第207話
この星のどんな生物にも似ておらず、それでいて全ての生物の鳴き声を掛け合わせたようにも聞こえる、不愉快な耳触りの音。
特徴的なその鳴き声に反応したのはフィリップが最初だったが、振り返ったのは男の方が早かった。
「あ? なんの──ひっ!?」
「な、なんだ、なんだこれ!?」
男達の後ろに、いつの間にか忍び寄っていた一体のショゴス。
直径一メートルほどのタールの塊に、無数の眼球と触手を生やした醜悪な怪物。
悲鳴を上げて後退る男達ほどではないが、フィリップも苦々しく表情を歪める。
下級ショゴス──或いは、野良ショゴス。
やはり、あの一匹だけでは無かったのか。
「スライムの変種だよ。友達を連れて逃げて」
仕舞ったウルミをもう一度抜き放ち、
親切心から誤魔化したフィリップの言葉はしかし、男達には届かなかったようだ。
「お、お前、目ん玉腐ってんのか!? こんなのがスライムなワケねぇだろ!?」
「てか、こいつら連れて逃げる時間、お前が稼げよ! お前がこいつらを──、ぁ」
すごいな、と感心したフィリップの前で、二人の男が目元を抉り取られて頽れる。
蟀谷の辺りから目と脳の一部をプリンのように掬い取ったスプーン状の触手は、無数に空いた口の一つに運ばれた。
そりゃあ、ショゴスの前で戦闘態勢にもならず、へっぴり腰で叫んでいれば死ぬだろう。よくもまぁそんな愚行ができるものだと感心するフィリップの前で、ショゴスは溺水で倒れた二人の男の眼球も奪い、また別の口に入れた。
「やっぱり目が好物なのか。なんかごめんね、一個潰しちゃって」
逃げも隠れも、怯えすらせず、あまつさえ謝罪などするフィリップを、ショゴスの無数の眼が無機質に見つめる。
「僕としては、君が自分の目を抉って自分で食べるという方法をお勧めするんだけど──ところで、君は僕の臭いが気にならないの? 本能的に嫌な臭いだと思うんだけど。……被造物である君たちに、本能と知性の区別があるのかは知らないけどね?」
野良猫に話しかける無邪気さで、異形の怪物に話しかけるフィリップ。
日常と非日常、正常と異常が同居するその光景は、見る者に言い知れぬ拒否感と嫌悪感を抱かせる醜悪な絵画のようだ。
「テケリ・リ──?」
「うんうん、てけりり、てけりり。……ははは、何言ってるのか全然分かんないや。というか臭いな、やっぱり」
鳴き真似をして笑うフィリップは、確認するように周囲を見回す。
いつの間にか、あの視覚と聴覚を遮断する闇の帳が降りていた。路地裏とはいえ子供がゲロを吐いていても誰も気に留めなかったあたり、もしかするとかなり前からかもしれない。
「さて、僕も殺す? 自分で言うのも恥ずかしい話だけど、僕は結構戦える方だよ? まぁ、子供にしては、っていう但し書きは要るけどね? 無益な殺生はしたくないし、ルキアと殿下の前に出てこないって約束するなら、見逃してあげるけど」
ずぞぞ、と汚い音を立てて、ショゴスの身体から触手が生える。
都合八本の触手は全て、その先端が鋭いスプーンのように変形していた。
「……はぁ」
明確な敵対の意思表示に、フィリップは深々と嘆息する。
もう少し酔いが残っていれば楽しめたのかもしれないが、今のフィリップにあるのは嘔吐後の不快感と頭痛だけだ。
野良猫を虐めて殺す趣味のないフィリップとしては、野良ショゴスも同じく積極的な殺害対象にはならない。
ただ、ルキアやステラの目を汚すのなら話は別だし──飛び回る羽虫を叩き殺すことに、躊躇を覚える精神性でもない。
「身の程も知らない劣等存在が──っと」
ぺちりと自分の頬を叩き、外神の智慧を黙らせる。
戦うのなら、この過剰ともいえる軽視は危険だ。
「《ウォーター・ランス》」
なけなしの魔力で『魔法の水差し』を使い、頭から冷水を浴びる。
夏前でも過ごしやすい気候の教皇領では、心地よさより涼しさが強くなるが、酔いで火照った体にはちょうどいい。
脳と一緒に意識も急速に冷却されて、そんな安穏とした感想を持った自分に苦笑した。
野良猫だって、蹴飛ばせば反撃してくる。
ショゴスの攻撃力は見ての通り、野良猫以上だ。
もう、のんびりと構えている暇は無い。
深呼吸しながら全身を伸ばし、腰と肩甲骨を特に意識して柔らかくほぐす。肩から肘、手首と順に関節と筋肉の調子を確かめて、ウルミを整形し──低く構える。
直後、ショゴスが先んじて動いた。
「──!」
怪鳥の如き鳴き声を上げて、触手の一つがフィリップの顔面を狙って繰り出される。
スプーン状に湾曲した先端部が上げる独特な風切り音を、二つ聞いた。
「お、」
もう一本。
一本目が動いた直後に、僅かなラグを挟んで攻撃に参加した触手があった。
単独での時間差攻撃という意表を突く技に、フィリップはどこか感心したような声を上げる。
フィリップにとっても、外神の視座から見ても、その攻撃は全くの予想外だった。しかし──それは「ショゴスが使ってくるとは思わなかった」という意味でしかない。
一人で何十何百という攻撃を同時に展開し、厭らしい時間差を付けたり、『拍奪』封じの魔力照準をしてきたりする指導役が、フィリップにはいるのだ。
彼女の魔術に比べたら、二本の触手なんて少なすぎる。
「──っと」
半液体ゆえの不規則な軌道の攻撃、そして自由自在に変形する特性を鑑みて、大袈裟なほどに距離を取って回避する。
その回避行動を助走代わりにウルミを振るい──粘体の表面を削ぎ落す。
水袋を打ったような手応えが金属鞭を通して右手に伝わる。
真っ黒なタールが路地の壁に飛び散り、薄暗い闇の帳の中で玉虫色に反射していた。
「────!!」
痛みがあるのか、ショゴスが身悶えて僅かに後退する。
粘液で形作られた眼球と口の幾つかが、ノコギリかヤスリに抉られたように荒くグロテスクな傷に覆われていた。
「……正直、意外だな」
フィリップはぽつりと、独り言ちる。
胸にちくりと小骨が刺さったような感覚──小さな罪悪感がある。言葉の宛先はそれだ。
まさか、殺人行為には一片の躊躇も罪悪感も覚えないというのに、野良ショゴスを直接殺すことには、僅か程度ながら良心の呵責があるなんて。
心の片隅に残った人間性の残滓が原因なのか、外神の精神性と融合した果てなのかは不明だが、我が心ながらなんとも不思議な有り様だ。
「小さな命を尊ぶ精神……いや、矮小な存在を愛玩する精神、なのかな。マザーやレイアール卿と同じ」
フィリップは苦笑を浮かべてショゴスを見遣る。
あらゆる悪臭を煮詰めたような玉虫色の悪臭を放つ、タールの塊。
殺傷能力に秀でた形の触手と、無機質な光を湛える無数の眼球。
この星の上に、フィリップと、ルキアやステラと同じ星の上に存在していることが度し難いような、醜悪な粘体。
だが──
「この町でひっそり暮らしてるだけなら、殺さずに済んだのに」
フィリップが知らないところで、知らない人を殺して、その目玉を食っているだけの野良ショゴスなら、生かしておいてもいい。
少なくとも、草の根を分けて探し出し、たとえ便所の中で震えていても引き摺り出して殺す──と、カルトに対するような深い憎悪は無い。
ただ、飛んでくる火の粉は払うし、不快な羽虫も払う。火の粉の向かう先がフィリップではなくルキアやステラでも、同じことだ。
「でも、君がショゴスの成り損ない程度の存在格で良かったよ。本物だったら、僕もウルミで戦おうなんて思わないし……多分、ナイ神父もマザーも、何かしらの干渉はしてくるはずだしね」
本物のショゴスは、それこそ外神の視座から見て「フィリップを殺すに能う」と判断される怪物だ。
野生化していたら「伝説の魔物」みたいな扱いになって、その存在が周知され、最大限の警戒が敷かれていてもおかしくない。
戦闘能力だけなら、ルキアやステラ、ディアボリカなんかの方がよっぽど強い。だが、邪神でもないのに一見しただけで即発狂のリスクがあるのは十分に脅威だ。
のんびりとそんなことを考えていたフィリップの前で、ショゴスの傷付いた箇所が再生される。
修復速度はかなりのものだが、その光景は逆再生ではなく治癒の早回しと言うべきもので、負傷そのものは明確にダメージを与えているのではないかと思われた。
「急所の概念は無さそうだし、一撃必殺は見込めない。かといって、再生力が尽きるまでちまちま削っていくと日が暮れる。……お昼ご飯がまだなんだよね」
もう二、三発打擲して、上下関係を教え込んだら見逃してあげてもいいかな、と。そんな逃避交じりの甘い考えを苦労して捨て、ウルミを構え直す。
ひゅん、ひゅん、と、ウルミと触手が互いを牽制するような風切り音を交わして──今度はフィリップが、先んじて動いた。
「──ッ!」
鋭い呼気で力みを散らし、筋力ではなく柔軟性を使ってウルミを振るう。
一対一の白兵戦だが、相手は目と脳の構造が全く違う異形。攪乱の歩法『拍奪』はその効果を十全に発揮しない。
そのハンデを加味して、
「酔い覚ましには丁度いい!」
路傍の石を蹴飛ばすように簡易だと嗤い、ショゴスの表面に無数の傷を刻み付ける。触手とウルミが乱れ舞う様は、さながら舞踏のようだ。
ただし、似ても似つかないはずなのにどこか血液を想起させる黒い粘液の迸る、死の舞踏だが。
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