの話し声が全く聞こえない。


 壁に飾られた絵画や、シャンデリアの意匠は同じなのだが、同じ店内とは思えないほどの静けさ。

 独立した異空間に迷い込んでしまったような感覚が、妙な雰囲気の原因だろう。


 「シェフが挨拶に参りますので、少々お待ちください」


 ウェイトレスが一礼して出て行ったあと、フィリップはそっとドアを開けて外を確認した。

 勿論、虚空が広がっていたりはしない。いま歩いて来た、何の変哲もないただの廊下だ。


 「どうしたの?」

 「いえ……トイレはどこかなーって」


 流石に「なんだか怖くなって」とは言い難く、要らぬ心配をさせてしまいそうだったので、そう誤魔化す。ちなみに100パーセントの嘘ではなく、膀胱がじりじりと限界に近付いていた。


 「さっきあっただろう……出て右だ」

 「そうでしたっけ? ちょ、ちょっと行ってきます……おっと」


 扉を開けると、ちょうどノックしようとしていたシェフとかち合った。

 思わず仰け反った二人は、照れ笑いを交わしながら道を譲り、最終的にフィリップが先に部屋を出た。


 用を足して部屋に戻ると、瞬間、鼻が無くなった。

 

 「──ぇぁ?」


 そんなはずはない。

 思わず手を遣ると、確かに顔の真ん中あたりに、いつも通りの感触がある。ぷにぷにと鼻をつまむと、その感触が指と鼻の両方から伝わった。


 直後、


 「──!?」


 鼻が無くなったと錯覚してしまうほどの強烈な臭気が、鼻の奥から目頭までを貫いた。


 一瞬、いや一呼吸の間、脳がバグを起こすほどの刺激臭。

 思わず口元を覆い、後退るように部屋を出る。


 これは──何だ?

 ただ臭いだけではない。いや、そもそもフィリップ自身は、この空気中に漂う臭気をそこまで臭いと感じていない。


 しかし脳の片隅で、じりじりと燻るように燃え続ける嫌悪の炎がある。

 外神の智慧──シュブ=ニグラスに与えられた知識が脳を犯し、この臭いから全力で距離を取れと警告していた。


 ほんの僅かに、春のそよ風よりも微弱な、意識を集中しなければ分からないほど貧弱な神威が肌に触れる。


 フィリップは頭を振り、懸命に意識を保った。

 神威。そう、神威だ。フィリップが感じられるレベルの神威となると、天使程度では有り得ない。最低でも旧支配者に連なる何かが、この部屋に存在するということだ。


 失神も、呆然も、一瞬の自失も許されない。

 ルキアを、ステラを、守りたいのなら。


 「──ッ!」


 目に刺さるような臭い──錯覚だ。

 涙と嘔吐を強いる臭い──錯覚だ。

 軽蔑と嘲笑、憤怒と憎悪を催す臭い──錯覚だ。


 フィリップにとって、これは


 「──ッ!」


 ぱん、と乾いた甲高い音。そして遅れて、ガラスの砕ける特有の音が、高価な絨毯と厚い壁に反響した。


 「フィリップ……?」


 真っ白な手を赤く腫らし、叩かれた手を握って呆然とするルキア。フィリップは今にもグラスに口を付けそうになっていた彼女の手の中から、ワイングラスを叩き落としていた。

 ステラは何が起こったのか分からないというように、ぶちまけられたワインがカーペットに吸われ、グラスの破片が取り残されていく光景と、肩で息をする険しい表情のフィリップを交互に見ていた。


 「飲みましたか?」


 説明は後だと、フィリップは最優先事項を確認する。

 ルキアかステラ、どちらかが頷いた瞬間に、この場で喉奥に指を突っ込むか、腹に一発入れて吐かせるつもりだった。


 幸い、フィリップが非紳士的という言葉の極致じみた暴挙に及ぶ必要はなく、二人とも首を横に振ってくれた。


 「──、ふぅ……良かった……」


 フィリップはワインに触らないでくださいね、と言いながら床にへたりこむ。瞬間的な緊張と弛緩が、足と腰から立つだけの力すら奪っていた。

 

 「あ、ご、ごめんなさい、ルキア。痛かったですよね」


 テーブルを掴んで立ち上がり、自分の席に置かれていたグラスの氷水でハンカチを濡らし、そっと手に当てる。

 ルキアのように魔術で出来たら格好の付くところなのだが、フィリップにできるのは常温の水をぶちまけることくらいだ。


 「……大丈夫よ、ありがとう。少し驚いたけど、痛くはないわ」

 「本当にごめんなさい。ルキアを叩くつもりは無くて、グラスを狙ったんですけど……」


 フィリップはハンカチを渡すと、自分の席に疲労困憊といった風情で深々と座り込み、グラスに残っていた氷水を一気飲みした。

 ガリガリと音を立てて氷を噛み砕く行儀の悪い所作に、ルキアが困惑と不快が綯い交ぜになったような複雑な表情を浮かべ、ステラは真剣な表情で嚥下を待っていた。


 ややあって氷を呑み込んだフィリップは、催促するような二人の視線を正面から受け止めて、深く頷く。

 ステラが口に出すまでも無く、二人が説明を求めているのは自明で、二人にはその権利がある。


 「……結論から言うと、このワインは──」


 フィリップは僅かに言い淀み、最適な言葉を探して続ける。


 「毒、です」


 先程から外神の智慧が、何があっても飲まないようにと大音量の警鐘を鳴らしている、一見すると何の変哲もない赤ワイン。


 これは、サイメイギの隷属ワインと呼ばれる劇物だった。フィリップには分かる──そして恐らく、専門の設備を用いて検査すれば、人類独力では不可能な手段によって製造されたものだと判明するだろう。フレデリカくらいの才能があれば、分かるかもしれない。かなり危険な行為だが。


 さておき、サイメイギの隷属ワインとは、「飲む支配魔術」とでも言うべき特殊な葡萄酒だ。


 外神の智慧によるとサイメイギは巨大な白い眼球に無数の触手が生えたような姿の邪神、旧支配者で、この星のどこかの地下深くに封印されているらしい。

 その眼球は絶えず黄白色の粘液を垂れ流しており、口にした人間に様々な効果を与える。


 たとえば「死」。まぁ、涙とは本質的には血液だ。神の血なんて人間には猛毒なので、これは驚くに値しない。

 たとえば「支配」。口にした者を、死した後にすらサイメイギの意志に従う奴隷、生ける屍に変えてしまう。

 他にも「変質」「治癒」「延命」「強化」「脆弱化」「腐敗」、エトセトラ。列挙するとキリがない。


 そんな劇物を原料の一部として醸造され、効果を「サイメイギへの隷属」に固定したものが、フィリップのぶちまけた『サイメイギの隷属ワイン』だ。


 ──と、そんな説明をしたとして、ルキアとステラは理解してくれるだろうか。理解したとして、発狂しないでいられるだろうか。


 「……信じられないのは分かります。殿下の指輪でも魔力視でも、毒は見つからなかったんですよね?」


 真面目腐った顔で当たり前のことを確認しながら、フィリップは必死に思考を回す。


 どう説明すれば二人は納得するだろうか。

 二人の精神に傷を付けることなく、このワインが持つ異常性を説明するには、どうすればいいのか。


 「待て。その前にやることがある」


 ステラの言葉に思考を遮られた直後、こんこんこん、と控えめなノックの音がドアの向こうから聞こえた。


 「失礼いたします」


 聞き覚えのある声──先程のウェイトレスの声だ。

 ステラは確か、暗殺警戒のため料理を運ぶウェイターは一人に固定すると言っていた。


 つまり、このサイメイギの隷属ワインを持ってきたのは、彼女だ。


 ほんの少しだけ軋みながら、高級感のある厚い扉が開く──。





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