第208話
意外にも、フィリップの肝機能は悪くないらしい。
あれだけ吐いて、頭痛もあって、足元も呂律も怪しかったのが嘘のように、すっきりとした顔で路地裏を後にする。下級ショゴスとの戦闘が、本当に酔い覚ましになっていた。
ショゴスを殺したことで闇の帳──勝手にそう呼んでいる、視覚と聴覚と嗅覚を妨害する防諜系魔術──も晴れた。もうじき目元を抉られた変死体が見つかって大騒ぎになるだろうから、その前にここを離れなければ面倒なことになりそうだ。
ルキアとステラは着替えを終えていて、フィリップの泊まる宿屋の前で待っていた。
いつも通りのゴシックワンピースと、ジャケット無しのパンツスタイルの二人は、学院生だけでなく道行く人々──特に男性──の視線を独り占めしていたが、声を掛けられたりはしていない。
それはステラの胸元に輝く聖痕と、かったるそうな顔──僅かな苛立ちも滲ませる、誰かを長時間待っているような雰囲気が原因の大部分を占めているだろう。
残りの二割くらいは、「例の少年を待っているのだろうな」という正しい予測、或いは「カーターさん、早く来てくれ……」という宛先不詳の懇願だった。
周囲に怒りのオーラを発散しているステラを見た瞬間、フィリップは反射的に露店の陰に隠れていた。
店主のおじさんが「かくれんぼでもしてるのか?」と、一人で納得して、そのまま自然にお客さんに対応してくれるのがありがたい。
「……そうだよね。待ってなきゃダメだよね、普通」
よしんば遊びに行くとしても、二人が帰ってきたら分かる位置にいるべきだった。
天を仰ぎ──天頂から少し傾いだ太陽が目に刺さる。
心なしか「早く行け」と怒られたような気がした。
諦めて屋台の陰から出て、小走りで二人の下に向かう。
「す、すみません、二人とも──」
「──なぁ、いつまで怒っているんだ、ルキア? いい加減に機嫌を直せ」
「…………」
フィリップはステラの言葉を聞いた瞬間、たん、と弾かれたように飛び退いて、また屋台の陰に隠れた。
──怒っている? あのルキアが?
まずい。それは非常に不味い。
今までフィリップに対して諫言はしても、怒りを向けることは無かったルキアを、遂に怒らせてしまったのか。
脳裏に浮かぶ、カリストや彼女の姉に『明けの明星』の照準が向けられていた光景。
もし、あれがフィリップに向いて──撃ち出されたら、フィリップには避ける手立ても防ぐ方法も無い。あるのは確立した死の結果だけだ。
怒られるのは嫌だが、ルキアが死ぬのは同じぐらい嫌だ。ここは少し観察して、的確な謝罪を──いや、これ以上待たせるのは得策ではない。一刻も早く謝罪するべきだろう。
覚悟を決めて二人の下に駆け寄り、その勢いのまま頭を下げた。
「お待たせしました! 勝手にうろうろしてごめんなさい!」
いきなり現れていきなり頭を下げたフィリップに、二人の肩がびくりと震える。
恐る恐る頭を上げると、二人は怒っているというより、むしろ困惑しているように見えた。
フィリップが小さく首を傾げると、二人も同じく首を傾げる。
「……まだ酔ってるのか?」
「え? いえ、もう大丈夫だと思いますけど……怒ってないんですか?」
フィリップの問いに、二人は顔を見合わせ、ややあって失笑するように破顔した。
「いいえ、怒っていないわ。安心して」
「酔っ払いに待ち合わせが出来るなんて、端から期待していない──冗談だ。本当に怒ってないから、心配するな」
「でも、さっき……」
ごにょごにょと言葉を濁したフィリップに、ルキアは不本意そうに眉根を寄せ、ステラは揶揄うような笑みを浮かべる。
「聞いていたのか? あれは──ルキアが怒っていたのは、お前に対してではないよ」
「……どこから見ていたの?」
「え? えっと、ついさっき……殿下が「いつまで怒ってるんだ」って」
フィリップの答えを聞いて、ルキアはどこか安心したように溜息を吐いた。
ルキアとステラは思案するように視線を交わし、言葉も無く意見を交わす。ややあって結論を出したのか、ルキアが微かに首を傾げて言葉を──説明役を譲った。
「さっき、トリス枢機卿が来てな。私達がワイン塗れになっていたことを聞いて、わざわざ苦言を持って来たんだ」
「へぇ……それは災難でしたね」
適当な相槌を打ち、言葉の先を待つ。
頭に無数の生傷と瘡蓋を持つ彼と話すこと自体、ルキアは嫌がるだろうが、彼女は行動に苦言を呈された程度で何分間も怒り続けるような性格ではない。
切り替えが早いのではなく、基本的に他人の言葉に影響されないからだ。
確固たる自我と美意識だけが彼女の行動基準であり、誰かの言葉や指図には一片の尊重も無い。誰かの苦言も諫言も、ルキアにとっては虫の囀りと同じ。彼女の意識を揺るがしたり、思考や行動に影響を与えたりしない、ただの音。
だから、ルキアが「文句を言われた」と怒るのは、ちょっと考えにくい。
そりゃあ生き様に一家言ある彼女にとって、自分の行動に口を挟まれるのは不愉快だろうけれど、鳴き声の煩い虫を相手に長々と怒っているとは思えなかった。
フィリップの予想に違わず、ステラの言葉は続く。
「あぁ。その内容がまた問題でな……奴は『どこの馬の骨とも知らぬ平民の小僧が聖下と共に在り、あまつさえその身を汚すなど。聖酒とはいえ云々』と、大層ご立腹だったよ」
「……?」
もしかして僕のことですか、と自分を指差したフィリップに、ステラは当然と頷く。
まぁそうだよねとフィリップも頷くが、内心ではルキアに対する同情が渦巻いていた。
めんどくさいよね狂信者って、分かるよ、と。
「……フィリップがこの手の言葉で傷付かないのは分かっているけれど、それでも貴方を悪し様に言われるのは不快だわ」
「あはは……。流石に、枢機卿に魔術を撃つわけにはいきませんしね」
普段のルキアを知るフィリップが照れ隠しに言うと、ステラが全くだと言いたげに深々と頷く。
「あぁ。止めるのは苦労したぞ? 『明けの明星』なんて、撃ってからでは私でも防げないからな」
「撃とうとしたんですね……」
ステラの口調に冗談っぽいものを感じ取り、フィリップも同調するようにけらけらと笑う。
その様子を楽しそうに見ていたルキアが、ふと眉根を寄せた。
数秒前までの怒りは無かったが、代わりに僅かな怯えと心配の色が見て取れて、気付いたステラも同じく眉根を寄せる。
「フィリップ、脇腹のところ、どうしたの?」
「え? ……あ、ジャケットが」
フィリップも言われて漸く気付いたが、ジャケットの裾がぱっくりと裂けていた。
恐らくなんて枕詞が必要ないレベルで確実に、先程のショゴスとの戦闘が原因だろう。フィリップ自身は無傷なのだが、ジャケットが翻ったときに切り裂かれたようだ。
「……どこかに引っ掛けたんだと思います。帰ったら縫わないとですね」
「……怪我はない?」
「はい。僕自身は、全然大丈夫です」
ぺろりとシャツをめくりあげて、傷一つないお腹を見せる。少々はしたないというか、紳士的とは言い難い所作ではあるが、その大胆な行為は二人の視覚に確かな安心感を与えた。
フィリップの嘘には二人とも気付いたようだが、フィリップ自身が無傷ということもあり、放っておいてくれるようだ。フィリップの『隠し事』に心当たりがあるからだろう。
「……傷といえば、トリス卿の頭のあれ、何だったんですか?」
頭から流血していたジョン・トリス枢機卿の、創傷の原因。頭の肉に痛々しく突き刺さる鉄茨の冠のことだ。
初めて見たその瞬間に聞こうとしたら、ステラに「今は止せ」と言いたげに制止されたのだった。フィリップがもう少し被虐性癖に詳しければ、そういうものかと一人で納得し、誤解を抱いたままだっただろう。
話題にするのも嫌だと言いたげに顔を歪めたルキアに苦笑しつつ、ステラが軽く思案する。
「そうだな、どこから説明すればいいか……苦行、或いは苦行浄心という言葉は知っているか?」
ふるふると首を振って否定したフィリップに、ステラはそうだろうなと頷いた。
ステラ自身は聖痕者という立場で、また国家代表として一神教に接し、次期女王として受けた教育の中でも一神教について深く学んでいる。それでも、この苦行を行う“苦行者”の存在は数えるほどしか知らないし、書籍などでもかなりマイナーな信仰の形として扱われていた。
フィリップが「知ってますよ」と頷いていたら、むしろステラの方が驚き、困惑するところだ。
「苦行とは、自らの精神や肉体を痛めつけ、時に極限状態へ追い込むこと。苦行浄心とは、苦行の結果として精神の内から悪性を消し去り、死後に天国へ行くためのプロセスや行為そのもののことを言う。……正直、猟奇的だと思うが、過去に苦行を行った聖人がいるんだ。その思想を受け継いでいるんだろうな、彼のような苦行者は」
「へぇ……変わった信仰ですね」
もともと熱心な信者という訳ではなく、更に一年半ほど前から信仰心というものが全く無くなったフィリップには、全く理解できない信仰の形だった。
カルトが邪神に対して、生命維持に必要な重要臓器、或いはもっと直接的に「死」「命」「血」「苦痛」などを捧げることがあるのは知っている。
尤も、彼らはその痛みや死を自分自身ではなく、無関係な他者から供出させる生贄という形を取ることが多いのだが──トリス枢機卿がそうじゃなくて良かった。
もしそうだったら、フィリップは「カルトと同じ町で眠るだなんて冗談じゃない」と吐き捨てて、彼を殺していただろう。
どんな手を使ってでも──何が立ちはだかろうとも。
フィリップはそう自己分析するし、それは正しい。そして、フィリップにはその在り方を否定するつもりさえない。
カルトは殺す。たとえ非人間的な行為に手を染めることになろうと、人間性を喪おうと、カルトの絶滅は決定事項だ。
「……そんなことより、何か食べに行かないか? 夕食まで、まだもう少しあるぞ」
フィリップの瞳がどろりと濁ったことに目敏く気付いたステラが、内心の狼狽を完全に覆い隠した、いつも通りの声でそう提案する。
その気遣いは、フィリップに気遣いを悟らせず、しかし意識を引き戻すという最高の結果になった。
「いいですね! じゃあちょっとお金取ってきます!」
旅行先で財布に最低限の金額しか入れないのは、何もフィリップに限ったことではない。
スリや、単純に落としたりする可能性を考えて、財布を分けたり食事代しか入れなかったりするのは、庶民としては普通のことだ。
しかし、それは富豪──というか最高位貴族と王族──にとっては異文化だった。
財布に入る程度の金額なら盗まれても懐は痛まないし、そもそもスれる距離まで近付けない。近付いたとしても、二人の警戒をすり抜けることはできない。もし仮にそれを突破できるのなら、ちゃちなスリなんか止めて、どこぞの国の諜報機関にでも属した方が何倍も稼げる。
宿に戻ったフィリップは、ややあって財布を弄びながら帰ってきた。
二十五日間のポーカー大会でそこそこ稼いだ──四分の三くらいはナイ神父からのお小遣いだが──フィリップは、旅行中目一杯遊べるだけの金額を確保している。
そもそも学院生活で金を使う場面が全くと言っていいほど無く、丁稚の頃の給料も、長期休暇で手伝いに行ったときの給料も、殆ど手つかずで残っている状態だ。修学旅行という一大イベントで、ぱーっと散財できる程度にはリッチといえる。
フィリップの財布も、普段と比べて2割増しで重いのだが、
「……? なんか、薄くないか?」
「フィリップ、ちょっと財布を貸してくれない? ……」
フィリップが「いいですよ」と無頓着に渡した財布を覗き、ルキアとステラは思わずといった風情で顔を見合わせ、財布を二度見する。
「…………」
「……え? な、なにしてるんですか……?」
徐に自分の財布を取り出したステラが、その中から何枚かの金貨をフィリップの財布に移す。総額にして、フィリップの丁稚時代の給料二か月分ほど。
「え? ……え?」
基本的に人間が自分の敵になるという意識が低く、財布に少額しか入れないのもスリへの警戒というより慣習に従っているだけの部分が大きいフィリップだが、お金の大切さは知っている。
ルキアとステラ相手なら財布を渡すことに抵抗はないし、盗まれるかもという警戒が心の片隅にも浮かばないくらい信頼していた。
だが、その逆が起こるとは想定もしていなかった。
「あのあのあのあの、な、なにしてるんですか……? なんで無言で金貨を入れるんですか……? ルキアもなんで止めないんですか……?」
怖い、と。
フィリップは初めて、ルキアとステラに対して、そんな印象を抱いた。
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